2003.4.6「神の福音を宣べ伝え」
マルコによる福音書1章12~15節
12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
1. 四旬節の意義…恵みに鈍感になるな
今日から教会のカレンダーは「四旬節」と呼ばれる期間に入ります。この期間は私たちがイエス・キリストの十字架の死に至る受難の出来事を記念して、それを思い起こすために用いられます。私たちはすでにイエス・キリストの十字架の死を通して、死から命へと救い出された者たちです。私たちはそのキリストの救いを受け入れて洗礼を受け、信仰生活に入りました。しかし、私たちは信仰生活を続けていくうちにいつの間にかその救いの素晴しさを忘れてしまう傾向があるようです。そうなると私たちの毎日の信仰生活から喜びが失われ、神様への感謝も忘れ去られて、ただ機械的に礼拝をささげたり、信仰生活を送るようになってしまうのです。私たちの信仰の先輩たちはそのような人間の弱さをよく知っていたのでしょう。だから彼らは教会のカレンダーにこの「四旬節」を設けて、新たな気持ちでイエス・キリストの与えてくださった救いの恵みに目を向けることができるようにと考えたのです。私たちもこの期間、私たちがどんな悲惨な状況からイエス・キリストによって救いを受けたのか、また私たちの救いのためイエス・キリストはどのように苦しみその生涯を捧げてくださったかを覚えるときとしたいものです。
先日、私の家の子供たちは続いて「腸炎ウイルス」に冒されて、水を飲んでももどしてしまうという病気で苦しみました。何日間か何も食べられない日が続きました。しかし、そのおかげなのでしょうか、病気が治ってからの子供達の食欲はとても旺盛になりました。そればかりではなく、普段は美味しくないと敬遠しているものまで「美味しい」と言って食べ始めたのです。おそらく彼らはものが食べられない状態を経験して、食べ物が食べられるという感動を感じたのだと思います。四旬節の季節にカトリック教会では断食を信徒に勧める習慣があるということですが、それが信仰の功徳を積むというのではなくて、むしろ神様の恵みを感動を持って味わうために用いられるとしたら素晴しいものかもしれません。
2. ノアの箱舟と虹
まず最初に私たちがこの四旬節の礼拝で読む旧約聖書の箇所は有名な「ノアの箱舟」(創世記6~9章)の出来事が記された最後に近い部分のところです。
神が人間を造られた後、地上にはたくさんの人間が住みようになりましたが、彼らは神に従おうとせず、悪しき行いを繰り返していました。このことに心を痛められた神様は大洪水を起こして人類を滅ぼしてしまおうと計画を立てられます。ところがこのように邪悪な人々が満ち溢れる世界でしたが、そこに住むノアだけは神様を忘れず、忠実に神様に従って生きていました。神様はこのノアとその家族、そして他の動物たちを大洪水から救うべくノアに大きな箱舟をつくらせて、彼らがこの危機から救い出される道を準備されます。やがて大洪水が終わり、地上の人々は全て滅ぼされてしまいます。その後、箱舟によって助けられたノアたちは舟からおり、そこで祭壇を築いて神様に礼拝を捧げます。今日の箇所はここで神様に礼拝を捧げたノアたちに対する神様の答え、約束が記されています。神様は次のようにノアに語っています。
「わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(14~16節)。
神様はここでノアたちに「これから洪水によって人々を滅ぼす事は二度とない」と約束されているのです。興味深いのはその約束の印として用いられているものです。空にかかる虹です。雨上がりの後、太陽の光が反射して虹が空に表れます。私たちは虹を美しい自然現象の一つとだけ考えますが、神様は私たちが虹を見るたびに、ご自身がノアとの間に結ばれた約束を思い出すようにと教えられているのです。
ここで用いられる「虹」という言葉は旧約聖書ではほかにもう一箇所にしか登場しません(エゼキエル書1章28節)。他の箇所ではこの単語は「虹」と訳されているのではなく「弓」と訳されているのです。面白いことに「虹」と「弓」は旧約聖書で同じ言葉を使って表現されているのです。このことを教える聖書の解説書には次のような結論を語っています。「神は罰の道具となる弓を天に放棄しました。かたくなな民を滅亡させることなく、別の手段で彼らを導こうと決心したからです」と。神様は神に従い得ない私たちを滅ぼしてしまって問題を解決するのではなく、イエス・キリストの救いによってその問題を解決する決心をここでされたのです。そのような意味で「虹」はイエス・キリストの救いを私たちに示す象徴でもあるといえるのです。この約束を思い起こす者は感謝と喜びを持って「虹」を見上げることができるのです。
3. キリストによって始まった終末
①霊が荒れ野に導く
次に私たちが今日、読んだ福音書の箇所に目を向けて見ましょう。ここには有名なイエスの受けられ「荒れ野の誘惑」、あるいは「試練」の出来事が記されています。今、「誘惑」を「試練」と私は読み返しましたが、この二つの言葉の意味は日本語では大きく違います。一方の「誘惑」は「人を悪に落とし入れる」といった悪事に関係して使われる言葉です。しかしもう一方の「試練」は「人を鍛える」といったむしろ私たちの人生に必要な訓練を語る言葉となっています。ところが、こんなに違う意味を持った二つの言葉が聖書では同じ一つの単語で表現されてしまうのです。私たちは主の祈りの中で「誘惑から導き出して」と祈ります。「誘惑には陥りたくない」と願います。しかし、聖書はこの「誘惑」にもなりかねない出来事が実は私たちの信仰を成長させる「試練」にもなりえることを教えているのです。
それではどうしたら私たちは問題を「誘惑」ではなく、信仰のチャンス「試練」として受け止めることができるのでしょうか。
このマルコによる福音書の記事から大きく分けて二つの事柄を学ぶことができます。第一にイエスを「霊が荒れ野に導いた」と語られる点です。ここに登場する「霊」はこの直前のイエスの洗礼の出来事の際に天から鳩のような姿で降ったとされる「霊」、つまり「聖霊」を指しています。イエスを試練に導いたのは神様の霊、聖霊でした。このことは私たちの遭遇する問題の上に神様の計画と御手がいつでもあるということを示しています。深刻な問題の中で私たちは「これからどうなってしまうのだろう」と不安に駆られます。試練に上にも必ず神様の導きがあることを子の言葉は私たちに教えるのです。だからこそ、私たちはそのような試練の中でも絶望したりすることなく、神様を信じて歩み続けることができるのです。
また私たちが「試練」に襲われるとき、おそらく私たちはそこで今まで頼りにしていたものを全て失ってしまうことが起こるかもしれません。イエスが導かれた「荒れ野」とは助けを求めても何の助けも得ることのできない荒涼としたところを意味しています。ところが人はこのようなところでこそ、自分にとって何が一番大切なのかを改めて発見することができるのです。
みなさんはルカの福音書の紹介する「放蕩息子のたとえ」(15章11~23節)をよくご存知だと思います。ここに登場する主人公は父親の元で何不自由なく暮らしていたときは、本当に自分にとって大切なものが何であるかが分かりませんでした。ところが、彼は父親の元を離れて、遠い町で放蕩の尽くし何もかも失ってしまたとき、初めて自分にとって大切なのは「父親の存在」であったことを知るのです。厳しい試練の中でも私たちが失ってしまったものに目を向けるのではなく、神様に目を向け続けるなら、私たちと神様との関係は更に深く結び付けられます。そしてこの神様との関係こそが、私たちの人生にとって決して失われてはいけない宝なのです。
②天使と野獣
さて次にマルコは記します。「その間、(イエスは)野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(13節後半)。あまり余計なことを書き記さないマルコが書いている言葉、そこには大切な意味が隠されています。そんな大切な言葉でありながらも何か不思議な印象を与えるお話です。神の子であるイエスに「天使」たちが仕えたというのは合点がいきますが。どうしてここで「野獣」が登場するのでしょうか。実は聖書は世の終わりがやってくると天使たちが人間に使え、獣も人間に危害を加えることがなくなると預言しているのです。つまり、このマルコの記事は「世の終わり」、「終末」が既にこのときに始まっていたことを教えているのです。
「終末」、「世の終わり」などというと多くの人が不安な気持ちを起こします。そのとき何が起こるかわからない。そう多くの人々は考えるのです。しかし、聖書が語る終末についての恐ろしい出来事は神を信じることのできない人々への警告であって、神様を信じる人々にとっての終末の意味は大きく違ってきます。聖書の言う終末とは神様の支配がこの地上に完成する日を表しています。言葉を変えれば、神様が私たちの人生の責任者となってくださるときのことです。
イエスはこの後、ガリラヤで宣教活動を開始します。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエスの言葉は、同じように終末が今始まって、神の支配が私たちの上に訪れたことを語っているのです。
使徒パウロはこの既に始められた終末が私たちの人生にどんな祝福であるかを次のように説明しています。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4章5~7節)。
ここでパウロが言う「主はすぐ近くにおられる」という言葉も、イエスの語った「近い」という言葉と同じ意味で私たちの世界に終末が既に始まっていることを教えています。パウロはこの終末の出来事の中で既に神様が私たちの人生の責任者となってくださったのだから、私たちはもはや思い煩う必要はなく、むしろ喜ぶことができる。神様に感謝することができると教えているのです。
4. 正しくない者のために苦しまれた
今日、読んだもう一つの聖書箇所であるペトロの手紙第一でも「苦しみ」、試練の問題が取り上げられています。ここで中心になる言葉は「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました」(3章18節)です。
まず、ここで「キリストも」と語られているように、この手紙は今、何らかの苦しみを受けている人を励ますために書かれていることがわかります。著者ペトロは苦しみの中にいる彼らに向かって「キリストも苦しまれた」と教えるのです。私たちはよく苦しみや悲しみを経験している人に「わたしも同じような経験をした」と言って励ますことがあります。この場合は続けて「私は、けれども既にその苦しみから立ち直ることができた。だから君もがんばりなさい。必ず立ち直ることができる」と言った励ましの言葉になるかもしれません。しかし、ここでペトロが語る励ましはそのような人間の語る言葉とは大きく違っているのです。
それでは「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました」という言葉は苦しみの中にある人にどのような励ましを与えるのでしょうか。まずキリストは他の聖書の箇所で「罪を一度も犯さなかった」と説明されていますから(ヘブライ4章15節)ここで語られている罪はキリスト自らが犯された罪ではないことがわかります。そしてペトロはこの罪について続けてこう説明しています。「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」。つまりキリストが受けられた苦しみは私たちの罪を償うためのものだったのです。しかもここで注目して欲しいのはペトロが「ただ一度」とキリストの受けられた苦しみについて語っているところです。ここにはキリストはもう二度と苦しむ必要がないこと、つまりキリストは私たちのために完全な償いを為し終えてくださったことを教えているのです。ですからペトロは苦しみに遭遇する人にこう語って励ましているのがわかります。「キリストがあなたの罪ために苦しみ、完全な罪の贖いを支払ってくださった。だから神様はあなたの罪のために何かをこれ以上求めることはなさらない。だからあなたの今の苦しみはあなたの祝福のために与えられている」。そうペトロは言っているのです。
ここには最初に語られた神様の虹の約束の中に示された別の方法が隠されています。神様は私たちを罪のために滅ぼすことはされないのです。なぜなら救い主イエス・キリストが私たちの罪を背負い、その罪を完全に贖ってくださったからです。その事実によって、私たちの上に起こる問題は神様が私たちのために与えてくださる「試練」であることを確信することができるのです。ですから私たちがこの「試練」の中でも神様に信頼して歩むなら、私たちはその試練を通して更に大きな恵みを神様からいただくことができるのです。