2003.2.9「わたしは宣教する」
マルコによる福音書1章29~39節
29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
33 町中の人が、戸口に集まった。
34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、
37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
1.ヨブの苦難
①どうして苦難を受けるのか
高校生のとき私は岩波文庫から出ていた旧約聖書を熱心に読んだ覚えがあります。それは旧約聖書の研究家で有名な関根正雄という人が訳したヨブ記の分冊でした。当時、私は教会にも言っていませんでしたので、キリスト教についてほとんど正しい知識を持っていませんでした。「聖書には何か自分の人生に益になる優れた教えが書かれているにちがいない」という漠然とした気持ちでその本を手にした記憶があります。しかし、高校生の私にはヨブ記に書かれている難解な思想をほとんど理解することができず、「こんな文章も聖書の中にはあるのだな」というくらいの感想しか残りませんでした。おそらく、ヨブ記は旧約聖書の中でも難しい書物のひとつとして取り扱われているのではないでしょうか。しかし、それでもなおこのヨブ記は多くの人々の関心を集める書物であるともいえるのです。なぜなら、この書物には私たち人間が直面する「苦難の問題」が取り上げられているからです。
どうして私たちの人生にはさまざまな苦難が生じるのでしょうか。苦しみとは無縁の生活をしている人は別ですが、いや、そんな人はいないかもしれませんが。ほとんどの人は自分の人生でさまざまな苦難に出会うとき、「どうして自分はこのような苦難に出会うのだろうか」と疑問に思うはずです。また世界の宗教のほとんどはこの苦しみの問題に取り組み、それぞれ何らかの答えを提示しています。牧師をしている私も、たびたに「苦難がどうして起こるのか」また「苦難の意味」について問われることがあります。精神病院に入退院を繰り返している、私の古い友人は最後に私と電話で話したとき「最近、ヨブ記を研究している」と言っていました。私はそんな苦しみの真っ只中にある人に、どう答えていいのかいつも悩んでしまうものですが、そんなとき「決して、ヨブの友人のようにはならないように」とだけ心がけているのです。
②神だけが知っていてくださる
ヨブは神を信じる正しい人でしたが、ある日、突然に家族と全財産を奪われるという苦難に直面します。しかし、ヨブの苦難はそれで終わったのではありませんでした。むしろそこから彼の苦難は始まったと言うのが正しいでしょう。やがて、彼自身も全身、重い皮膚病に冒されて、死を願うほどの苦しみに落とされるのです。ヨブのそのような苦難を聞きつけて、彼の古い友人が彼のところに遠くから訪れ、なんとか彼を励まそうとするのですがこれがヨブの苦しみをさらに深めるものとなっていきます。一時はヨブの姿に同情して、何の言葉も発することのできなかった彼らでしたが、そこでヨブの気持ちに耳を傾けるのではなく、彼らが持っている苦難についての解釈を語り、ヨブを説得しようとしはじめたのです。
むかしから「因果応報」という言葉があります。物事には必ず、それが起こる原因がある。しかも、それがよい結果なら良い原因があり、わるい結果ならわるい原因があると考えるものです。ヨブの友人たちはこの考え方に立って、彼がこのような苦難に出会うのは彼がなにか過ち、つまり神様に対して罪を犯したからに違いないと、苦しむヨブに悔い改めを迫ったのです。
このような考え方は現代の社会でも生きていて、さまざまなところで顔をだします。有名な霊感商法のセールスマンは「あなたが不幸なのは、あなたが過去に悪いことをしてきたからだ」と語ります。それでも説得できない人には「あなたの先祖が悪いことをしたためです」といって、その因縁から解放されるようにと高い壷や印鑑を売りつけるのです。不思議なもので、そのような方向から攻められると人間は「もしかしたら」と思わされてしまうのです。しかし、聖書はヨブが正しい人で、罪を犯してはいなかったと読者に説明しています。ですからヨブ記は昔から「苦難の問題」に答える解釈として考えられてきた「因果応報」思想では、必ずしも「苦難の問題」のすべてを説明することができないことを私たちに教えている書物だといえるのです。
今日のヨブ記の箇所では誰にも自分の苦しみを理解してもらえない、ヨブが語った独白が記されています。ここで彼は自分の人生が奴隷が苦役のときを送るように耐えがたいものであることを語っています。しかし、興味深いのはこの部分でもヨブは神様に「忘れないでください」と呼びかけています。深刻な苦難の中で誰にも理解されないで苦しむヨブでしたが、しかし、彼の発言は進めば進むほど、不思議なことに神様に向かって「あなただけが、私のことを理解してくださるはずだ」という信念に発展していくのです。
2.イエスの行動
①ペトロの姑の癒し
私たちは神様を肉眼の目で見たことがありません。おそらく、天から聞こえてくる神様の声を耳で聞いたという人もいないはずです。イエスの弟子の一人はあるとき「自分に神様を見せてください」とイエスに願い出たことがあります。そのときイエスは彼に「私を見たものは神様を見たのだ」と語られたのです(ヨハネ福音書14章8~9節)。このイエスの言葉から、私たちが本当の神様の姿を見たいなら、その言葉を聞きたいと思うならイエスの行動と言葉を通してそれを知ることができるということが分かります。ですから「いったい神は私のことをどのように思われているのか」。そのような疑問が私たちに湧くとき、私たちはイエスの言葉と行動にその答えを求めるべきなのです。
イエスはガリラヤ湖で猟師をしていた二組の兄弟を弟子として招かれた後、「会堂」というユダヤ人たちの礼拝の場所で「汚れた霊に取りつかれていた男」を癒されました(21~28節)。この日は安息日といってユダヤ人たちは「神様を礼拝する以外は何もしてはいけない」と禁じていた日でしたが、その習慣をイエスは破ってまで苦しむ一人の男に手を差し伸べられたのです。
このお話に続くのが今日の朗読箇所です。ここでイエスは熱に苦しんで床に臥していたシモン(ペトロ)の姑の病を癒されています。ここの聖書の箇所からペトロが妻帯者であったことがわかります。なぜなら、病気をしていたのはペトロの奥さんの母、姑だったからです。そして網を捨てイエスの弟子となるために従ったペトロでしたが、彼はそのまま自分の家族とは無縁になってしまったのではなく、むしろ彼の家族がみなイエスの支援者になっていたことがわかるのです。おそらく、休息をとるためにイエスはよくこの家を利用されていたのかもしれません。ところがその家でいつも客の面倒を見るはずのペトロの姑が現れません。彼女は熱を出して床に伏せっていたのです。人々がそのことを告げるとイエスはわざわざペトロの姑の寝ている場所にやってきて、手をとって起こされました。すると彼女の熱は引き、癒されたというのです。続けて「彼女は一同をもてなした」(31節)と語られていますが、この姑の行動は動作がずっと継続されているときに使われる言葉で表現されています。この言葉からこの箇所はペトロの姑がこのことを通して、イエスに仕えるようになったこと、つまり、イエスの弟子となったということを伝える箇所だと考える人もいます。彼女はこの出来事を通してずっとイエスとその弟子たちのために働き始めたということになるのです。
②苦しむものを助けるイエス
ペトロの姑の病気がどのようなものであったかはっきりはわかりません。私たちもよく風邪をひいて、体調を崩して、熱を出して床につくことがあります。もしかしたら、彼女もそのような日常的に起こりうる簡単な病気だったのかもしれません。私もよく熱を出すことがあります。たいした熱ではありませんが、それで予定していた仕事ができなくなるときがあります。そんなとき元気にバリバリ仕事をしている人を見ると、自分が情けなくなるときがあります。「どうして自分は体が弱いのかな」と思ってしまうのです。そうすると病気をしながら誰かに裁かれているような気になって、ゆっくり休むこともできません。
しかし、イエスはすぐに熱に倒れたペトロの姑の手を取って癒してくださったのです。「しっかりしろ。病気をするのはお前の気がたるんでいるからだ」などとイエスは言われませんでした。彼は真っ先にその人の病気が直ることを願われ行動されたのです。イエスの業はこれでは終わりません。うわさを聞きつけてやってきたたくさんの人々の病気を癒し、悪霊を追い出されたのです。イエスはこの行動を通して、「これか神様の私たちに対する思いだ」と教えておられるのです。
ヨブの友人たちが語った因果応報説に登場する神様の姿はあくまでもニュートラルで、中立的立場に立つ神様の姿です。人が悪いことをすれば悪い報いを与え、良いことをすれば良い報いを与えます。「そのような結果を招いたのはあなたの責任であって私には関係ない」というような神様の姿です。ところがこの箇所でイエスが示された神様の姿は大きくことなっています。神様は私たちの苦難を高みから傍観されている方ではありません。すすんで私たちの傍らにやってきてくださって、私たちを苦難から解放してくださる方なのです。そしてその神様の姿は私たちが永遠の命を得るために、イエスを遣わしてくださったのところにさらにはっきりと表されています。
3.パウロの活動を動かしたもの
①パウロの動かしたもの
キリストの福音を宣教するために熱心に働いたパウロは一方ではたいへんな苦難を背負った人であったとも言えるでしょう。彼はキリストの福音を伝えるためにさまざまな苦しみに出会いました。新約聖書には彼が体験した苦難のリストが書き記されています(第二コリント11章23~29節)。また彼は身体にも大きな不安を抱えるような弱さを持っていると語っています(第二コリント12章7~8節)。そのような数々の問題を背負いながらもパウロは決して人生で立ち止まってしまったり、後戻りすることはありませんでした。彼は神様から与えられた自分の人生の時間を十分に使うことができたのです。そしてその秘訣の一端を彼は自らが記した手紙の中で明らかにしています。
「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」(16~17節)。
もし彼が自分の置かれた境遇に不満を抱き、我慢して福音を伝えていたのなら、彼はきっと我慢してがんばっている自分を誇りたいと思ったはずです。しかし、彼は「自分は誇れない」といっているのです。それは彼の人生が自分の力ではなく、神様の人生によって動かされていたからです。パウロはまず神様の福音に捕らえられ、そしてその福音に押し出されるように伝道活動を続けたのです。それは先ほどの箇所で言えばペトロの姑が癒されて一同をもてなし始めたことと同じです。イエスの癒しとその愛を体験したものは、その喜びのためにじっとしてはいられなくなるのです。イエスのために働きたい、そしてこの愛をすべての人に伝えたいという思いが心の中から湧き出して、私たちを動かしていくのです。パウロはその力によって自分は生かされてきたとここで語っているのです。
②運命の奴隷でなく、神の恵みに信頼して
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」(19節)。
私たちがこの人生で喜びをもって生きるためには、まず私たちがキリストによって今、あらゆるものから自由にされる必要があるのです。私たちのいままでの古い生活はさまざまな力によって支配され、奴隷のような生活を送ってきました。私たちは人々の目を恐れます、彼らの好意を得られなければ自分は生きている価値がないと心配してしまうのです。そして悪魔が私たちの人生を支配して、罪と滅びへ導いていこうとします。ですからこれから自分の人生にどんな災いが降りかかるか不安でならなくなってしまうのです。ところがイエスは私たちをそのすべてから解放し、自由にしてくださったのです。イエスは十字架の死をもって私たちがどんなに神に愛されているのかを教えてくださいました。またその死を通して私たちを支配する罪と悪の力からすべて解放してくださったのです。パウロはそのような自由が私たちに与えられているからこそ、私たちは自分の人生を大切なことに使うことができると言っているのです。
私たちの人生に苦難が起こることは確かです。しかし、私たちの人生はつねにイエス・キリストが待つゴールへと向かっていることを私たちは知っています。なぜなら、私たちのためにイエスは救いのみ業を成し遂げてくださったからです。風に逆らうものはその力によって倒れます。しかし、船の帆は風の力を受けて目的地へとすすみます。私たちの苦難も私たちをさらにイエスに近づけために神様が贈ってくださったものと私たちは信じたいのです。