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2003.3.2「花婿が一緒にいて」

マルコによる福音書2章18~22節

18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。

20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。

21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。

22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」


1.子供の持つ不安

 私の子供達はどちらも親の不注意から買い物途中で迷子になってしまった経験があります。娘のお話は以前にもしたと思います。こちらも気づかないままどこかにいなくなってしまい、店内放送で「4歳のかをりちゃんというお子さんがお父さんとお母さんを探しています…」と流れてきました。娘はすぐに自分の親がいないことに気づいたようです。ところが、息子が迷子になったときはちょっとこのケースとは違いました。私たちがどこを探しても見つかりません。そうしているうちに遥かむこうの方で大人に追いかけられている子供がいます。「どこかの親子かな」と思ってよく見てみると追いかけられているのは私の息子ではありませんか。後で話を聞いてみると、お店の店員さんがひとりでうろうろしている幼児を見つけて「迷子だ」と思い保護しようとしたら逃げ出してしまい、そこで追いかけっこになったというのです。息子は私たちが見つけたときも自分が迷子になっていたとも思っていなかったようです。この出来事を思い出しても同じ兄弟でもだいぶ違うなという気がします。

 こんなお話を聞いてことがあります。甘えん坊の子供は心の底に「お母さんが自分から離れていなくなってしまうのではないか」という強い不安を持っているのでお母さんからいつも離れられないといのです。そして、子供のときに十分な愛情を注がれて「自分がどこにいてもお母さんはいつも一緒にいてくれる」という安心感を持って育った子は、結構、お母さんから離れて自由に遊ぶことができるのだそうです。

 このような安心感を持って育った子供はよいのですが、最初に語ったように不安な気持ちをいつも抱いている子供は成長していくとどうなるでしょうか。これには二つのタイプがあると言います。一方では親の愛情を獲得するために、親の期待に答えるために良い子であろうとするタイプが存在します。しかしもう一方では、「自分がいくら努力しても親の愛情を得ることができない」と考えてしまうタイプです。彼らは逆に問題行動を起こして、それを通して悪い意味で親の関心を自分に集めようとするのです。二つのタイプは表現において大変異なったように見えますが、いずれも「親の関心を自分に集めよう」とする点では共通しています。そしてどちらも、心の底では「自分が何もしなかったら親の愛情は自分から離れてしまう」という深刻な不安を抱いているのです。


2.どうして律法を熱心に守るのか

①愛されたいのに愛してもらえない

 アメリカの作家ジョン・スタインベック (1902-68)の記した小説「エデンの東」にはこの二つのタイプを代表するような兄弟が登場します。皆さんはたぶんこの小説を読んだ事がなくても、ジェームス・ディーンという俳優が主人公を演じて有名になった映画をご覧になったことがあると思います。二人の兄弟のうち、兄は父のお気に入りで、いつも父親の期待に答えて生きる優等生です。ところがジェームス・ディーンが演じる弟はそうではありませんでした。いつも問題を起こしては父親から非難されるような劣等生です。

 しかし、お話が進むとこの弟は決して父親を無視しているのではないないことが分かります。いやむしろ彼は父親から一度でいいから「よくやった、お前は私の息子だ。お前を愛している」という言葉を聞きたいと願っていたのです。彼は自分も父親から誉められることをしたいと考えます。そして、事業で失敗して大損害を被った父親に、自分が稼いだお金をプレゼントしようとするのです。ところが、そのお金は彼が戦争によって高騰した穀物相場から得た利益だと知ると父親はこんな「汚い金は受け取れない」と息子に投げ返してしまうのです。今度こそ自分も父親に誉められて。お前は私の息子だ」と言ってもらえると思っていたのに彼の努力は水の泡に帰してしまいます。この主人公を演じたジェームス・ディーンは「父親に愛されたいのに、愛されない」息子の苦しさをたいへんよく演じています。


②不安に支配された熱心

 イエスの時代、イスラエルの人々は律法という聖書に記された決まりとそれを更に細分化した規則に従った厳格な信仰生活を毎日送っていました。少し前に「神の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めを現在でも厳しく守って「神=God」という言葉を使わないユダヤ人のお話を紹介しました。聖書にはそのように厳格に律法を守る人々が「ファリサイ派の人々」とか「律法学者たち」と呼ばれて度々登場します。

 彼らがどうしてそこまで律法を守ることに熱心であったのか様々な理由があるとおもいますが、その最も中心にあるのはやはり「自分も神に愛されたい」という気持ちであったと思います。親の愛を獲得したい子供が親の期待通りに生きようと心がけるように、彼らは神の愛を自分に獲得しようと欲したのです。そのために彼らは自分達に向けられた神様への期待に律法を厳格に守ることで答えようとしたのです。なぜならば彼らは神の期待が律法と呼ばれる決まりに表されていると考えていたからです。しかし、彼らが律法に熱心であればあるほど、それは逆に彼らが心の底で持っていた不安を端的に示すものであったと言えます。彼らは自分達がそうしなければ神様の愛を獲得できない、いや、自分達は神様に見捨てられてしまうという不安に支配されていたのです。つまり彼らの律法への熱心は自分達のもっている強い不安を示すものでもあったとも言えるのです。


3.どうして断食する必要があるのか

①古い習慣と新しい時代

 今日の聖書のところには断食という問題が取り上げられています。ここに登場する断食は健康法の一種で取り上げられる現代の断食とはちがい、もっぱら宗教的な意味合いを持ったものでした。私も神学生の時代に韓国にある大きな祈祷院に行って三日間の断食をしたことがあります。現在でもそこではたくさんの人たちが、長い期間にわたって断食をして、祈りを捧げています。この場合はほとんどそこに集まる人は任意で、自分の意思から断食に参加しています。しかし、当時のイスラエルでは必ず誰もが断食をしなければならない日が決められていました。さらに今日の聖書箇所でも登場するファリサイ派の人々はこの義務として定められた日以外にも、断食に勤しみ、自分たちの信仰的な熱心を人々に示していたというのです。

 そんな彼らが目をとめたのはイエスと彼の弟子たちがこのユダヤ人の義務であり、伝統でもある断食を守っていないということでした。彼らはイエスとその弟子達を非難するためにバプテスマのヨハネをその例にあげて語っています。このヨハネはむしろファリサイ派の人々から見ると危険人物で、自分達の信仰生活を批判する人と考えられていました。ところがヨハネとその弟子たちはここで問題となっている断食についてはファリサイ派の人々と同じように大切にそれを守っていたのです。イエスはこのヨハネから洗礼を受けていましたから、ファリサイ派の人々から見ればイエスはヨハネの弟子か仲間のように考えられていたのかもしれません。そこで彼らは「どうしてバプテスマのヨハネの弟子たちでさえ私たちと同じように断食を守っているのに、あなたがたはそれを守ろうとしないのか」とイエスとその弟子達に詰め寄ったのです。


②古い着物、古い皮袋

 イエスは彼らに次のように答えられました。

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(19~22節)

 この答えには大きくわけて二つのたとえが語られています。しかし、そのたとえの意味はいずれも「今は断食をするときではない」というイエスのファリサイ派の人々への答えを表しているのです。第一に花婿とその婚礼の客のたとえです。当時のユダヤでは婚礼のためにたいへんに盛大な宴が開かれていました。そこではたくさんのご馳走がふるまわれます。そして参加者は花婿の結婚を祝って、そのご馳走に与り、その喜びを分かち合うのです。イエスは「今はその喜びのときであって、断食をするときではない」と語るのです。なぜなら断食は人がむしろ悲しく、辛い問題にぶつかったときにするものであり、喜びのときにするものではないからです。

 第二は古い服に新しい布で継ぎ当てをすることと、古い皮袋に新しいぶどう酒を入れるお話です。みなさんも新しいズボンを買ってきて洗濯したら、縮まってしまったという経験をされたことがあると思います。新しい布には伸縮性がありますが、古い服はそれがありません。その服に新しい布を継ぎ当てしたら、縮む際に回りの布を引き裂いてしまうというのです。また、新しいぶどう酒は醗酵の途中ですから二酸化炭素を沢山発生させます。そこでやはり伸縮性の衰えた古い皮袋に新しいぶどう酒を入れたなら、その皮袋が破けてしまう恐れがあるのです。このいずれその状況に合った相応しいものを用立てなければならないという教えが語られています。つまり古い断食の習慣は、今のときには似つかわしくないということをイエスはここで教えておられるのです。


4.喜びに生きることができる私たち

①罪人を招くために来られたイエス

 それではどうしてイエスは「今は断食をするときではない」と考えていたのでしょうか。この答えを理解するために私たちは今日の聖書箇所の直前の部分で語られたイエスの言葉に耳を傾ける必要があると思います。この直前の部分ではイエスが弟子の一人として徴税人のレビを召し出されたお話が記されています(13~17節)。徴税人については何度も説明しますように、当時のユダヤ人が最も嫌っていた職業で「ユダヤ人の端くれにも及ばない、信仰者の面汚しだ」とさげすまれていた人々でした。ところがイエスは大切な弟子を神殿や礼拝堂で働く優等生から選ぶのではなく、徴税人のような劣等生から選ばれたのです。それだけではありません。イエスはここでレビの仲間達、おそらく彼と同じように劣等生の集まる食事の席に参加され、彼らのもてなしを喜んで受けられたのです。この箇所でも優等生のファリサイ派の人々や律法学者が登場してイエスを非難しています。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(16節)と。そしてイエスは彼らの問いに答えられて次のようにうに語られました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)。

 この答えはイエスが信仰の優等生を招くためにこの地上に来られたのではなく、むしろ劣等生、落第生を招くために来られた方であることを説明しています。しかしそれだけではなく、この答えにはもっと深い意味があると考えていいでしょう。なぜならこの答えは同時に自分を「信仰の優等生」と信じて行動している人々にも次のように語られていると考えてよいものだからです。「あなた達は神様の愛を獲得するために必死に頑張っている。しかもそこで、少しでも自分が手を抜くならその神様の愛が自分から離れてしまうと不安に思っているかもしない。だが、神様はあなたがたとえ何をし、何者であっても愛されていることを証明するために、私をあなた達に遣わしたのだ」と。

 神は私たちが心の底で持っている誤解を解き、私たちが不安から解放されて、自由に生きることができるために、御子イエスを私たちの救いのために遣わしてくださったのです。そしてイエスは私たちがどのような者であっても神が愛してくださっていることを知らせるために私たちのところにきてくださったのです。こんな素晴しい愛の証明が今、イエスによって示されているのに私たちはどうして断食をして悲しむ必要があるでしょうか。その必要はありません。私たちはむしろ、今イエスと共に喜ばずにはおれない者に変えられているのです。


②石の板ではなく心に刻まれる

 旧約聖書には私たちが昔のようにモーセの律法のような石(石版)に記された神の掟に従うのではなく、心に記された掟に従って歩むときがくる(エレミヤ31章33節)という預言が記されています。それが、神様が私たち人間と結ばれる「新しい契約」だと言っているのです。今日の朗読箇所であるホセア書(2章16~22節)も第二コリントのパウロの言葉(3章1~6節)もこの新しい契約を語っています。そして、イエスがこの地上に遣わされた今こそがこの新しい契約が実現した時代なのです。もはや私たちは神様の愛を獲得するために、不安にかられながら石の板に記された律法を厳格に守る必要はありません。なぜなら、神様は私たちが何者であっても私たちを愛し、私たちを決して見放されることがないからです。イエスの救いの御業は私たちと神様との関係をこのように変えてくださったのです。だから私たちは今、不安からではなく喜びと感謝を持って神様に従うことができるのです。これが新しい契約の時代、新約聖書の時代の私たちの信仰なのです。イエスは「この神の愛の証である私があなたとともにいるのに、どうして悲しむ必要があるだろう。むしろ喜びなさい。私と一緒に喜ぼう」と今日の箇所で私たちに語っておられるのです。


2003.3.2「花婿が一緒にいて」