2003.4.27「この時のために来た」
ヨハネ福音書 12章20~33節
20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
1.ギリシア人の到来によってもたらされた「時」
①栄光の時をあらわすしるし
四旬節も今週で第五週になりました。そして来週はいよいよ受難週を迎えます。私たちは教会暦の指定した聖書箇所から今日の礼拝でイエスの十字架の意味について学び、その恵みを味わうようにと導かれているようです。さて、今日の聖書箇所にはイエスの語られたたいへんに有名な「一粒の麦」という言葉が登場しています。この言葉はさまざまなところで使われ、ある意味では愛されているこのイエスの語られた言葉のひとつですが、中には言葉だけが独り歩きしてしまって、もともとのイエスの語られた意味とは違った意味で使われている場合もあるような気がします。やはり、私たちはイエスの語られた言葉を正しく理解するために、その言葉がいつどのような状況の中でイエスによって語られたのかを整理して考えてみる必要があると思います。
しかし、そう考えながらこの言葉の語られた前後関係に目を通すとき、私たちは「なるほど、そんな事情の中でイエスはこのお話をされたのか」と頷くよりも、むしろ「どうしてイエスはこんな言葉を突然に語ったのか」と首を傾げてしまうような話がここでは語られています。
イスラエルで最大の祭りである「過越祭」のためにエルサレムに集まった人の中に何人かのギリシア人がいました。そのギリシア人たちが「イエスにお目にかかりたい」と弟子のフィリポを訪ねます。フィリポはこの件について弟子仲間のアンデレと相談した上で、ギリシア人たちの言葉をイエスに伝えたというお話がまずここに語られています。それだけ語られていて聖書には彼らがいったいどういう人たちだったのか、ギリシア人と言う以外には何の素性も紹介されていません。そして彼らがそもそもイエスに何のために会いにやってきたのかも説明されていません。さらに、この聖書を読み進めても彼らがイエスに会うことができたのかどうかさえわからないのです。しかし、イエスはこの「ギリシア人たちが会いたがっている」という話を聞くと、すぐに「人の子が栄光を受ける時が来た」と語り始めています。もしかしたら、数行の記事がどこかに消えてしまったのではないかと思わせるような文章の流れです。
ただこの前後関係に沿って推測するとすれば、このギリシア人たちの登場は「人の子が栄光を受ける時」がやってきたしるしのようなものとしてこの福音書に記されているのだと考えることができます。つまり福音記者の関心はギリシア人がイエスに会いにきたというただその一言に向けられているのです。
②一粒の麦は誰のために死ぬのか
それではギリシア人の到来はいったい何を意味しているのでしょうか。ここでイエスが語る「人の子が栄光を受ける時」とはイエスが十字架にかけられるときのことを意味しているということは次の「一粒の麦」についてのイエスのお話から理解することができます。それではここに登場するギリシア人たちとこのイエスの十字架とはどのような関係があるのでしょうか。それはイエスの十字架の救いが約束の民とされるイスラエルの人々のためにあるのではなく、ギリシア人を含めた全世界の人々のためであることを明らかにする意味を持っているのです。
聖書に記された人間の歴史は私たちには大変に不思議な経過をたどっています。最初、聖書は神の創造を取り上げながら神と全世界の人々との関係を語っていきます。ところがそれはノアの箱舟のときまでで、その後には突然、アブラハムという人が登場し、さらにそれから聖書はその子孫たちであるイスラエルの民と神様との関係だけを語り始めるのです。まるでそこにはアブラハムの子孫以外は神様の計画から除外されてしまったのかと思うような人間の歴史が記されます。しかし、神様の救いの計画は決してイスラエルの民だけ向けられていたのではありません。むしろ、アブラハムの子孫から約束の救い主を登場させ、彼によって全世界の人々を救うという壮大な計画がそこには隠されていたのです。イエスはその壮大な計画が今、ギリシア人の登場を通して始まり、イエスの十字架の死をもって実現することを語っているのです。
つまり、イエスの十字架の死を通して、一粒の麦が地に落ちて死ぬのとき、その結果もたらされる多くの実とは長い間、約束の除外者のように考えられてきた人々、イスラエルの人々だけではなく全世界の人々のことであることがここには明らかにされているのです。私たちはこの箇所から、イエスの救いがイスラエル人ではない私のためのものであることを確信して、受け入れることができるのです。ですからこのギリシア人たちの登場は私たちとイエスの十字架との関係をはっきりと結びつけるたいへん重要な役目を持っているのです。
2.十字架によってあらわされた神の栄光
①「栄光」とは何か
さて、ここで私たちはイエスが「人の子が栄光を受ける時」とご自分が十字架にかけられるときについて語っていることについて考えてみたいのです。私は現代人の典型的な一人として豊かな日本語の語彙を使いわけることができません。そのため「栄光」という言葉も私はほとんど日常の会話では使うことがありません。たぶん「栄光」という言葉を私たちが普段使っている言葉に置き換えるとしたら、「すばらしい」という言葉になるかもしれません。しかし、聖書が語る「栄光」という言葉には私たちが普段使う「すばらしい」という意味合いとは違った特別な意味が隠されているのです。聖書が「栄光」と語るとき、それは神様の本質、つまり特別に神様のすばらしさを表現する言葉として用いられているのです。
②神の栄光をあらわす十字架
第一週の夜の祈祷会でカルヴァンのキリスト教綱要を少しずつ読んでいます。まだ第一編のところですが、カルヴァンは繰り返し、この箇所で「神のすばらしさはその被造物に鏡のように明らかに示されている」と語るのです。神がお造りなったものすべてはその作者のすばらしさを示していると言うのです。ウエストミンスター小教理問答書には私たち人間の人生の目的が「神の栄光をあらわすことだ」と教えられています。それは私たちが特別な優れた人物になって、何か功績を挙げることを言っているのではありません。そうではなく私たちが神様に従って生きることによって、その人生の中で神様のすばらしさを鏡のように映し出すようにと教えているのです。鏡に何か余計なものがついていたら、それは神様のすばらしさを映し出すことができません。むしろ鏡は余計なものが取り除かれ、いつも磨かれていることが大切なのです。
そのような意味で「栄光」を考えるとき、ここでのイエスの言葉は「十字架」こそが神様のすばらしい姿を鏡のようにあらわすものだと言っていることがわかるのです。私たちは神様についていろいろと想像を働かせます、しかし、そのほとんどは愚かな人間の思い込みに神様を詰め込んでしまうようなものなのです。真の神はイエス・キリストの十字架を通してその姿を私たちに豊かにあらわしてくださっているのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節) 。私たちの神は私たちのために愛する御子を十字架にかけるまでに私たちを愛してくださっているすばらしい方であることをこのイエスの言葉からも私たちは確認することができるのです。
3.一粒の麦と多く実
①十字架によって新しい命を受ける
さて、私たちは次に「一粒の麦」として死なれるイエスと私たちとの関係をもう少し考えてみたいと思います。イエスはここで次のように語られています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。このイエスの言葉から私たちは二つのことを学ぶことができると思います。第一に私たちの受けた新しい命はこのイエスの十字架上での死を通してもたらされたものであるということです。「どのようにしたら救いを受けることができるのか。聖書の言う永遠の命の祝福に預かることができるのか。」とヨハネの福音書に登場するニコデモという老人は悩み、イエスの元をある晩、訪れています。ところが彼にイエスが語った答えは彼が到底、理解も実行することのできないものでした。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3章3節)。そこで「どうして新しく生まれることができようか」とニコデモはイエスの答えを聞いて悩みました。なぜなら、誰も人間は自分の力で「新しく生まれること」ができないからです。
このニコデモとの会話からもわかるように、私たちに人間は自分が救われるために何もすることはできないのです。しかし、そのような私たちに代わってイエス・キリストが十字架にかかってくださいました。イエスが私たちに代わって死なれることで、私たちに新しい命を与えてくださったのです。私たちはこのイエス・キリストの犠牲の死によってのみ、新しい命を受け、救いに預かることができるのです。イエスの「一粒の麦」の言葉はこの救いのすばらしさを私たちに教えています。
②イエスの命に預かるすばらしさ
第二にこの言葉から学ぶことができるもうひとつの点は、私たちがいまもっている新しい命は聖霊によって私たち一人一人がイエスの命を受け継いだものだということです。春になって教会前の植え込みにもきれいな花がたくさん咲くようになりました。私は花を咲かせるより、枯らしてしまうのが得意なのですが。家内は一生懸命に手入れをしています。ところがきれいに咲いた花の中には、心当りのない花があるというのです。実は以前に植えられた花の球根が忘れたころに花を咲かせたのです。植えた本人も忘れていても、花の命は球根の中にとどまって時がくると立派な花を咲かせるのです。私たちは一粒の麦であるイエスの命を引き継いで実った者たちです。だからこそ私たちが今持っている新しい命はイエスの命でもあると言えるのです。イエスの命を私たちが持っているということはどんなにすばらしいことでしょうか。私たちの命は私たちも思ってもいないような可能性を持ち、時が来れば立派な花を咲かすことができることをこの言葉から私たちは確信することが出来るのです。
4.自分の命を憎む者
①大切なことに命を使う
最後に私たちはイエスの「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」という言葉についても考えてみたいと思います。「自分の命を憎む」という言葉をかってあの有名なアウグスチヌスは「決してこの言葉は自殺を勧めているのではない」と説教の中で教えたといいます。つまり、そのような誤解を持ってこの聖書を読んでいた人が当時もいたということになるのです。自殺をしたり、自分の命を粗末にすることは聖書のほかの箇所から言っても神様の考えと矛盾することがわかります。聖書はむしろ私たちが神様からいただいた命を大切にすることを教えているからです。しかし、だからと言って命を大切にすることとは単に「健康で長生きをすること」とはいえないのです。聖書が教える命を大切にするということは、その命を愚かなものに使ってしまうのではなく、大切なことに使うことなのです。つまり、イエスのここでの教えは私たちが本当に大切なことにその命を使うことが薦められていると考えてよいのです。
②神に変えられ、神に仕える生き方
それではここでいう「自分の命を愛する者」とはどのような人のことを語っているのでしょうか。ある説教者はここの部分を説教しながらたいへんに興味深いことを語っています。「自分の命を愛する者」とはこのときイエスが十字架にかかろうとしているのに、そのことを理解できないで地上の栄光ばかりを追い求める弟子たちや、ユダヤの民衆のことを言っているのだと言うのです。
この少し前のところでイエスがエルサレムの町へろばに乗って入城されるところがあります。そのとき民衆がイエスを「ホサナ」と口々に叫びながら歓迎したことが記されています(12~19節)。民衆はどうしてイエスをこんなに歓迎したのでしょうか。「イエスが自分たちの新しい王となってくださる」と考えていたからです。民衆はイエスがその不思議な力で自分たちを苦しめている支配者から解放し、安楽な暮らしを与えてくださると考えていたのです。それは民衆ばかりではありませんでした。イエスのそば近くに仕える弟子たちでさえ、イエスが王となるとき自分がどのくらいの地位につけるかを彼らも考えていたというのです。ですから誰もこのときイエスが十字架にかけられて死んでしまうことなど予想していなかったのです。このときの民衆や弟子たちの生き方とは自分は何も変わることがなく、自分を取り囲んでいる環境や人々がイエスによって変わることを望む生き方でした。つまり、彼らにとってイエスはその自分の願望を実現させるための手段に過ぎなかったのです。「自分の命を愛する者」とはそのような人たちのことだとある説教者は教えています。
それではもう一方の「自分の命を憎む者」とはどのような生き方を教えているのでしょうか。それは自分の周りの事柄や人々を変えるのではなく、自分自身が神様に変えていただくことを望む人のことをあらわしています。その人は周りの人に絶望するのではなく、罪と死の支配から自分の力ではどうにもならないと自分自身に絶望する人です。そしてイエスにその自分を変えていただくことを心から願う人のことです。イエスはこのような人に新しい命を与え、永遠の命の祝福を豊かに与えてくださいます。そしてそのような人は自分の願望ではなく、本当に私たちを祝福に導く神様の御心が実現することだけを望むようになります。つまり「神の国とその義が実現すること」を待ち望む者たちこそがここで言われている「自分の命を憎む」者たちだと言えるのです。そしてその生き方の模範をイエス自身が一粒の麦としてここに示されているのです。