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2003.12.21「イエス・キリストの誕生」

ルカによる福音書2章1~14節

1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。

3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。

4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。

5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。

6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、

7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。

9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。

11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」


1.救い主イエスの誕生

 クリスマスの季節になると私たちは聖書に記されているクリスマスの物語を思い起こします。家畜小屋で生まれた幼子イエスとその幼子の誕生を祝うためにやってきた羊飼い、そして東の国からやってきた占星術の学者たちのことです。教会に初めてこられた方でも、もしかしたらこのような聖書の物語をどこかで聞かれたことがあるかもしれません。また、このクリスマスの物語を題材にして描かれた絵画をどこかでご覧になっているかもしれません。私は毎年のようにこのクリスマスの時期になりますと、私の子供たちが通っていた幼稚園に呼ばれてクリスマス会で聖書のお話しをいたします。実はクリスマスの物語を描いた生誕劇は幼稚園の園児たちがしますので、私はクリスマスのお話を直接することはありません。そのため「今年はクリスマス会でどんな話をしようか」というのがこの時期の私の大きな悩みなるわけなのです。

 このクリスマス会で私が楽しみにしているのはかわいい幼稚園の子供たちが熱心に演じる生誕劇を見ることです。この劇の台本は毎年まったく同じらしいのですが、微妙な演出の指導や子供たち自身の演技は毎年違っていてこれもまた楽しいものなのです。生誕劇の最初は、お金がなくて食事ができない家族、夫が病気なのに薬を買うことのできない貧しい夫婦が登場し、さらにその人々から冷酷にも税金を取り立てる役人たちが登場します。そして、最初の場面の終わりで登場人物たちは口々に「神様が約束してくださった救い主はいつ来られるのだろう。早く来てくださらないかしら」と叫ぶのです。


2.私たちの何を救ってくださるのか

 私はこの場面を見て少し疑問に思うことがあります。いったいこの劇の登場人物たちは「神様が遣わしてくださる救い主に何を望み、また何を期待しているのだろう」とです。もちろんこのクリスマスは救い主イエスの誕生を記念する祝典です。そこで、今日この礼拝に出席してくださっている皆さんに第一に考えてほしいことは、「救い主イエスは私たちに何をしてくださる救い主としてこの地上に誕生したのか」ということです。このことについてマタイによる福音書は記されています。ここではイエスの育て親となるヨセフの夢の中で天使は次のように語っています。

「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(1章20~21節)。

 イエスは「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者」、だから救い主であるとここでは語られているのです。聖書には「罪」という言葉がたくさん登場します。その聖書で語られる「罪」とは私たちが普通、刑法のような法律から知ることができる「罪」ではありません。簡単に説明すれば聖書の語る「罪」とは神様の御心の通りに生きることの出来ない私たちの行動、またその生き方、そして私たち自身の存在を表しているのです。皆さんはいままで刑法に触れるような罪を犯したことがないかもしれません。しかし、聖書は神の御心から見て、私たちすべての人間は「罪」を犯し続ける存在だと断言しているのです。


3.期待通りに生きられない

 アメリカの古い映画に「エデンの東」という作品があります。スタインベックという作家が書いた同名の小説を映画化したもので、若くして他界した銀幕のスター、ジェームス・ディーンが主人公を演じていることからも有名な作品です。二人兄弟の弟である主人公は優等生の兄といつも比べられて暮らしています。父親はいつも優等生の兄をかわいがり、主人公である弟に厳しく接します。主人公もまたそのような関係から父親に対して常に反抗的な態度をとって、さらに父親の怒りを買ってしまいます。「兄のように父親の期待通りには生きることができない」。そのことを主人公は一番よく知っているので彼は自分にも他人にも憤らずを得ないのです。

 ところがこの主人公はその一方で自分の父親に一度でいいから「お前を愛している」という言葉を聞きたいと願っているのです。だから、彼はその言葉を聞くためにわざわざ穀物相場でお金をもうけ、事業に失敗して金銭に困っている父親にプレゼントしようとします。そうすればきっと、自分の父は「本当によくやってくれた」と自分を褒めて、また受け入れてくれると思ったのです。しかし、父親は彼の予想に反して「こんな汚い金はいらない」と主人公に投げ返してしまいます。このように父親に愛されたいのに、父親の期待通りに生きることができないそんな苦しみを背負った主人公の姿をジェームス・ディーンは演じています。

 私たち人間は神様の期待通りに生きることができません。そのような能力を私たちは失ってしまっているのです。そのために神様の怒りを買うだけの存在となっているのです。それが聖書の言う「罪人」の姿です。ところがその一方で私たちは「神様から愛されたい」と心の深いところで願っているのです。なぜなら、私たちもまた神様に愛され、その方に受け入れていただけかなければ、生きることのできない存在だからです。


4.羊飼いに知らされたメッセージ

①私たち人間の代表

 ルカによる福音書には天使たちからのメッセージを聞いて幼子イエスに会いにいく羊飼いの姿が登場します。彼らは「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」と語られています。この言葉の通り彼らの生活は羊の世話をすることが中心で、むしろそのためにたくさんの制約を受けざるを得ませんでした。当時のイスラエルの世界では、神様を中心に生きる熱心な信仰者がたくさんいました。彼らにくらべて、ここに登場する羊飼いたちは神の御心に従うことのできない、素行の悪い不信仰者として考えられていたのです。このような意味で彼らは「神に愛されたいのに、神の御心に従って生きることができない」私たち人間の姿を代表する存在としてここに登場しているのです。そして神様はこの私たちの代表のような羊飼いたちに「救い主誕生」のメッセージを知らせたのです。


②無関心な人間と神の熱意

 この箇所の直前にマリアとヨセフの夫婦がベツレヘムの町についたときに町には彼らが止まる場所がなかったという出来事が記されています。不思議なことです。待ちに待った救い主が生まれようとしているのに誰もそのことに無関心なのです。これもまた、私たち人間の姿を表していると言えます。誰もみな自分のことだけを考えて、救い主が戸の外に立っていてもそれに気づくことができないのです。

 しかし、聖書は私たちの神はその私たちとはまったく正反対に私たちに対して終始、関心を持ち続け、その思いの中心に私たちがあることを教えているのです。神様は私たちを救うために計画を立てられました。長いイスラエルの歴史の中でその計画は預言者たちを通して語り告がれたのです。そして、その計画はこの救い主イエスの誕生を通して実現したのです。つまり救い主イエスはこの神様の愛のメッセージを携えてやってこられたのです。つまりイエスは私たちの罪を解決して、私たちと神様との愛の関係を回復してくださるためにこの地上にやってきてくださった救い主なのです。


③同じ姿に隠された愛

 戦争で両眼失明の負傷を負った若い兵士がいました。光を失ってしまった彼にとって暗闇の中で生きて行くことは絶望的なことでした。彼の母親は息子から片時も離れず看病を続けたのですが、彼を勇気づけることはできませんでした。「このままでは死んだほうがましだ」と彼が自殺を決意したちょうどそのときでした。担当医に呼ばれた彼はそこで一筋の希望を見出します。「君の片方の眼は移植手術をすれば治るかもしない。幸いきみに目を提供してくれる人が現れた。手術を受けてみないか」と。この申し出に青年はすぐに答え、移植手術が行われました。やがて月日がたち彼の包帯を取る日がやってきました。彼の顔から包帯がとかれ、彼がゆっくりと目を開けたとき、もう二度と見ることができないと思っていた光の世界が彼の目に飛び込んできました。大喜びする青年、ところが彼は次にびっくりするような光景を見て言葉も出せなくなってしまいます。そこには手術に成功した息子を喜んで見つめる彼の母親の姿がありました。ところがその母親の顔の片方の目には包帯が巻かれていたのです。青年はそのとき初めて自分に片方の目を提供してくれたのが自分の母親であることを知りました。そして今は自分と同じに片方の目を失った母親の姿を通して、どれだけ自分が母から愛されていたのかを彼は初めて知ったのです。

 神様はご自身の御子イエスに私たちと同じ人間の姿をとらせてこの地上に送ってくださいました。ですから私たちはこのイエスの姿を通して神様がどんなに私たちを愛してくださっているかを知ることが出来るのです。


2003.12.21「イエス・キリストの誕生」