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2003.3.9「息を引き取られ」

マルコによる福音書15章33~39節

33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。

36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。

37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て「本当に、この人は神の子だった」と言った。


1.福音記者マルコの視点

①目のつけどころの違い

 先日、せっかくの春休みということもあって私たち一家は近くの公園に花見をしに出かけました。なかなか、一家で外に出かけることなどなかったものですから、子供たちは大喜びで、きれいに整備された公園を走り回っていました。その晩のことです。長男はきれいな桜を見ながら公園で遊べたのがよほど思い出に残ったのでしょう。「今日は本当に楽しかったね」と私たちに言うのです。この言葉を聞いて私も家内も「連れて行ってよかったな」と思ったのですが。面白かったのは兄の話を聞いていた長女が同じように繰り返して、こう言ったことでした。「今日は本当に楽しかったね。エビちり」。ちょっとこれだけでは、みなさんはうちの長女が何を言おうとしたのかわからないと思いますので少し説明いたします。その日のお昼、公園からの帰り私たちの一家は近くの中華レストランに立ち寄ってラーメンやチャーハンと一緒に奮発して「えびのチリソースかけ」を注文して食べたのです。長女はそれを食べたのがその日で一番、印象に残ったのでしょう。だから彼女は「今日は本当に楽しかったね。エビちり」といったのです。

 同じところに出かけて同じことをしたのに楽しかったこと、印象に残ったことは兄弟でも大きく違っていることがわかりました。おそらく、その原因はその体験した本人がいつもどのようなところに関心を持っているかによって違ってくるのでしょう。


②神の子イエス

 今日は受難週の礼拝です。そこで教会暦は十字架にかけられるイエスの姿が記された聖書箇所を今日の礼拝のためのテキストとして選んでいます。この出来事、四つの福音書の記者がそれぞれ同じように書き記しています。ところがそれぞれの福音記者の関心の違いから、同じ出来事を取り上げていてもその描き方が微妙に異なっているのです。今日はマルコによる福音書の記事からイエスの十字架の出来事を私たちは学ぼうとしています。そこで私たちはまず福音記者マルコがイエスについてどのような関心を持ち、何を私たちに知らせよとといしているかを知る必要があると思います。つまりマルコの視点を理解することは私たちが本文を理解する上でたいへん重要になってくるのです。

 それではマルコはこの福音書でイエスについて何に関心を持ち、また私たちに何を教えようとしているのでしょうか。それはこの福音書の最初の部分を読めばすぐわかります。この福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1章1節)と言う文章で始められています。ここにマルコがイエスについてどんな関心を持ち、私たちに何を知らせようとしているかが明らかにされています。それは「イエスが神の子である」という事実です。そしてその事実こそが「福音」、私たちに伝える「よき知らせ」だとマルコは語っているのです。つまりイエスが「神の子」である事実が世界を変え、また私たちの人生を大きく変えるすばらしい出来事なのだとマルコは教えるのです。そして、その視点は今日の十字架の箇所でも貫かれています。マルコはここでローマ軍の一人の兵士、百人隊長の口を通してその事実を繰り返し明らかにしています。十字架で息を引き取られたイエスを目撃して百人隊長はこう語ります。「本当に、この人は神の子だった」(39節)。

 このとき多くの人々がイエスの十字架の出来事と向き合っていました。ところがふしぎなことにこの出来事を通して「イエスを神の子」として認め、それを告白したのは名も知れないこの一人のローマの兵士だけだったのです。いったい、この異邦人の兵士は十字架のイエスの姿から何を知って、この言葉を告白したのでしょうか。また、同じようにイエスの十字架の姿を目撃しながら、多くの人々はその事実をどうして認めることができなかったのでしょうか。そのことについて今日は少し考えてみたいのです。


2.そばに立っていた人々の視点

①エリヤが助けに来るかもしれない

「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(33~34節)。

 ここに登場するイエスの言葉は詩編22編2節からの引用だと考えられています。この詩編をお読みになるとわかるのですが、この詩は決して危機に立たされた人が「神に見棄てられた」絶望的な心情を告白している歌ではありません。むしろこの詩は、そのような危機の中でも神を信頼する信仰者の告白が記されている歌なのです。イエスもまたこの詩編の告白のように、十字架という最大の危機的な状況の中で神への信頼を告白したのです。この詩では「わたしの魂は必ず命を得る」(30節)という言葉が結論部分で登場します。あくまでも神が助けてくださると詩編記者は語っているのです。

 ところがイエスを取り囲む多くの人々は「神がイエスのこの信頼に答えて助けを与えるのかどうかを見てやろう」とばかりに次のように語り、イエスを嘲笑したというのです。

 「そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした」(35~36節)。ここには彼らのもっていたイエスについての関心、その視点が示されています。


②最後に表される権威と力

 私が子供のころから始まって、今でも出演者を代えながら続けられている有名なテレビドラマがあります。皆さんもよくご存知の『水戸黄門』です。徳川御三家の出身で、幕府の副将軍にまでなった徳川光圀が「越後のちりめん問屋のご隠居」の姿になって諸国を旅するお話です。彼らが訪れるところには必ず権力を利用して、悪事を繰り返す人々とその悪事に苦しめられる善良な人々が登場します。主人公の水戸黄門は最初、庶民と同じ一人の老人としてその事件の渦中に入っていきます。しかしやがてドラマが架橋に入り、悪人たちが最後の悪あがきを始めること、水戸黄門はもっていた「印籠」を示して、「実は自分は天下の副将軍徳川光圀」であることを明らかにし、悪人たちはその老人の正体と、彼の持っていた権威に驚いて一件落着となるわけです。

 おそらくここでイエスの十字架の光景を見ていた人々の多くはこのようなドラマの筋書きのように、イエスが最後には「神の子」らしい権威を示すことを期待していたのです。それは具体的には危機に陥った彼自身を神の使いである「エリヤ」が天からやってきて救い出すという彼らの描いた筋書きとなるわけです。しかし、彼らの期待する出来事はまったくおこりません。だから彼らにとってイエスの十字架はイエスがただの弱い人間の一人であったこと、神の子ではなかったということを証明する出来事になってしまったのです。


4.百人隊長の視点

①不思議な結論

 それでは次に登場する百人隊長は何を見て、「本当に、この人は神の子だった」と告白したのでしょうか。彼はおそらく自分に与えられた職務を遂行するためにイエスの十字架の出来事に立ち会うことになったのでしょう。そのような意味では彼はイエスを嘲笑したほか群集とは違って、イエスに余分な期待を持つことなく、ある程度、客観的にこの事実を見つめることができた人物だったのかもしれません。彼が目撃したのは、十字架という危機的な状況の中でも最後まで神を信頼したイエスの姿でした。そして、多くの人々の嘲笑を受けながらも、何一つその言葉に反論することなく。むしろ自分に与えられた使命を全うするかのように十字架の死を受け入れたイエスの姿だったのです。

 言葉を変えていえば、彼はイエスが、人々が「神の子ならこのようなことができるはずだ」と考えたような一切の力や権威をまったく示さないで、あくまでも無力で何もできない人間の姿に徹し、イエスがすべての人間に定められた死を受け入れられた姿を目撃して「本当に、この人は神の子だった」と語ったのです。どうして彼はこのような告白でこの出来事を結論づけることができたのでしょうか。私たちにはこれだけでは、彼の語った言葉の意味がよく理解できません。


②神の介入

 だから、マルコはこの百人隊長の告白の意味を明らかにする出来事を彼の告白の直前にこう記しているのです。「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(38節)。マルコはこの十字架の出来事の中で、突然に別のところに取り付けられたカメラの映像に場面を変えるような手法を取ってこの百人隊長の告白の理由を説明します。ここに登場する神殿の垂れ幕は聖所とその奥にある至聖所を区切っていたものでした。この垂れ幕の奥の至聖所には大祭司のような限られた人物がしか入ることが許されていなかった場所です。ですからこの垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのは、私たちに人間と神様との間を隔てる障害がなくなったこと、失われていた私たちと神様との関係が回復されたことを意味するものなのです。

 イエスはご自身の力と権威を示すことができなかったのではありません。むしろ、その権威と力を示すことをされなかったのです。それはどうしてか、神の子であるイエス・キリストが私たち無力な人間、罪と死の呪いの下にある私たちと同じ姿になられることで、私たちの受けるべき運命を担ってくださり、私たちに新しい命を与えてくださるためだったのです。私たち人間の最初の先祖であったアダムはこの罪の結果、神様との交わりを失い、罪と死の呪いを受けざるを得ませんでした。しかし、今、私たちはこのイエスの十字架の出来事を通して、神様との交わりを回復され、神様が私たちのために準備された新しい命を受けることができるようにされたのです。


③貫かれた神の愛

 先日もお話したように、エルサレムでイエスを新しい王として迎えようとした多くの群衆は自分たちに都合のよいことをイエスがしてくださると期待していました。彼らは神が自分たちを選んで、他の異邦人たちやそれに従う人々を裁いて、滅ぼしてしまうことをイエスがその力でなしてくださると思っていたのです。彼らにとっては、自分たちは神様の造った優れた作品であるが、ほかの人々はあたかもその製造過程ででた不良品で処分を免れないものだと考えていたのです。しかし、彼らは自分たちもまた神の処分を免れ得ない不良品であることを知らなかったのです。だから、イエスがその力と権威を一切使わずに甘んじて十字架の刑罰を受けたことを理解できなかったのです。

 しかし、神の子イエス・キリストの福音は彼らの思いとは異なります。神は私たちを不良品のように処分して、新しい作品を作ることもできる方です。しかし、その方法を神は選ぶことをなさらなかったのです。神はむしろ私たちを処分することなく、神の作品である姿を回復するようにとイエス・キリストを遣わしてくださったのです。この小さな私たちを最後まで見捨てることなく、愛し続ける神の姿を、私たちは十字架にかけられた神の子イエス・キリストの姿を通し知ることができるのです。ですからマルコはここに登場する百人隊長の告白こそ、私たちが同じように告白すべき言葉だと教えているのです。

 イエスの力と権威は、その愛を最後まで貫いて、私たちを救うことで明らかにされたのです。それ以外の期待でイエスを見ようとするものは、神の与えてくださった福音を理解することができないことを今日の聖書の出来事は語っているのです。


2003.3.9「息を引き取られ」