2003.5.4「門がひとりでに開いたので」
ルカによる福音書24章35~48節
35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
1.荒唐無稽な「キリストの墓」の話
私は神学校を卒業した後、わずかの間でしたが青森県の三沢市にある教会で働いた経験があります。ところでこの三沢市よりも岩手県よりのところにあるのですが、新郷村という小さな村があります。そこに「イエス・キリストの墓」と言うものがあるのを皆さんはご存知でしょうか。荒唐無稽と言ってよいお話なのですが、ここの村に行くとイエス・キリストの墓というところに十字架が立てられているのです。それだけではなくて、年に一回、その村では「イエス・キリスト」祭というお祭りがあるといいます。そのお祭りではお坊さんか誰かがやってきてイエス・キリストを供養するらしいのです。この村の言い伝えによれば、イエス・キリストは十字架にかけられる前にひそかにユダヤを脱出して、艱難辛苦の末、この村にたどり着きそこで天寿をまっとうしたというのです。ついでに言えば、十字架にかかったのはイエス・キリストの弟「イスキリ」であったと彼らは説明します。そこで村には弟イスキリの霊を祭る供養塔も建てられているのです。
私はこの話を青森にいるときに何度も聞きましたが、ばかばかしいやら、あきれるやらで、残念ながら一度もその場所に行く気にはなれませんでした。そればかりか、遠方から訪ねてくる友人が「話の種にそこに行ってみよう」と言うと、「そんなつまらないところよりも、下北半島の恐山のほうがいい」と怖がる(?)友人を無理に恐山に連れて行ったこともありました。
もし、イエス・キリストが十字架にかかっていなかったなら、私たちの信仰はまったく意味のないものになってしまいます。なぜならイエス・キリストが私たちに代わって十字架につけられ、そこで死なれたからこそ私たちは今、救いを受けることができるのです。これはキリスト教の教えを根本的に支える中心です。どうも青森県でイエス・キリストの墓を建てた人たちはキリスト教ということも、ましてやイエス・キリストについても何も知らない人であったように思われます。
十字架がキリスト教の中心であるように、私たちが今日学ぼうとするキリストの復活という出来事ももう一方のキリスト教の中心であると言うことができます。私たちは今日どうして、このキリストの復活が私たちの信仰とって大切なのかということを学ぶともに、最初、復活という出来事を信じることが出来なかった弟子たちがどうしてそれを信じ、受け入れることができるようになったかについても学んでみたいのです。
2.肉体を持って復活したキリスト
①エマオで二人の弟子に現れたイエス
今日の聖書の箇所では復活されたイエスが弟子たちの前に現れた出来事が記されています。最初にこの出来事を導くように次のような言葉が登場します。
「二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」(35節)。
この言葉はこの直前に書かれているもうひとつの復活されたイエスの出現物語を受け継いでいます。そこで(13~35節)はエルサレムからエマオという村に向かおうとした二人の弟子が道の途中で見知らぬ旅人と出会い、その旅人にイエスの身に起こった出来事がかねてから聖書に預言されていたことであることを教えられます。そして、その旅人とともに二人の弟子が宿を取り、ともに食事をしようとしたときになって初めて彼らの目が開かれて、自分たちの目の前にいる旅人が復活されたイエスご自身であることに気づいたというのです。この後、イエスは彼らの前から姿を消してしまいますが、二人の弟子はこの出来事を知らせるためにいそいでエルサレムに戻り、他の弟子たちにその一部始終を伝えたのです。
②復活を受け入れることが出来ない弟子たち
そして二人の弟子がちょうどこの話を他の弟子たちに語っているとき、復活されたイエスが今度はその弟子たちの真ん中に現れます。イエスの語った「あなたがたに平和があるように」とは私たちの教会の名前にもなっている「シャローム」というユダヤ人の挨拶の言葉です。ところが復活されたイエスに会う、すばらしい出来事を体験したにもかかわらず弟子たちは平和を得ることも、喜ぶこともできません。その理由が次に語られています。
「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(37節)。
ここで復活という出来事を信じることが出来なかった弟子たちは自分たちの体験している、現実を「亡霊」の出現として理解し、恐れてしまいます。そこでイエスは次のように弟子たちを説得します。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(38~39節)。そう言ってイエスは実際に自分の手足を弟子たちに示されたのです。その手足にはイエスが十字架上で追った傷跡が残っています。ですから、その傷跡をイエスが弟子たちに示したのは彼らの前に現れた方が十字架にかかって死に、そこから甦られたまさしくイエスであることを証明しようとされているのです。ところが彼らは「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」と言うのです(41節)。とても面白い表現です。「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっている」。なおも弟子たちの混乱がここには表されています。
イエスは次に「ここに何か食べ物があるか」といって実際に弟子たちの前で魚を食べ始めます(41~43節)。幽霊には足がないとか、鏡に映らないとか昔から言い伝えがいろいろなとこで残っています。ユダヤの言い伝えによれば「幽霊は食物を食べられない」というものがあったそうです。つまり、イエスはここで自らの行動を通して自分が「亡霊や幽霊」でないことを弟子たちに証明して見せたのです。
3.どうしてイエスの復活が大切なのか
①復活はキリストの十字架の勝利を知らせるもの
この箇所では復活という出来事を簡単に受け入れられない弟子たちに対して、イエスは「そんな不信仰でどうする」といった非難を一言も語ることなく、むしろイエスのほうが懸命になって弟子たちにこの事実を教えようとする姿が描かれています。特にイエスはここで自分が肉体を持っていること、亡霊と違って物を食べることができる存在であることを彼らに示されています。
イエスの復活という出来事をなんとか自分たちの納得がいくようにと、昔から人はさまざまな解釈を考え出しました。ある人たちは実際に肉体を持って復活されたのではなく、弟子たちの心の中にイエスが現れたのだと語ります。そう考えれば、自分たちの信じる科学と矛盾しないと考えるからでしょう。しかし、この箇所の説明は、さまざまな復活についての人の合理的解釈を拒否して、イエスが本当に身体をもって甦ったということを強く証言しているのです。
実はイエスの十字架が事実であることが私たちの信仰にとって大切な真理であるように、イエスが身体をもって甦ったという事実もまた私たちの信仰を支える中心的な出来事なのです。だからこそ、福音書はそれにこだわってこのように丁寧にイエス・キリストの復活という出来事を私たちに説明しているのです。
ブッシュ大統領がイラク戦争の「戦闘終結宣言」をしたというニュースが数日前に流れました。ところが戦闘が終結しても、この戦争の目的だった「フセイン大統領」と「大量破壊兵器」がどこにどうなってしまったのか見つかりません。そのため「戦争が完全に終わったとは言えない」と多くのジャーナリストたちは語ります。
イエスは私たちの負うべき罪の刑罰を負って十字架にかかってくださいました。それはまさに私たちを救うための戦いであったと言えます。しかし、イエスが死んでしまって、それだけなら、それの戦いは本当にイエスの勝利であったのかどうかわかりません。それではイエスの勝利はどこではっきりとわかるのでしょうか。つまりイエスの復活は私たちのための戦いにイエスが完全に勝利してくださったことを知らせる「勝利宣言」であったといえるのです。ですから、私たちはこのイエスの復活という出来事を通して、イエスが私たちを支配する罪に勝利してくださり、私たちを苦しめてきたすべての問題から私たちを解放してくださったことを確信することができるのです。
②イエスの復活は私たちの復活を確信させるもの
使徒パウロはコリントの信徒への手紙一の15章でキリストが復活されたという出来事の重要性を次のように語っています。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」(17節)。
パウロはここでキリストの復活が私たちの罪から解放されたことを告げ知らせるものであることを教えています。その上で、パウロはキリストの復活についてもうひとつ重要なことを私たちに教えています。それはキリストの復活こそが、私たちの復活の根拠、確証となるということです。
「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」(20~21節)。
どんな人間にも死は必ず訪れます。しかし、イエスはすべての人間を支配している死に勝利して、復活してくださったのです。ですからイエスを信じるものは永遠の命を受け、また最後の日に甦ることができるのです。イエスの復活はこの祝福が私たちのものになったことを明らかに証明しているのです。
4.信仰生活の主人公はイエス
さて、私たちが今日の箇所からもうひとつ学びたいのは、弟子たちが結局どのようにしてイエスの復活を受け入れ、信じるようになったかということです。いままで読んだように丁寧に自分が復活されたことを示そうとされたイエスでしたが、むしろ決定的に弟子たちがこの事実を受け入れ、信じるようになったきっかけは、実は別のところにあったことを次の聖書の言葉は教えています。
「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」(45~46節)。
この言葉には大切なことが二つ語られています。ひとつはイエスの復活という不思議な出来事に混乱する弟子たちを最終的に信じるものとさせたのはイエスがその出来事を聖書から説明してくださったと言うことです。このことは復活されたイエスに出会いたい、その復活を心から確信して受け入れたいと願う私たちに大切な真理を語っています。つまりイエスは今でも聖書を通して復活の姿を私たちに確信させてくださるということなのです。私たちが聖書を読むときイエスは約束してくださった聖霊を私たちのうちに送ってくださって、人の理解力を超えた復活という出来事を確信させてくださるのです。「心を開いて」とはまさに、彼らがイエスの送られる聖霊を通して聖書に書かれた出来事が信じ、確信することができたことを語っているのです。
第二はイエスの復活を私たちが信じることができるのは今、語ったようにイエスの側の主権的なみ業の結果であり、イエスが送られる聖霊の働きの結果であるということです。つまり、言葉を変えて言えば私たちがこの復活という出来事を信じることができるのは、私たちの知恵を尽くした努力の結果ではないということです。もし、イエスの復活を信じることが、私たちの側の悟りやなんらかの能力によっているなら、それは真のあいまいなものになってしまいます。私たちの力や知恵はいつも不確かなものだからです。これほど私たちの信仰生活を不安定にさせるものはありません。しかし、私たちに与えられたこの信仰の主導権はいつも主イエス・キリストにあるのです。信じさせてくださるのはイエスであって、私たちが信じるのではないのです。
今日の箇所にも復活を自分の力では信じることができない弟子たちの姿が登場しています。しかし、イエスは彼らを信じる者に変えてくださいました。そして、そればかりではなく、彼らをこの復活を証言する証し人として選び、派遣してくださったのです。イエスは私たちにも同じ使命を与えてくださっています。それは大変に重要な使命です。しかし、私たちは心配する必要はありません。なぜならこの使命を与えてくださるイエスが責任をもって私たちを導いてくださることを私たちは知っているからです。復活の主はいまも生きて私たちの信仰生活を導いてくださっています。ですから、私たちもこの信仰生活を通して弟子たちにと同じように復活されたイエスにお会いすることができるのです。