2003.2.2「万民の救いとなる」
ルカによる福音書2章25~38節
25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
31 これは万民のために整えてくださった救いで、
32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、
37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、
38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
1.過去・現在・未来の悪循環
①「楽しいことなど人生に一度もなかった」と語る父親
私が家内と結婚していくらもたたないころ、私たちはそろってカウンセリングの研修会に出席したことがあります。私がカウンセリングを学び始めたきっかけは牧会をしながら自分が様々な問題にぶつかり、その必要性を感じたからです。今でも私は結婚してすぐにこのような学びを私たち夫婦が共に受けられたことはとてもよかったと思っています。ですから、できればこれから結婚するカップルはもちろんのこと、古くなったカップル(?)でもこのような学びの場に参加されることをお勧めしたいのです。
とにかく皆さんがこのような学びに興味を持たれるかそうでないかは別として、私にはそのときの学びで体験したたいへん忘れられない思い出があります。その研修会ではカウンセリングの理論を学ぶと共に、実際に「ロールプレイング」と言って何度も実際のコミュニケーションの仕方について練習をするプログラムが組み込まれているのです。その学びのたいへん初期の段階で私たちは「傾聴」といって相手の話に心から耳を傾ける訓練をすることになっていました。私たちは近くに座っている人と二人一組になって話し手と聞き手を交互に換えながらこの実習を行うのです。ちょうどそのとき研修会の講師は参加者たちに「お互いに人生で一番楽しかったことについてお話ください」という指示を与えました。そして私とペアを組んだ相手は年配の男性でした。私は講師に指示されたようにその人に「それでは人生で一番楽しかったことについてお話しください」と切り出してみました。ところがその人は私の質問に中々答えようとしません。しばらくしてその人は本当に悲しそうな顔をしながら「私の人生で楽しかったことなど一つもありませんでした」と答えたのです。私はその答えにビックリしてしまいましたが、「頷きながら熱心に相手の話に耳を傾けるように」という講師の教えの通り、その人の話に耳を傾けることにしました。やがて分かったのは、その人にはまだ若い娘さんがおられて、その娘さんが心を病んでいて、いままでそのお父さんはそのお嬢さんのためにいろいうなことをしてきたのだそうです。そしてこのカウンセリングの講習会にも「娘さんが「参加したい」というのでついてきた」と言うのです。その人は娘さんのために自分が今までどれだけ苦労して、苦しんできたかを語られました。そして「そんな自分の人生には楽しいことなど一つもなかった」と語られたのです。
人の心とは大変不思議な仕組みを持っています。辛い現実に出会うとき、人間はその今の自分の実像にあった、過去の経験だけを収集して、その実像にあわない経験は忘れしまい、今の自分にぴったりの過去を再構成した上で、「こんなに不幸なのは当たり前だ」というのです。この男性も「一度も楽しいことがなかった」というのは、そういう経験が一度もなかったというより、そのような経験を思い出すことができなほどに、今、辛い現実にぶつかっているからなのです。そのようにして人間は今の自分にあった過去の体験だけを選びだして、再構成させ、今の自分の実像を強化させてしまうのです。「今までも不幸だったし、今も不幸だ」。そして更に「これからも不幸になるに違いない」と自分の人生が一貫して不幸であることを証明しようとします。
②神を見失った人々に語られるメッセージ
私たちにとって信仰の危機とはどのようなときに起こるのでしょうか。それは私たちが耐え難いような辛い現実にぶつかったときにです。そして私たちもそのとき自分のぶつかった辛い現実に合うように「私たちの過去も同じような辛い体験の繰り返しだったと」と心の再構成を行ってしまうのです。それは具体的には神様が私たちの人生に関わってくださって様々な恵みを与えてくださったことをすべて忘れてしまうことから始まります。当然、そのような状況の中で私たちの信仰生活の中から神様への感謝が失われていきます。むしろ、それとは反対に「神様はどうして私をこのように取り扱われるのか」という不満が心の中を支配します。そしてそのようにして神様との信頼関係が崩れて行き、これから起こる様々な出来事に対しての不安が私たちの心に襲い掛かるのです。
実は「信仰の民」として神様に選ばれたイスラエルの民も絶えずそのような信仰の危機に襲われていました。「神様を信じればすべての問題がなくなる」と考えるような人の見方を否定するように旧約聖書にはイスラエルの民がどのような苦難に合わなければならなかったかが、沢山記されています。いい加減な信仰生活を送っている人なら、別として、「どうしてこんなに一生懸命に神様を信じている自分達が酷い目に遭い、神様を信じない人が良い目を見ているのか」と彼らは苦しみました。そして厳しい現実と信仰のスランプに陥った人の中でたくさんの人が神様を信じることをやめて行ったのです。そしてその一方で、なお神様を信じ続けようとする人々に旧約聖書の預言者たちは「神の慰めが必ず与えられる」というメッセージを伝えました。その一人マラキは今日の聖書の箇所で「契約の使者」(3章1節)つまり、私たちの信仰が無駄ではなく、また偽りではないことを証明する証人が私たちの元に使わされると預言したのです。
2.キリストに出会って、過去を変えられ、未来に希望を持つ
①生きている意味を見出したシメオン
マラキはその預言が「聖所」(3章1節)、つまりエルサレムの神殿で実現することを語りました。実はこの預言こそが今日の福音書に登場するシメオンとアンナという二人の老人がエルサレムの神殿に毎日のように出入りし、またそこに留まり続けたのかという理由を語っているのです。
「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」(25節) 。ここでシメオンが「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」と語られています。これは先ほど語ったようにシメオンが「自分達の信仰が無意味ではなかった事、神様の約束が間違いなかった」ということを確信できるときを待っていたということを説明しています。
シメオンはその日を待ち望んでいました。そしてこの日にヨセフとマリアによって神殿に連れてこられた幼子イエスに出会うことで、彼は「それ今、実現したと」と喜んだのです。シメオンは語ります「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」(29節)。彼はここで自分の死を望んでいます。私はこのシメオンの言葉が「とても寂しいものだな」と思ったことがありました。しかし、この言葉は決して寂しい言葉ではありません。むしろ、彼が最高の喜びに満たされていたことを語る言葉なのです。「自分はとても幸せだ。もう思い残すことはない。いつ死んでもよい」。私たちが私たちの人生で、もしこのような言葉を語れるとしたらどんなに幸いなことでしょうか。
黒澤明監督の映画『生きる』に登場する主人公は自分が胃がんに犯されて、余命があとわずかしかないと悟ったとき。本当に生きるとはどのようなことなのかについて悩みはじめます。残された人生を本当の意味で生きたい。そのように願う主人公は最後にその本当の生き方を見出して、暗い公園のブランコに揺られながら、しかし、心は晴れ晴れとして最後のときを迎えます。シメオンもそのような経験をイエスとの出会いで体験したのです。「自分の今までの人生は無意味ではなかった。いや、神の祝福の中に生かされていたのだ」ということをイエスに出会うことを通してシメオンは知り、喜びに満たされたのです。同じように私たちがイエスに出会い、イエスの救いを受けるとき、不幸だった自分の人生は、すべて私の救いのために、祝福のために準備されたものであることを知ることができるのです。なぜなら、神様は私たちを生まれる前から愛し、私たちのためにイエス・キリストを遣わして、永遠の命へと導いてくださるからです。イエス・キリストと私たちの出会いは私たちの今までの人生がこの神様の愛を受けるための祝福に満たされた旅路であったことを証明するのです。
②希望をもって出ていくアンナ
この同じ聖書の箇所にはやはりシメオンと同じような体験をしたもう一人の人物が続けて登場します。彼女の名前はアンナと言います。聖書は彼女の身の上をシメオンよりも詳しく説明しています。「若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた」(36~37節)。この箇所を読むと彼女が自分の人生をどう考えていたかはともかくとして、幸せに薄い人であったように私たちには思えます。
私が幼い頃、私の母の実家の離れに一人の年老いた婦人が住んでいました。その婦人は母の実家とどんな関係にあったのか私には分かりませんでした。幼い私には何も分かりませんでしたが、その婦人はとても寂しそうな人に思えました。私は今でもその婦人の住む離れの部屋に大切に飾られていた何枚かの写真を思い出します。とても立派な軍服をきた若者達の写真がその部屋のたんすの上には飾られていたのです。おそらく母か祖母に私は聞いたのだと思いますが、その写真はその婦人の息子達を写したもので、皆、頭がよくて有名な大学で学んだ後、学徒出陣で戦争に赴き戦死してしまったのです。その婦人は頼りにしていた息子達に先立たれ一人ぼっちでそのとき生活していたのです。
当時のイスラエルの女性たちの結婚年齢は現在に比べて、たいへんに早いものだったと考えられています。つまり、ここに登場するアンナは若くして嫁ぎ、僅か七年の結婚生活を送ったあと、夫に死に別れて、そのあと八十四歳まで一人ぼっちの生活をしていたことになります。ところが彼女はそのような境遇にありながらも神への信仰を捨てることがなく、むしろ神に仕え続けたのです。そして、その彼女がイエスと出会ったとき、彼女は「そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」(38節)と語られているのです。人生がどんなに不幸かを証しするような運命を背負っていたアンナはむしろここで人々を慰め、希望を語る人物に変えられています。幼子イエスとの出会いが年老いた彼女の人生を変えるのです。
イエス・キリストとの出会いはこのように私たちの現在がたとえ過酷な問題にぶつかっていても、またその人生の歩みが不幸の連続に襲われていたように思えても、それを変えて私たちの心を癒す力を持っていることをこの二人の物語は私たちに教えています。
3.私たちの弱さを知ってとりなす大祭司
①すっきりする人生相談の問題点
私たちは人生で様々な問題にぶつかります。八方手を尽くしたがどうにもならない。そんな深刻な状況に追い込まれたとき、私たちは様々な人に助けの手を求めることになります。そして、助けを求められた人々は私たちの質問に答えて、いろいろなアドバイスを贈ってくれます。しかし、そのようなアドバイスが本当に役に立つのは結構まれなケースで、むしろ多くの場合は私たちの心をさらに落ち込ませることがあります。
テレビを見ていると出演者たちが、相談の回答者になっていろいろとアドバイスを与えていることがあります。「そんなご主人とは別れてしまいなさい」。回答者たちは気持ちよいほどにすっぱりとその相談者にアドバイスします。しかし、それで本当に解決がつくのでしょうか。「その相談者はそんなことは分かっているけれど、それができなことに悩んでいるのではないか」と私は思うことがあります。たくさんのアドバイスを聞きながらますます私たちの心が落ち込んでしまい、希望を失ってしまうのはそこに原因があります。悩む私たちにとって肝心なのは新しい方法ではなく、それを成し遂げることができる力がどこから来るかということなのです。そして、テレビの回答者はブラウン管の向こう側でその質問者の悲しみや苦しみを感じることなく、簡単に気持ちのよいアドバイスを与えているのです。
②弱さを知りとりなすイエス
新約聖書のヘブライ人への手紙には私たちの救い主イエス・キリストについて次のような説明が登場します。
「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(2章17~18節)。
ここには神の御子がどうして私たちと同じ人間としてこの地上にお生まれになられたかという真理が語られています。私たちの主イエスは私たちを救うために人となられました。しかも、ここには主イエスと私たちとの関係が決してあのテレビの回答者たちと相談者の関係のようでないことを語っているのです。イエスはブラウン管の向こう側から、あるいは天国の雲の上からこちらの苦しみも良く知らないでアドバイスを次々と送ってくるような方ではありません。彼は自らすすんで私たちと同じ試練を受けられたのです。だから私たちのことを助けることができる方なのです。
私たちの主イエスは試練に出会う私たちのことを一番よく理解して下さる方です。そしてイエスはその上にたって私たちをとりなしてくださるというのです。「神様、彼はまた失敗してしまいました。でも私は彼の気持ちが誰よりもよくわかります。だから彼に代わって、私が十字架であなたに命を捧げたのです。どうかその私の願いを聞き入れて、彼を赦し、彼に力を与えてください」。私たちの救い主はこのような方として試練に出会う私たちのためにいつもとりなしてくださる方なのです。そしてこのようなイエスに信仰の目を向け、心を開く者は辛い問題や激しい試練の中でもその助けを十分に受けることができると聖書は私たちに教えているのです。