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2003.12.6「義の実をあふれるほどに受けて」

フィリピの信徒への手紙1章4~11節

4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。

5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。

8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、

10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、

11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。


1.賢者の贈り物

 クリスマスが近づくと皆さんもたぶんクリスマスに贈るプレゼントが気になってくると思います。子供たちは両親やサンタクロースから今年のクリスマスプレゼントに何がもらえるかを楽しみに待っています。またその一方で、両親たちは子供たちに今度は何をプレゼントしたらよいか悩みます。私はこの季節になるとアメリカの作家O・ヘンリーの書いた短編小説『賢者の贈り物』を思い出します。もともと、「賢者の贈り物」とは東の国からやってきた博士たちが幼子イエスにささげた贈り物、つまり「黄金、乳香、もつ薬」のことを言っているのですが、この小説にはその博士たちは登場しません。かわりに、大変貧しい夫婦がこの小説には登場します。この夫婦はクリスマスのプレゼントに互いに何を贈ろうかと思案します。実は彼らが相手に贈りたい品物は最初から決まっているのですが、残念なことにこの夫婦はお互いにそれを購入するお金がありませんでした。妻は夫のために彼が大切に持っている親からもらった時計のその鎖を買ってあげたいと考えています。一方で夫は妻の長く伸びた美しいブロンドの髪の毛をとかす櫛(くし)を買ってあげたいと考えているのです。そこで、妻は決心して自分の大切にしている髪の毛を売って、その資金を工面し、時計につける鎖を買い求めます。さらに夫は自分のもっていた大切な時計を売って、妻のためのくしを買い求めるのです。夫婦はプレゼントを交換する段になってはじめて、自分たちが愚かなことをしてしまったことに気づきます。時計を持たない夫にプレゼントされた鎖、髪の毛を失った妻にプレゼントされたくしだけがそこに残っています。いまはどちらも役はたたない品物です。しかし、この小説はこの貧しい夫婦がもっともふさわしいプレゼントを交換し合ったと称えて終わるのです。


2.パウロとフィリピの教会の関係

 フィリピの手紙を読むと、パウロがこの手紙を書いたきっかけがフィリピの教会から彼の元に送られた贈り物から始まっていることがわかります。当時、パウロはローマの監獄につながれていたと考えられています(1章12~14節)。彼が投獄されたのは彼が犯罪を犯したからではありません。イエス・キリストの福音を宣べ伝えるパウロの行動を快く思わない人々に訴えられ、彼は自らの潔白を弁明するためにローマまで送られ、そこで獄につながれていたのです。

 このパウロの近況が現在のギリシャに位置するフィリピという町に建てられた教会に知らされます。そしてその知らせを聞いたフィリピの教会の人々は獄中にあるパウロを励ますために贈り物を贈ります。彼らは自分たちの仲間エパフロディト(4章18節)にそれをもたせて、ローマのパウロのもとに届けさせたのです。

 私は何度もお話するように神学校を卒業した後、青森県の三沢市という米軍基地で有名な町にあった教会に遣わされました。教会といっても教会員が一人もいない、教会堂と宣教師館とキリスト教キャンプ場といった建物だけを持った不思議な「教会」でした。三年半そこで働きましたが、一人の教会員も与えられない、そのような意味でとても孤独な境遇に置かれました。実はそのとき神学校時代にとてもお世話になったご夫妻が大阪におられて、そのご夫妻がよく三沢に住む私のために様々な食品を送ってくださったことを思い出します。送ってくださった食品も美味しくいただいたのですが、それ以上に自分のことを忘れないでいてくださる方がいるということがどんなにその当時の私に励ましになったか分かりません。今思えば、あのときはとても孤独な生活でしたが、このご夫妻のように遠くから自分を支えてくれる方々がいたからこそ私は牧師として生きていくことができたのだなと思うのです。

 私とは違ってパウロは勇敢ですばらしい才能に満ちた伝道者でしたが、やはりフィリピ教会の人々の贈り物は彼を励まし、彼の獄中での厳しい活動を支える原動力になったのではないでしょうか。おそらくパウロもまた、贈られた贈り物自身ではなく、それを自分のためにわざわざローマまで届けてくれたフィリピの教会の人々の愛に励まされたのではないでしょうか。

 このようなすばらしい贈り物を受け取ったパウロですから、自分もまた彼らに何かの贈り物を送りたいと思ったにちがいありません。しかし、彼に何が贈れるというのでしょうか。彼は獄中の人で何も持ってはいません。ところが彼には確かにフィリピの教会の人々に贈るべき物があったのです。それはパウロのもっとも大切にするものであり、またフィリピの教会の人々に最もふさわしい贈り物であったのです。実はこのフィリピの手紙の中にはそのパウロが贈った贈り物の目録がしるされていると考えてよいのです。


3.パウロの贈った贈り物

①確信に満ちた感謝

 今日の部分ではパウロがフィリピの教会の人々に贈った贈り物が大きく分けて三つの面で記されています。

「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(4~6節)。

 最近、韓国から「説教例話集」というのを何冊も買い求めて、暇があるとそれを読んでいます。この間この教会で説教してくださった小堀先生のように豊富な例話を適切に語るのはたいへん難しいことです。しかし、実はこのような例話集を実際に使用するのも説教者にとってはさらに難しいことなのです。数日前に読んだところにはこんな不思議な例話が載っていました。

 あるところに双子の子供がいました。一人は不満だらけで、何についても不平を言う子供です。もう一人はいつもよろこんでいて、何にでも感謝する子供であったというのです。ある日、この双子の両親は彼らを試すために次のようなプレゼントをします。不満だらけの子供にはゲーム機を、もう一方の感謝する子供にはなんとウサギの糞が入った空の箱をプレゼントしたと言うのです。

 不満だらけの子供はプレゼントを受け取るとすぐにこう言いました。「このゲーム機、最新式のものじゃないよ。お父さんは流行遅れなんじゃない」と。ところがウサギの糞が入った箱を受け取った息子は目を輝かしてこう両親に尋ねたというのです。「ねえ、ここにウサギの糞が入っているということは、ぼくのためにお父さんウサギを買ってきてくれたんたんだね。お父さんありがとう。うさぎどこに隠れてるの…」。

 「次の日からこの家族にあたらしくウサギが加わった」という文章でこの例話は終わっています。この例話集には他に説明がありません。しかしよく考えて見ると、不満だらけの息子はもらった贈り物だけを見て文句を言い、それをプレゼントしてくれた父親を少しも信頼していません。ところが、もう一方の子供はもらったものがどんなにつまらないものでも、それを贈ってくれた父親を信頼しているので、彼は父親が自分にとって最もよいものをプレゼントしてくれたと喜び、実際にそのすばらしいプレゼントを受け取ることができているのです。

 パウロはここで同じようなことをしています。実はこの手紙を読むとフィリピの教会にはいいろいろな問題がありました。たとえば深刻な人間関係の不和がありました。そしてそれに付随した様々な問題があったのです。ですからフィリピの教会は完成した教会ではありません。未完成の欠けの多い教会だったのです。しかし、パウロはこの教会を作り、また導いてくださっている神様を信頼しています。ですから彼は必ずこの教会を神様は完成にまで導いてくださると信じているのです。そしてパウロはそれを先取りしてここで感謝をささげているのです。現実のフィリピ教会だけを眺めているなら、これもだめ、あれもだめと不平と不満があふれてくるかもしれません。しかし、パウロは神様を信頼し、そのみ業を先取りして感謝をささげることができたのです。

 私たちの教会も未完成の教会です。そこに集う私たち一人一人の信仰者の歩みも未完成のものです。現実の自分の姿だけを見つめているなら、そこには少しの感謝も生まれず、また希望も与えられません。しかし、パウロはこの私たちに第一の贈り物として神様を信頼することのすばらしさを薦め、「神様に期待しないさい。神様はきっとあなたたちを完成まで導いてくださる」と教えているのです。


②キリストの愛

 さて次にパウロがフィリピの教会の人々に贈ったプレゼントは「キリストの愛」です。 「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」(8節)。

 パウロはどんなに強い愛をもってフィリピの教会の人々を愛しているかをここで語っています。それが言葉だけではなく本当にそうであることを彼はわざわざ神様を証人に立てて論証しているのです。ここで関心を引くのはパウロが自分のフィリピ教会の人々への愛を表現するために「キリスト・イエスの愛」という言葉を使って語っているところです。これはどういう意味を持った言葉なのでしょうか。一番、普通に考えられるのは「キリスト・イエスの愛」の模範に従った「愛」となるかもしれません。つまりパウロはキリストの愛を模範としてフィリピの教会の人々を愛していたと言うことになるのです。

 興味深いのはこの後でパウロはフィリピの教会の人々にも自分と同じこの愛を持ってほしいと薦め、望んでいるところです(9節)。しかも、パウロはこの愛の効用についてここで「重要なことを見分けられる」ものだとも語っているのです。

 先日、日本では衆議院選挙が行われました。いつものことですが、選挙が終わる次には選挙違反をした人への捜査が始まり、たくさんの人が逮捕されます。私が新聞を読んでいて思うのは、選挙違反で捕まる人の大半が選挙で落選した候補者であったり、またその運動員が多いということです。もちろん当選者の中にもそのような人がいるのですが、それよりも落選者のほうが多いのです。おそらく、当落線上にある人は何をしても当選したいという願いが出ますから、このような違反を犯すケースが多くなってくるのだと思うのです。つまりこのような危機的な立場に立たされるとき人間は正しい判断を失ってしまうことがよくあるのです。

 「キリストの愛」という言葉について考えるとき、それはむしろ私たちに対するキリストの愛と考えるのが一番ふさわしいのではないでしょか。私たちはこの「キリストの愛」について次のようなことを考えることができます。神様の裁きの前に私たちは当落線上ではなく、必ず落選すると分かっているような絶望的な候補者なのです。そのため私たちはいつも恐怖に捕らわれて正しい判断をくだすことができません。しかし「キリストの愛」とは私たちをこの神様の前で義なる者、ふさわしい当選者としてくれるものなのです。ですから、このキリストの愛を受けた者はもはや何も恐れることがありません。恐れるものがありませんから、いつでも正しい判断を下すことができるのです。

 パウロはこのキリストの愛の体験者でした。だから彼は獄中にあっても恐れから解放され、正しい判断をもってフィリピの教会の人々に接し、またその愛を伝えることができたのです。パウロはフィリピの教会の人々にこの恐れから解放され、正しい判断のできる基となるキリストの愛を提供し、贈り物として贈っているのです。


③キリストの義の実

 さて、最後にパウロがフィリピの教会の人々に贈った贈り物は「キリストの与えてくださる義の実」です。

 パウロは今日の箇所の最後のところでフィリピの教会の人々が「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者」(10節)になるようにと勧めています。これは言葉を変えて言えば、彼らが神様にふさわしい者となってほしいとパウロは願っていたということになるでしょう。もし、皆さんがこのような勧めを受けたらどのようにお考えになるでしょうか。いえ、実はこのパウロの薦めは今日、この聖書を読んでいる私たちにも語られていると考えるのがふさわしいのです。そのとき、私たちはもしかしたら私たちの毎日の信仰生活と私たちの素質を考慮して、「それは無理です」と言いたくなるかもしれません。しかし、パウロはここでこの勧めを実行する根拠を私たちに見間違えてはいけないと教え、その正しい根拠を示していることを忘れてはならないのです。それがここに記されている「キリストによって与えられる義の実」という言葉です。

 キリストは私たちのために十字架の上ですべてのことを成し遂げてくださいました。そしてキリストが成し遂げてくださったものを実際に私たちの人生の上に実現してくださるのは聖霊なる神様の働きなのです。私たちの信仰生活は私たちの自己修養や研鑽によって成し遂げられていくものではありません。すべて、キリストが成し遂げてくださった義の実を聖霊を通して私たちの人生でいただいていくことが信仰生活の大切な要素なのです。ですから私たちたちの信仰生活の根拠はイエス・キリストの十字架の中にすべて隠されているのです。そして聖霊なる神様はその十字架の恵みを私たちの信仰生活の上に日々、実現してくださるのです。パウロはこの聖霊の恵みを受けることが私たちの信仰生活であるとここで教えているのです。

 パウロは私たちに乏しい自分の姿を見るのではなく、このキリストの与えてくださる義の実によって豊かに祝福されなさいと私たちに教えています。パウロが与えようとした贈り物はこのように三つともキリスト・イエスとその方を私たちのために送ってくださった神様から来ています。だからパウロは獄中にあっても、それをフィリピの教会の人々に贈ることができたのです。そして私たち信仰者はパウロと同じようにどのような状況の中でもこのようなすばらしい贈り物を友や家族に贈ることができる者とされていると今日の聖書は教えてくれるのです。


2003.12.6「義の実をあふれるほどに受けて」