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2003.4.13「心も思いも一つにして」

使徒言行録4章32~35節

32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。

33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。

34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、

35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。


1.エルサレム教会の特殊事情

①甲信越と都市部の教会の関係

 先日の東部中会では議題のひとつとして甲信越地域に存在する教会の伝道について話し合われました。この地域には古くから伝道を続けている教会がいくつか点在しています。甲府、佐久、諏訪、長野と私たちにはむしろときどき訪れる観光地として知られるような場所に教会が立てられています。しかし、これらの教会のほとんどは自分たちだけの力では教会の運営を支えることができないために、東部中会の献金から援助を受けています。これらの教会が都市部の教会のように順調に発展しないのにはいくつかの事情があると思います。私も青森県で体験しましたが、因習や土地の人間関係が複雑な地方で伝道するのは都市部の伝道に比べて何倍もの努力と時間が必要です。しかし、もっと大変なのはせっかくこれらの教会が伝道して、教会に導いた人々が進学や就職の事情で都市部に流入してしまうことです。先日の中会でも佐久教会の委員の方が甲信越の教会の出身で今は都市部の教会の牧師や役員になっている人々の名前を挙げていましたが、甲信越の教会はたくさんの人々を送っています。つまり、甲信越の教会は今まで有力な会員を都市部の教会に送り、都市部の教会の伝道を間接的に助けてきたとも言えるのです。ですからここでは甲信越地方の教会は「送り出す教会」である、都市部の教会は「受ける教会」という関係が成り立つかもしれません。このような関係を考えるときこれらの地方の教会を都市部の教会が経済的に援助するのは大切な勤めであるといえるのです。


②異邦人教会の献金によって支えられたエルサレム教会

 聖書を読むと伝道者パウロはユダヤ人以外の異邦人のためにキリストの福音を伝える使命を担って活動していたのがわかります。そのパウロがその伝道の使命と同時に大切な勤めと考えていたのは、これらの異邦人教会から献金を集めて貧しいエルサレムの教会を助けるということでした(ローマ15章25~28節)。エルサレム教会もまたたくさんの伝道者を世界に派遣する「送り出す教会」ではありましたが、そこに集っていた人々はたいへんに貧しかった様子がここから分かるのです。今日の箇所ではこのエルサレムの教会の最初のころの様子が伝えたれています。私たちはここに記されているエルサレム教会の様子が、この教会の特殊性のためであったことを理解する必要がまずあると思います。なぜなら、ここに登場するエルサレム教会の行った共有財産制度は教会の歴史のなかですぐ消えてしまっているからです。しかしその上に立って、私たちはこの箇所から私たちの現在の教会生活にも大切なことがなんであるかをここから学ぶことができると思うのです。


2.初代教会の生活の特徴

①初代教会の特徴

 今日、私たちが学んでいる使徒言行録はキリスト教会の初期の様子と活動を教える貴重な書物です。それではキリスト教会はどのように誕生し、歩み始めたのでしょうか。それはもちろんイエス・キリストの選ばれた弟子たちの群れから始まったと言えます。イエスの十字架の受難の際に一度はイエスの前から逃げ出してしまった弟子たちでしたが、彼らは復活のイエスに出会うという貴重な体験をします。それだけではありません。イエスの約束にとどまって彼らがエルサレムにあった家の一室で祈っていると(1章4、5節)彼らの上に聖霊が天から降りました。この聖霊を受けることにより、イエスの弟子たちは大きな変化を遂げていきます。ペトロがまず人々の前でイエスの死と復活を大胆に説教するようになります。するとその結果、三千人もの人が新しく教会に加えられたというのです(2章41節)。今日の箇所ではこのように人数的にも拡大した教会がどのような生活を当時、営んでいたかを伝えています。

 まず、第一にこんなに新しいメンバーが加えられた教会でしたが「信じた人々の群れは心も思いも一つにし(た)」(32節)と語られています。ある説教家はここの部分の説教で「人は夫婦であっても心も思いも一つにして行動することは難しい」と言っています。もちろん、私たちはロボットではありませんから、いつも同じことを考え、同じ行動をすることは無理であろうと思います。しかし、聖書は次に何についてこの教会の人々が「心も思いもひとつにしたか」ということを説明しています。これが第二のこの教会の特徴です。彼らは自分たちの持っているものを共有しました。このことを「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」(34~35節)と聖書は説明しています。その例がこの後の36~37節に登場するバルナバのお話です。使徒言行録ではパウロの同労者として登場するバルナバですが、彼は持っていた畑を売ってその代金を教会のために捧げたのです。バルナバのほかにもエルサレム教会で同じような行動をした人がたくさんいたのだと思います。それではどうして彼らはこのようなことをしたのでしょうか。それがこの教会の第三の特徴です。彼らはそれによって貧しい人を助けたのです。先ほどもいいましたようにエルサレム教会は決して豊かな教会ではありませんでした。むしろ他の豊かな教会から献金を受けなければならないほどに窮乏していた教会でした。しかし、その教会のメンバーはわずかに富める者が貧しい人を助けるために、財産を共有して、それを必要に応じて分けあったというのです。


②貧しい人がいなかった

 彼らのこのような生活の結果を聖書は次のように語ります。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(34節)。もちろん、この言葉は教会のメンバーがすべて金持ちになったということを言っているのではありません。そうではなく、これらの教会の働きによって貧しい人々の生活が助けられたことを言っているのです。

 富んでいる人が貧しい人を助けることは旧約聖書の中にも薦められている大切な教えです。それは、私たちが持っているものすべては神様が私たちに預けてくださった賜物だと聖書が考えているからです。つまり、私たちも持っているものは私のものではなく神様のものであり、その管理を今、私たちは地上で委ねられていると聖書は教えるのです。委ねられているものならばそれを委ねてくださった方の希望に沿ってそれを用いなければなりません。神様が委ねてくださったものを最も必要としているところに用いる、その理解のうえにたって初代教会の人々はこのような財産の共有制を始めたと考えてもいいと思います。

 研究書によればこの当時のギリシャ文明の影響を受けていたオリエント社会ではこのような共有財産制度が理想的な社会のひとつと考えられていたとも言われています。つまり、このような生活を営む初代教会の人々の様子は聖書の教えの伝統に立っても、また異邦人の文化からも評価できるものであったといえるのです。しかし、この使徒言行録を記したルカはこの出来事を通して私たちにもっと大切なことを伝えているといえます。それは「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」という言葉を彼は旧約聖書の預言の成就だと考えていたからです。旧約聖書申命記15章4節には次のように記されています。「あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる」。ルカはこの言葉が初代教会の上に実現したことを伝えるためにこの教会の様子を私たちに伝えたのです。

 私たちはどれだけ私たちの生活の上に神様の約束が実現していることに関心を払っているでしょうか。私たちが自分たちの生活のために努力することは決して悪いことではありません。むしろ神様から委ねられた賜物を十分に使うために努力することは大切かもしれません。しかし、自分の努力やがんばりばかりに関心を向けている人は、その背後で私たちを導いてくださる神様のみ業を忘れる危険があるのです。ルカはだからここでこの愛に満たされた教会生活は初代教会の人々が努力した結果ではない、神様がその約束に従って働き、このことを実現してくださった証拠なのだと語っているのです。


3.聖霊によって変化した人々

①エルサレムの一室で震えていた弟子たち

 この事実は今日の聖書の箇所を私たちが学ぶ際に最も重要になっていくところだと思います。もし、私たちがこのエルサレム教会の愛に満たされた姿を理想として学ぶなら私たちはどのように考えるでしょうか。ひとつはここに語られている理想郷を実現するために「がんばらなくてはならい」と考えます。しかし、ここにすでに大きな矛盾が生じてしまうのです。なぜなら、「愛」は人の「がんばり」から決して生まれないものだからです。「愛」は人間の内側から生じる自然な感情の表現です。しかし、「がんばり」とはそのような内側から生まれる自然な感情をむしろ外側から変えようとするものです。「私は、本当は人を愛せないけど、人を愛せるようにがんばろう」と願っても、その人のうちからは決して本当の愛は生まれることがありません。

 もうひとつはここに書かれていることは理想であって「愛に満たされた共同体」などは決して現実には存在しないとあきらめて、この箇所を簡単に読み飛ばしてしまうことです。

 しかし、著者ルカはそのどちらも私たち読者に望んではいないのです。ルカが教えるのは神様のみ業がこの教会を変えたと言うことです。


②復活のイエスと約束の聖霊がもたらした変化

 先日、私たちはイエスの復活された日にイエスの弟子たちはどのような状況にあったかについて学びました。弟子たちはこの日、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20章19節)と言います。興味深いのはこの箇所で登場する「戸」が複数形で表現されているところです。聖書学者は「彼らがいた部屋が特別に大きくて、戸がいくつもついていたとは考えにくい」と言って、「これは彼らの「心の戸」も同じように閉ざされていたことを示しているのだろう」と考えます。彼らはイエスを殺したユダヤ人たちが自分たちをも逮捕しにくるのではないかと恐れていたのです。自分を守ることで精一杯の弟子たちには心を開いて他の人々を同情したり、助ける余裕がありませんでした。しかし、それはこのときに始まったわけではありません。彼らはイエスに従っていたときも、自分がどれだけ他の弟子たちよりも優位な立場になれるかに最大の関心を持っていたのです。そのような彼らが自分の特権を捨てて他の人々を助けることができるとは到底思えません。まさに、初代教会の中心メンバーも私たちと同じ、弱さや欠けを持った人々で構成されていたのです。しかし、彼らは変わりました。なぜなら、彼らは復活のイエスに再会することができたからです。その勝利をその目で見ることができたからです。

 しかし、それだけではこの教会に起こった変化を説明するためには不十分でしかありません。なぜなら、新しくこの教会に加わったたくさんの人々はこの弟子たちのように復活のイエスに出会う機会を持っていなかったからです。それではどうして、そのような人々までもこの愛に満たされた共同体に参加することが出来たのでしょうか。それは彼らが聖霊を受けていたからです。イエスが天に昇られたあと、この教会に天から送られた聖霊こそ、イエスの復活を証しする霊だったのです。先週の箇所でイエスは弟子のトマスにこのように語りました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20章29節)。この言葉は祝福に満ちたイエスの約束の言葉でもありました。イエスの約束に従って聖霊が教会に下ったとき、弟子たちもそのほかの人々もイエスが復活され、今も生きておられることを「見ないで」強く確信することができるようになったからです。


③カリスが彼らの上にあった

 今日の箇所でも次のような重要な言葉が語られています。「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」(33節)。聖霊を受けた弟子たちはいままでとはまったく変わってイエスの復活を大胆に証しするようになりました。実はその次の聖書の言葉は少し問題があります。なぜなら、この同じ箇所を口語訳は「使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた」と訳し、新改訳も「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」と訳しているからです。この二つの訳と私たちの読んでいる新共同訳の翻訳はだいぶ意味合いが違っています。ここのギリシャ語原文を直訳すると「大きなカリスが彼ら一同の上にあった」となります。実はこのギリシャ語のカリスには「恵み」という意味と「好意」という二つの意味があるのです。そこで私たちの使う新共同訳はカリスを「好意」と訳し、それは人々から教会に与えられたものと考え、口語訳や新改訳は「恵み」と訳して、それは神様から教会に与えられたものだと考えたのです。

 おそらくこの場合はむしろ口語訳や新改訳のほうの訳を取るのが私たちにはここの出来事を理解するのにわかりやすいと思います。聖霊によって復活のイエスが自分たちとともに生きてくださっていると確信し、大胆にそれを証言する弟子たちの群れに神様の恵みが豊かに注がれたのです。その恵みの結果がこの愛に満ちた共同体を生み出したと考えてよいのです。


4.教会を導かれる神

 このお話の最初にエルサレム教会の置かれた特殊性について少しお話しました。財産の共有という制度はおそらくこのエルサレム教会の特殊性の中で生まれたものなのかもしれません。キリスト教会はこの後、ここに登場する制度を教会の普遍的な制度としては採用しなかったからです。財産を共有する制度はこの後、わずかに修道院のような特別な場所でしか採用されませんでした。また、この箇所のすぐ後に登場する「アナニアとサフィラ」の事件(5章1~11節)は、むしろ早くもこの制度のほころびを告げるようなお話になっています。しかし、キリスト教会はその後もこのエルサレム教会の愛に満たされた共同体を模範として、それぞれのおかれた状況にあった方法で同じ愛を実現しようとしてきたと考えることができます。

 どの状況にもあった理想的な制度は存在しません。そのような制度だけを考えるのなら私たちは共産主義者と同じような過ちを繰り返す結果になってしまいます。大切なのはこの愛を共同体に実現するのは何かということです。それが復活のイエスが送ってくださる聖霊であること使徒言行録は教えるのです。そして使徒言行録を記したルカはすべての教会にこの聖霊が送られていることを示した上で、私たちが自分の持っている弱さや矛盾を見つめることであきらめることなく、愛の共同体を目指すようにと今日の私たちの教会に奨めているのです。


2003.4.13「心も思いも一つにして」