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2003.5.11「ナザレ人、イエス・キリストが」

使徒言行録4章8~12節

8 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、

9 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、

10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。

11 この方こそ、「『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』」です。

12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」


1.逮捕されたペトロたち

①昔話ではなく、今と同じ

 使徒言行録はキリスト教会の誕生当時の生き生きとした姿を私たちに伝える記録です。また、この書物は教会の中で別名「聖霊行伝」と呼ばれ、天におられるイエスから送られた聖霊がどのように最初のキリスト教会に働き、導いたかを伝えている書物とも考えられています。つまり、この書物にはペトロや他の使徒たち、またパウロといった有名な人物が登場してきますが、その本当の主役はイエスが遣わされたこの聖霊であるといえるのです。そして、この使徒言行録を記した著者ルカは読者であるクリスチャンにたちに、この初代教会と同じように「いまもあなたたちにイエスから聖霊が送られている」と語り、この書物に記されていることは決して遠い昔話ではなく、イエスを信じるすべての教会の群れに今も起こり得る現実の出来事だと教えているのです。ですから私たちも、この使徒言行録から私たちの現実の教会生活において大切な真理を豊かに学ぶことができるのです。


②逮捕・投獄されるペトロとヨハネ

 さて、今日の箇所ではエルサレムの宗教議会に引き出され、取調べを受けるペトロとヨハネの姿が描かれています。この出来事の発端はこの使徒言行録の3章に記されています。午後三時のお祈りのために神殿に向かったペトロとヨハネはそこで「生まれながら足の不自由な人」に出会います。その人は神殿に行く人々から施しを受けて生活していたようです。彼はペトロとヨハネにも同じように施しを求めました。ところがペトロはその彼に「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(6節)と語りかけます。そしてペトロが手を取ると彼が立ち上がり、歩き出すという奇跡が起こります。そしてその光景を見ていた群衆がペトロたちの周りに押しかけます。そこでペトロはその群集に救い主イエス・キリストについての証しを大胆に説教し始めます。この4章の4節にはペトロの説教を通じて新たに男性だけで五千人の人が信仰を持つ決心をしたと告げられています。五千人の人を前にしてペトロが語った説教のおそらく一部が使徒言行録の3章(12~26節)に記されています。たぶんこの記録は説教要旨のようなもので本当のお話はもっと時間をかけてなされたのだと思います。とにかくたくさんの人々が神殿でペトロの話に耳を傾けました。

 ところがそこにやがてこの騒ぎを聞きつけてこの神殿を管理していた祭司や、神殿守衛長、サドカイ派の人々がやってきます。彼らは「二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち」(2節)を覚えたというのです。以前、イエスが神殿に働く商人たちを追い出したお話を学んだことがありますが、神殿を管理する人々はそのときも「イエスが何の権威で教えているか」を問題にしました。つまり、この神殿で教えることは自分たちの権限の中にあり、誰も自分たちの許可なくここで教えてはならないと彼らは考えていたのです。その彼らの権威を損なうようなことをペトロたちがしたので、彼らは怒りを覚えます。さらに彼らのいらだちはペトロたちが教えていた内容にも向けられました。「イエスが死者の中から復活した」ことを彼らが教えていたからです。そこで彼らは二人を逮捕して、牢屋に閉じ込めてしまったのです。


2.裁かれるペトロとヨハネ

 翌日、彼らを裁くためにエルサレムの宗教議会が召集されます。日本の裁判制度では最高裁判所が司法の最高機関のように、この宗教議会は聖書の律法に従って物事を判断する最高機関でした。ところが、必ずしもこの議会が公平なところではないことはイエスの裁判を思い出せばよくわかります。宗教議会の議員たちは自分たちの利害に反する存在だったイエスを殺害するために、イエスに濡れ衣を負わせ、死に追いやったのです。ペトロとヨハネもそのことを知っていました。ですから彼らは議会の議員がどんなに悪意をもって自分たちに向かってくるかを想像することができました。ところが、二人はそのような人々の前でも怯えたり、恐れることなく大胆にイエスについての証しし始めたのです。その彼らの大胆さの秘密をルカは次のように説明します。「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」(8節)。

 先日、宣教師と日本人協力教師との会議の席で発表をしていたスパーリンク宣教師が突然「私は子供のときから恥ずかしがりやで人前でうまく話すことができなかった」といい始めました。ところがその話を聞いていた私たちはその話をなかなか信じることができません。すると、今度は横のほうで座っていたゴー宣教師が「いや、そういうなら、私のほうがだれよりも人前で話すことが苦手な人間だったんです」といい始めたのです。会議の席でいつも雄弁に語り、「すこし黙っていたほうがよいのに」と思うほどに話す二人の告白を聞かされて、私たちはびっくりして、なかなか信じることができませんでした。しかし、聖書にはもっと驚くべきことが記されています。漁師出身のペトロが聖書の専門家たちを前に大胆に語ります。そしてルカはそれが聖霊の働きの結果なのだと私たちに教えているのです。そしてそれはまさにイエスの約束が彼らの上に実現した結果だとルカは教えているのです。イエスはかって弟子たちに次のように語っていたからです。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」ルカ12章11~12節)。

 復活のイエスを証しする者に必要なのはさまざまな才能ではありません。そうではなく、神様の約束を信じて、み言葉を語ろうとする者に聖霊が働いてくださることが最も大切なのです。この働きは伝道者だけに限られたものではありません。ですから私たちもまた、イエスの復活を証ししようとするとき、この同じ聖霊の働きを体験することができるのです。


3.ペトロの証言

①何ついて訴えられているのか

 さて、今度はペトロの議会での証言の内容について考えましょう。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば…」(8~9節)。

 ここを読むと実は先ほど触れたペトロたちの逮捕理由とこの裁判での訴状が微妙に異なっているのがわかるでしょうか。実はサドカイ人たちはペトロたちが「イエスが死者の中から復活した」と語ることを聞いて苛立ちを覚え彼らを逮捕しました。ところがここではその理由はどこかに行ってしまい。ペトロたちが神殿で足の不自由な人を治したことが問題となっています。実はここにはこの宗教議会の中で起こっていた微妙な緊張関係が反映されていると考えられています。この議会にはサドカイ派だけではなく、聖書に何度も登場するファリサイ派というグループの人々が含まれていました。この二つのグループはもともと中が悪く、ことあるごとに対立していました。その対立の大きな理由の中に「死者の復活」という教理を信じるかどうかという問題があったのです。ですからもし、ペトロたちの語る「イエスが死者の中から復活した」という問題を取り上げたらこの論争が再燃して、議会は収集のつかないことになるかも知れませんでした。おそらく、議会を運営する人々はこの混乱を避けるためにペトロたちを訴える理由を変えてしまったのです。

 しかし、ペトロは自分たちが訴えられた理由をむしろ、自分たちがイエスから委ねられた使命を果たす機会だと考えていました。誰も自分が逮捕されたり、投獄されることを望む人はいないと思います。おそらくペトロたちにもそれは予想外の出来事であったと思います。彼らは前の日の夕方ぐらいに逮捕され、一晩牢屋につながれていました。そこで彼らは今後、自分たちの上に起こることを心配し、恐怖にとらわれて過ごすこともできました。たぶん以前のペトロたちだったらそうであったかもしれません。しかし、イエスから自分たちの使命を委ねられたペトロたちは違っていたのです。「思わぬ逆境の中でも、神は必ずイエスの復活を証しする機会を自分たちに与えられ」。そう信じた彼らの前にその機会が確かに巡ってきたのです。自分の人生にはっきりとした使命をもてない人は目の前に起こる出来事で混乱し、自分を失ってしまいます。しかし、神から自分に与えられた使命をはっきりと悟るものは、変化する状況の中でもそれを果たす機会が訪れることを信じ、希望を持って歩むことができるのです。


②誰が癒したのか

「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(10節)。

 ペトロは誰がこのいやしの業を行ったかを説明し始めます。人の目から見れば、「直接に足の不自由な人の手をとったペトロがしたのだ」と思えたかもしれません。ペトロは「しかし、これは死者の中から復活されたイエスのみ名がなしえたものなのだ」とはっきりと語ります。ユダヤ人の社会の中で「名前」はその人の本質自身を表すものだと考えられていました。別の言葉でいえば名前はその人格自身を表すとでも言うことができます。つまり、ペトロのこの証言は「イエス自身がこのみ業をなしたのだ」と言っていると考えてよいのです。

 いまペトロたちを裁いているユダヤ人たちこそこのイエスを十字架にかけ、殺してしまった張本人でした。しかし、「まんまとイエスを亡き者にしてやった」と勝利宣言を語ろうとする彼らに、「イエスはあなたたちに敗北してしまったのではない。復活されて、いまも私たちを通してこのようにすばらしいみ業を表しておられるのだ」とペトロは語ったのです。


③この方はどのような方か

 さらにペトロは証言を続けます。「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」(11節)。

 ここにはこの礼拝の最初に朗読した詩編の118編の言葉が引用されています。家を建てる大工が集めた材料を吟味した結果、「これは何の役にも立ちそうもない」と判断して、捨ててしまった石材が、実際、立てられた建物の中でその中心を支える大切な「親石」になったというのです。詩編記者はこの言葉を通して神様の救いのみ業が私たちの思いもつかなかいような不思議なみ業として実現されることを教えているのです。

 神殿に働く人々、またそこに集まるユダヤ人たちは神様の救いの計画を見守り、またそれを実現するために選ばれた人々でした。ところが彼らは肝心の「親石」がわからなくなってしまっていたのです。いや、まるで自分たちこそがその建物の「親石」であるかのように、考えてしまったからこそ、本当の「親石」であるイエスを認めることができなかったのです。そしてイエスを十字架で殺してしまう結果、つまり「捨てる」ことになってしまったのです。

 しかし、神の不思議なみ業はこの人間たちの愚かな失敗を通して、かえって成就したとペトロはここで語っているのです。


4.救いを与えることのできる唯一の方

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12節)

 実はここでペトロが語る「救われる」と言う言葉は9節に出る足の不自由だった人が「いやされた」という言葉とギリシャ語では同じ単語が使われているのです。つまり彼を「いやした」イエスこそ、私たちを「いやすことのできる唯一のお方だ」とペトロは断言しているのです。

 今やどこにいっても「癒し」と言う言葉が町に氾濫しています。「癒し系」という言葉がいろいろなものにつけられて、もてはやされています。それだけ私たちの心は「癒されたい」と願っているのかもしれません。しかし、なかなか私たちの病んだ部分は癒されることができません。だからこそ、つぎからつぎへと「癒し系」グッツが登場しては、消えていきます。しかし、ペトロは「本当に私たちを「癒す」ことのできる方はこのイエスお一人しかいない」と語るのです。

 この方を信じるものこその本当の「癒し」、「救い」を得ることができるのです。それはどうしてでしょうか。彼こそ私たちの真の羊飼いであり、私たちをよく知っておられる方だからです。私たちがどんなに疲れていても、どんなに病んでいても、イエスは私たち一人一人ひとりに一番ふさわしい癒しを与えてくださるのです。それだけではありません。彼は何よりも私たちの根本的な病の原因を知り、その原因を取り去るためにご自身の命を捨ててくださった方なのです。ペトロはだから「この方こそ救いを与えることができる唯一の方だ」と語るのです。

 このイエスを救い主と信じることができた私たちはどんなに幸いなことでしょうか。神殿の門の前で足を癒された人は、「歩き回ったり踊ったりして神を賛美し」た(3章8節)と言います。私たちもまたこの人と同じように神を賛美する者と変えられています。そしてここに登場したペトロたちと同じようにイエスの復活を証するものとして召されているのです。だからルカは私たちにもイエスの送ってくださる聖霊が与えられ、神様の豊かな約束が実現すること体験することができると教えているのです。


2003.5.11「ナザレ人、イエス・キリストが」