2003.5.18「聖霊の慰めを受け」
使徒言行録9章26~31節
26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。
27 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。
28 それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。
29 また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。
30 それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
1.サウロを恐れる弟子たち
①サウロ=パウロの登場
今日、学ぶ使徒言行録の箇所にはサウロという人物が登場します。彼は新約聖書の中では別の名前で呼ばれています。むしろ、そちらの名前のほうが私たちには馴染みがあると言えるでしょう。彼のもうひとつの名前はパウロです。パウロはイエス・キリストの福音をイスラエルの国を越えて現在のトルコやギリシャ、ローマにも宣べ伝えた人物として有名です。また私たちの読んでいる新約聖書の『書簡』と呼ばれる書物、当時の教会や信者に宛てられた手紙の大部分はこのパウロが書いたものと考えられています。ですから「パウロなくして今日の教会はない」と言われるほどに彼はキリスト教会の歴史には欠かせない人物の一人と言えるのです。
この使徒言行録の13章からはこのパウロの活動が中心となって進んでいきます。ですから今日の部分はそのパウロの活動を紹介する前置きのような部分と考えてよいでしょう。そしてこの部分ではパウロがどのようにキリスト教会の一員として迎え入れられていったかということが語られています。
②迫害者サウロ
使徒言行録を学んでいくと教会にイエスから送られる聖霊が下った後、弟子たちの伝道を通してたくさんの人々が教会に加わっていたったことがわかります。ところが今日登場するサウロはその入信のきっかけも、キリスト教会に加わっていった関係も特別であったことが使徒言行録の記録からわかるのです。
まず、彼はもともとキリスト教会への熱心な迫害者として知られていました。キリスト教会の歴史で最初に殉教した人物として有名なのがステファノという人です。彼の殉教を伝える使徒言行録の7章の部分にサウロの名前が初めて登場しています。彼はそこでステファノを殺害するユダヤ人たちの計画に積極的にかかわっていたことが明らかにされています(7章58節、8章1節)。サウロはどうしてステファノの殺害に積極的に賛成していたのでしょう。彼は別に人を殺すことを好んだ『殺人者』ではありませんでした。彼がそのような行動に出た理由は、彼が熱心なユダヤ教の信徒であったからです。彼はガマリエルという当時、とても有名な聖書の学者の下で学んだ人物で、彼もまた聖書の研究家であったと言ってよいでしょう。彼はもともと、福音書の中でイエスと対立してファリサイ派という宗教者のグループのメンバーでした。ですから彼は自分の信条に従って、キリストを信じる者たちを聖書を曲げて解釈している『異端者』たちだと考えていたのです。つまり、彼がキリスト教会を迫害したのは彼の信仰への熱心がそうさせていたと言えるのです。
③サウロの改心
先週、神様の救いの計画はわたしたち人の目には不思議に見えるということを詩編の言葉から学びまし。実は初期のキリスト教会の歴史の中でもその不思議な神様のみ業がさまざまなところで表されています。まず、サウロたちの弾圧を逃れてエルサレムを脱出した最初のキリスト教会の信徒は、その逃亡先でキリストの福音を宣べ伝えました。つまり弾圧をきっかけにむしろ、キリスト教会の伝道は地域的に広まっていったのです。そこで迫害者サウロは新たに活動を開始したダマスコの町のキリスト教会を迫害するために、ユダヤ教会の認可状をもらって旅立ちます。それが今日の9章の最初の部分に記されています。
ところがそこでサウロの人生の上に驚くべきことが起こります。旅の途中でサウロは天からの光に出会い、目が見えなくなってしまいます。その上で彼は自分に語りかけるイエスの声を聞くのです(1~9節)。サウロの人生はこの復活されたイエスとの出会いで大転換を遂げていきます。やがて、彼はダマスコの町でこれもイエスの導きでサウロのもとを訪れたキリスト教会のメンバー、アナニアと出会います。サウロはアナニアに祈ってもらうと見えなくなっていた目が開かれ、そこで彼は洗礼を受けてキリストを受け入れるのです。
今日の部分ではそのサウロが今度はエルサレムの使徒たちと出会い、その仲間に加えられた場面が紹介されています。洗礼を受けたサウロはすぐに「イエスは神の子である」と人々に宣べ伝え始めます(20節)。今でも世界の大部分の人は天地を創られた唯一の神を信じています。なぜならユダヤ教徒もイスラム教徒も旧約聖書を信じています。しかし、彼らの信仰が明らかに誤りであると言えるのは、彼らが「イエスを神の子である」と信じていなからです。このイエス・キリストを通してだけ私たちは真の神を知ることができます。またこの真の神とともに生きる道が開かれるのです。サウロは洗礼を受けるやいなやこの真理を大胆に人々に宣べ伝えました。ところがその結果、今度はサウロ自身が迫害される側の人間になり、ダマスコを脱出せざるを得なくなるのです。
2.サウロを受け入れる弟子たち
①バルナバの働き
ダマスコを脱出後、サウロはエルサレムに向かいました。そこにはペトロたち使徒が所属するエルサレム教会がありました。サウロは同じ信仰を持つもの同士としてこのエルサレム教会の人々とまじわりを持とうとします。しかし、このことに戸惑ったのはエルサレム教会の人々でした。なぜなら、サウロは今までエルサレムの町でキリスト信者を迫害し続け、今度はダマスコの町に住む信者まで迫害しようとこのエルサレムの町から出発していった人物だからです。その彼が「自分も洗礼を受けてクリスチャンになりました」と言ってきても、彼らはにわかにこのことを信じることができません。
最近、昔北朝鮮から亡命者として韓国に侵入して、そこで北の秘密工作として働いた実際のスパイの映画が韓国で作られて有名になっていると言います。専門用語では「二重スパイ」というのでしょうか。エルサレム教会の人々もサウロは信徒のふりをして教会にもぐりこみ、その実情を把握した上で信徒を一網打尽にして捕まえようとしていると思えたのでしょう。ですから教会の人々はサウロのことを最初は非常に恐れたと語られています(26節)。
②バルナバの仲介
ところがサウロはやがてこのエルサレム教会の人々から仲間として受け入れられるようになります。サウロのために何人もの信徒が投獄され、あるいは命を失っていったのです。その犯人であるサウロをどうして教会のメンバーはこのように受け入れることができたのでしょうか。それには二つの理由があると考えることができます。
その第一の理由はバルナバという人物の仲介です。バルナバは以前学んだように、エルサレム教会の有力なメンバーの一人であり、困っている人たちのために自分の持っていた土地を売って、その代金を教会に献金した人物でした(4章36節)。このような行動から彼は教会の中で、多くの人々から好意と尊敬を受け、信用されていた人物であったと考えることができます。その彼がまずサウロを受け入れて、他の使徒たちに紹介したのです。ここで記されている「案内し」という言葉は「手を引いて導いた」という意味を持った言葉です。バルナバがどんなに熱心にサウロを教会の仲間にするために働いたかが表されています。ですからこのバルナバがいなかったら後の大伝道者パウロは生まれなかったと言うことができます。つまりこのバルナバがいなかったら教会の歴史は大きく変わってしまっていたのです。
彼は後にパウロの第一回の伝道旅行の同労者として共に働いています。バルナバやがて不幸なことにパウロと意見が合わずに別々に行動することになりますが、その仲違いの理由も実にバルナバの人柄を表しています。第二回の伝道旅行の同行者としてバルナバはマルコという人物を推薦します。ところがパウロはこのマルコが以前の伝道旅行の途中で職務を放棄して逃げ帰ってしまったことを問題にして「そんな人物は仲間として信用できない、おいていくべきだ」と主張します。バルナバはそこでこのマルコを最後まで擁護し、結局、パウロと別行動を取って、このマルコとともに伝道旅行に出発したのです。(15章36~41節)。言い伝えによればこのマルコこそ、後に使徒ペトロの助手として働き、やがてマルコによる福音書を記したあの人物だと考えられています。つまり、バルナバの行動は新約聖書の重要な著者パウロとマルコを育てる役目をしたことになります。ときには他人の誤解を受けても、キリストの福音を宣べ伝える仲間を育てようとしたバルナバの働きこそが、エルサレム教会とサウロとの関係を結びつけた第一の理由であったと言えるのです。
③聖霊の働きを認める
しかし、このバルナバの働きはある意味ではサウロをエルサレム教会に受け入れされるきっかけになったような理由でした。実はパウロ受け入れにはもっと大きな理由がそこにあったと考えられます。その理由はバルナバがサウロをエルサレム教会の人々にどのように紹介したかというところから分かります。
「しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した」(27節)。
バルナバはここでサウロが主イエスに出会い、主の語りかけを聞いたこと、そして彼がその結果、イエスを信じ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教したことを紹介しています。前半の部分はある意味ではサウロしか知りえない個人的な体験のお話です。しかし、他の人でも認めざるを得ない出来事は後半の彼が「ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した」ということです。実はこの出来事を聞いたときエルサレム教会の人々はそれについて思い当たることがありました。それは彼ら自身がどうして「イエスの名によって大胆に宣教し」始めたかということでした。それは彼らの固い決心や努力から生まれたものではありませんでした。彼らの上にイエスからの聖霊が下り、その聖霊の働きかけによって始まったのが彼らの宣教の働きだったのです。つまり、彼らはサウロの宣教の働きから彼の上に自分たちと同じ聖霊がイエスから送られていることを認めざるを得なかったのです。ですから同じ主が自分たちだけではなく、サウロの上にも働いておられることを悟ったのです。エルサレム教会のメンバーはこのことを通してかつての迫害者サウロを許し、自分たちの仲間として迎え入れることになります。つまり、彼らはサウロを通してなされる主イエスの活動を受け入れたとも言えるのです。
3.教会の発展
やがて、このエルサレム教会の人々に受け入れられたサウロはそこでもイエスの福音を大胆に宣べ伝え始めます。そしてそこでもユダヤ人たちの憎しみを受け、殺害されそうになったサウロを今度はエルサレム教会の人々が助け、彼をエルサレムから脱出させます。少し前までこの迫害者サウロの活動でどうなってしまうかわからなくなっていた教会が、このサウロの改心をきっかけにさらに大きな前進をとげていったことを聖書は次のように記しています。「教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」(31節)。
神の計画に従って教会は前進していきました。教会の発展はひとえにこの神のみ業のおかげと言えるのです。だからこそ、先週も申しましたようにこの使徒言行録は別名「聖霊行伝」と呼ばれ、教会の活動の主役がイエスから送られた聖霊であることを告げているのです。
教会はこの聖霊の業なしには前進することができません。ところでどうしてこんなにも豊かに聖霊は初代教会の人々の上に働くことができたのでしょうか。その秘訣を伝えるのが先ほど読んだヨハネによる福音書の15章に登場するイエスの言葉です。ここでは主イエスと私たちの霊的な関係がぶどうの木と枝とのたとえを通して語られています。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)。
彼らはこのイエスの命令どおり、さまざまに変化する出来事の中でもキリストにつながり続けました。だからこそ、キリストは彼らに聖霊を送り、彼らを通してその働きを進めることができたのです。サウロは自分を改心させたイエスを見つめ、彼に従うことをまず第一と考えました。バルナバはそのイエスがサウロを自分たちに遣わしたことを悟り、エルサレム教会の仲間たちに彼を紹介しました。またエルサレム教会の人々はイエスがこのサウロを選んで新たな宣教の働きをされようとすることを知り、そのイエスの計画に従おうとしたのです。だからこそ彼らはサウロへの疑いや憎しみを捨て、彼を受け入れることができたのです。
大切なのは私たちを通して、また私たちのまじわりを通してイエスが何をされようとしているかをいつも考えることなのです。私たちがそのイエスの働きに従うとするとき、私たちの教会の上にもイエスから豊かに聖霊が送られ、「平和、主への畏れ、聖霊の慰め」という祝福が豊かに与えられ、教会が前進していくのです。その真理を私たちに教えているのが今日の使徒言行録の聖書の箇所であると言えるのです。