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2003.6.1「地の果てに至るまで」

使徒言行録1章1~11節

1-2 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。

5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。

8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、

11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」


1.イエスの救いはどのように現実のものになるのか

①実現したイエスの救い

 福音記者ルカはその福音書でイエスのみ業とその教えを紹介して、イエスがどんなに素晴らしい救いを私たちのために成し遂げてくださったかを記しました。私たちが今日学んでいる使徒言行録はこの同じ著者ルカによって福音書に続く第二巻の書物として書かれたことがこの1章の冒頭に紹介されています。

「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」(1~2節)。

 ルカはこの使徒言行録の最初の部分でこの新たな書物と先に書かれた福音書との橋渡しをしています。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(3節)。ルカはここでイエスの復活と昇天までの足取りを簡単にたどります。その上でイエスの生涯を「イエスは苦難を受けた」という簡単な言葉で表現しています。この言葉はイエスの十字架を頂点とする彼の生涯の歩みを言い表したのです。

 イエス・キリストの生涯は「苦しむ」ためのものでした。そしてその「苦しみ」には重要な意味がありました。それは本来、罪を犯し、神の罰を受けて苦しむべき私たち人間を救うために、代わって担ってくださった苦しみだからです。このイエスの生涯と十字架の苦しみによって、私たち人間の世界が大きく変わってしまいました。以前は死と滅び、絶望に向かっていた私たちの人生が、命と希望に向かう歩みへと変えられたのです。これこそがイエスが私たちにもたらしてくださった素晴らしい救いの出来事なのです。


②どのようにして私たちのものになるか

 今はどうなっているのか知りませんが以前、私の父は宝くじを買い求めるのが趣味であったようです。父の趣味があくまでも宝くじを「買い求める」ことにあって、「当てる」ことではない証拠は、仏壇の引き出しの中にしまわれていた空クジの束を見ればわかりました。父が長年の間、買い求め続けてきた色とりどりの宝くじの束がそこに大切にしまわれていたからです。もちろん、いくら調べなおしても父のしまっている宝くじは空クジでしかありません。しかし不思議なことに毎年、数多くの宝くじが換金されないままにほって置かれていると言います。おそらく、その人が宝くじを買い求めたこともすっかり忘れてしまったのか、「どうせ当たるはずがないのだから」と決めてかかり、当たっているかどうかも調べないままになってしまうのかもしれません。しかし、せっかく高額の賞金を手に入れる権利を持っているのに、それを無駄にしてしまうというのはもったいないことではないでしょうか。

 それでは、このイエスのもたらしてくださった救い、この素晴らし「宝」はどのようにして私たち一人一人の人生に現実のものとなるのでしょうか。せっかくイエスが救いを実現してくださっても、それが私たちのものにならなければ何の役にもたちません。実はそのことを教えるのが私たちの学んでいる使徒言行録の内容だと言えます。そしてここに登場するクリスチャンたちはイエスのもたらしてくださった救いを自分のものとして受け、命と希望の中を生きたのです。その出発点が、今日の箇所で記されている主イエスの昇天の出来事であったことを聖書は私たちに教えているのです。


2.イエスは何のために天の昇られるのか

①指示と約束

 イエスは天に昇られる直前に弟子たちと食事をしながら次のような言葉を語られました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(4~5節)。

 この言葉にはイエスが弟子たちに与えられた指示と約束が含まれています。まず、彼らがエルサレムに留まり続けること、そしてイエスが以前から語ってくださってこと、父なる神の約束である「聖霊」が彼らの元に送られるときを待つようにという指示です。そして、その指示に従う者が「聖霊による洗礼を授けられる」と約束してくださっているのです。


②聖霊による洗礼

 かってバプテスマのヨハネという人物がイスラエルに現れ、自分の罪を悔い改める人々にヨルダン川で洗礼を授けると言う出来事が起こりました。この洗礼はある意味で自分が罪人であることを認め、神の救いが自分には必要であることを認めるためのものでした。しかし、イエスがここで与えようとしている聖霊の洗礼はそのようなものではありません。もはや神の救いはイエス・キリストの十字架によって実現しました。そのことを信じ、イエス・キリストに信頼して、彼に従う者に授けられるのがこの「聖霊による洗礼」です。イエスはこの聖霊の洗礼を、イエスを信じる人々に惜しみなく、また誰にでも与えてくださるというのです。実はこの聖霊こそがイエスの獲得された救いを私たちの一人一人のものとするものなのです。つまり、私たちはこの聖霊を受けない限り、イエスの救いとは無関係になってしまいます。それではこの聖霊による洗礼を誰もが受けられる保証はいったいどこにあるのでしょうか。それはその恵みを私たちに与えるためにイエスが天に昇られたことにあるのです。

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネによる福音書16章7節)。

 イエスはこの約束を私たちの上に成就させるために天に登られたのです。


3.主イエスの昇天

①不安の中でも希望を見出す鍵

 弟子たちはイエスに何か大切なときが迫っていることをイエスの言葉と姿を通して感じたのでしょうか。次のような質問をイエスにしています。

「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(6節)。

 この弟子たちの質問の真意がどこにあるか定かではありません。弟子たちはイエスが十字架にかかられる前に、イエスが新しい王国の王となって、イスラエルを苦しめている他の国々の力を滅ぼし、イスラエルの国を再興してくださることを夢見ていました。エマオの町への途上で復活されたイエスと出会った二人の弟子たちは最初、このような期待をかけていたイエスがあえなくユダヤ人たちに捕らえられ、十字架で殺されてしまったことに失望し、混乱していました(ルカ24章21節)。もしかしたら、イエスの復活の後も弟子たちは同じような期待をイエスに寄せていたのかもしれません。「イエスが復活されたのはイスラエルのために国を建て直すためだ」と彼らは考えていたのかもしれません。そう考えるとイエスの昇天は彼らの期待を大きく裏切るものになってしまいます。そこでイエスは弟子たちにこのように語ります。

「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(7~8節)。

 イエスはもしかしたら誤った期待をイエスに寄せていた弟子たちを正面から批判することをしていません。むしろ、ここでイエスが弟子たちに教えていることは「物事には知らなくてよいことと知らなければならないことがある」という真理です。

 先日もうちの家内は「朝からテレビを見るのはよくない」と言っていました。私たちは朝から無意識に家族の一員であるテレビのスイッチをつけることがあります。しかし、そこで放送されているのは殺人事件や、強盗などこの社会がどんなに深刻な問題を持っているかを知らせるものばかりです。もちろん私たちがそこからなんらかの解決の手段を探し出さすことができればよいでしょう。しかし、これらの番組の報道は私たちの新しい一日の出発を、不安にさせ、またいやな気分にさせるだけなのです。つまり私たちは知らなくてもよかった知識に支配されて、憂鬱な日々を送らなければなりません。

 聖書の預言をさまざまに解釈して、最後の日はいつどのようにやってくるのかと教える人々がいます。また、そのような解釈を興味本位に伝える本やテレビの番組が作られます。しかし、これもまた、人々に不安を与えるだけで何のよい結果ももたらしません。大切なのはイエスが私たちに教えようとされること、また、私たちに目を向けろと言われている出来事なのです。もし、私たちがこのイエスの言葉に耳を傾け、イエスが教えようとされることに目を向けるなら、私たちにどのような混乱の中でも不安や恐怖に支配されることなく、希望を見出すことができるのです。


②私たちを証人とするために

 それではイエスは弟子たちに何を知るようにと言われたのでしょうか。まず、それは先ほどのイエスの言葉の中に語られたように聖霊が天から彼らの元に下るということです。そして、この聖霊が弟子たちに下るときに彼らは「力」を受けるとイエスは語ります。そしてその力によって弟子たちは地の果てまでイエスの証人となるというのです。

 どんなに聖霊を受けたとしても、それだけでは何の意味もありません。またたとえ聖霊によって私たちが力を得たとしても、それを何のために使うかを知らなければその力を持て余すだけです。イエスはすべてのことは私たちがイエスの証人となって生きるために起こるのだとおしえられるのです。言葉を変えて言えば、私たちはイエスが復活して今も生きておられるという証しをするために、聖霊の洗礼を受け、その力を受けるのです。そしてイエスはこれらのことが必ず私たちに起こるために天の昇られたのです。

「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(9節)。

 イエスが上られた天とは、単なるどこかの物理的宇宙空間をさしているのではありません。元より聖書では「天」とは神様の王座がすえられたところ、神様のおられるところを指しています。ですからこの場合も、イエスは神の元に帰られたことが語られているのです。イエスは天の王座に座られるために天に昇られたのです。そして、そこから私たちのために聖霊を送ってくださり、私たちに力を与えて、私たちを証人としてくださるのです。


4.証人として生きる私たち

①何を証するのか

 イエスは私たちが「イエスの証人」となって生きていくことを望んでおられますし、またそれを実現するために聖霊を送ってくださいます。それでは「イエスの証人」として生きる私たちがいつも大切にしなければならないことは何でしょうか。最後に私たちはそのことを確認したいのです。第一に大切なことは私たちが証するのは復活されたイエスであって、自分自身ではないということです。そのために私たちは絶えず聖書の御言葉を読み、またその御言葉を伝えることが大切です。私たちが何か特別に優れたことをして、立派な人間と評価されないとイエスの証しができないと考える人がいるならそれは大きな誤解です。むしろ、私たちは自分のことではなくイエスのことを知らせることが大切なのです。

 私がカウンセリングの技術を学んだことのある田中信生という牧師は、学生時代、だいぶ素行が悪かったようです。そのことを知っている昔の仲間たちは、「田中が牧師になるんだから。本当に神様はいるかもしれない」と言って不思議がったと言います。私たちに聖霊を送ってくださる主イエスに信頼するなら、たとえ私たちの人生がどんなものであったとしても、主イエスはそれを用いて私たちを主の証人と変えてくださるのです。


②何の力で明かしするのか

 第二に大切なことは何の力で私たちはイエスの証人となるかと言うことです。それはイエスが今日の箇所で何度も繰り返すようにイエスが送ってくださる聖霊の力なのです。このとき、イエスのこの言葉を聞いた弟子たちの群れは本当にわずかな人数の人々でした。こんな小さな集団からやがてキリストの福音が全世界に伝えられ、世界の各地にキリストを信じる群れが起こされることなど想像もつかなかったことでしょう。しかし聖霊の力はそれを実現してくださったのです。私たちもまた、この聖霊の力に信頼して、イエスの証人となることが求められています。たとえ、私たちに能力がなく、小さな群れでも、神様は私たちを用いてくださるのです。


③誰がそれを完全なものとしてくださるのか

「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」」(10~11節)。

 天に昇られたイエスを見上げていた弟子たちに白い服を着た二人の人物、つまり天のみ使いたちは素晴らしい約束をここで語りました。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。イエスは再び私たちのところに戻って来てくださるというのです。それは何のためでしょう。すべての業を完成させるためです。「一生懸命やったのに、ここまでしかできなかった」。主イエスの証人として立てられた私たちがその使命をたとえ途中までしかできなかったとしても、イエスは私たちのなし得なかったところをご自身の再臨をもって完成に導いてくださるのです。だから私たちは失敗を恐れる必要はないのです。

 マルコによる福音書はこのような使命に生きた弟子たちの人生にどのような祝福が実現したかを次のようにかたります。「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(16章20節)。イエスの指示に従い約束を信じる私たちの人生にもこの祝福が実現することを聖書は教えているのです。


2003.6.1「地の果てに至るまで」