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2003.6.15「神の子とする霊を受けた」

ローマの信徒への手紙8章14~17節

14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。

15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。


1.霊に導かれる者

①神の霊が導いてくださる

 子供のころ両親に連れられたていろいろな遊園地にいったことを今でも思い出します。自分も父親になったのですから同じように子供たちに楽しい思い出を残してあげたいと思って、ディズニーランドに行きました。以前から子供たち連れていってあげたいと思いながらも二の足を踏んでいたのは、私が遊園地の主役ともいえるジェットコースターに乗るのが大の苦手だったからです。ところが、そんな私が騙されて(?)というべきでしょうか、『スペースマウンテン』というジェットコースターに乗る羽目になってしまいました。皆さんの中でも知っておられる方もいると思いますが。スペースマウンテンはジェットコースターの中でもそんなに起伏の激しい凝った乗り物ではありません。スペースマウンテンの怖さは別のとこにあります。あれは真っ黒な闇の中を走っていきますから、自分が今、どうなっているかさっぱり検討がつきません。何も見えないし、自分が今どこにいるか分からないということは「このまま振り落とされてしまうのではないか」とか、「いつになったらここから降りられるのか」という恐怖感を乗っている者に抱かせるのです。もちろん、ジェットコースターは決められたレールの上を走り、乗っている人に事故が起こらないようにちゃんと設計されているわけなのですが。降りたときには足がふらふらでまっすぐに歩けないという状況でした。

 ジェットコースターならよいのですが、もし私たちの信仰生活が暗闇のような自分では何も予想のつかないところを歩んでいるとしたら、私たちは何を頼りにして生きていったらよいのでしょうか。キリストを信じて信仰生活に入りたいと願う人が真剣に悩むのは、「信仰は持ちたいけれで、本当に自分のこれからの人生の中でこの信仰を持ち続けることができかどうか自信がない」という疑問です。しかし、この疑問は信仰についての大きな誤解から生じていると言ってよいでしょう。この疑問を持つ人の思いの中には「信仰生活とは自分が頑張って守り続けるものだ」という誤解があるのです。もし、そのような思いでこれから始まる信仰生活を送ろうと考えるなら、私たちの信仰生活は暗闇の中を走るスペースマウンテンより怖いものになってしまいます。なぜなら、いつ私たちは信仰生活から脱線してしまうか分からないからです。

 しかし、聖書は私たちの信仰生活を導くものは私たち自身の力ではなく、聖霊なる神であることを私たちにはっきりと教えています。今日のローマ人への手紙の中で使徒パウロはこのことを読者であるローマの信徒に丹念に教えています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(14節)。イエスの救いによって神の子とされた私達、クリスチャンはこのイエスから助け主なる聖霊をいただいて、その導きによって信仰生活を送ることができるのです。ですからどんな暗闇の中でも、どんな問題の中でも私たちはこの恵みの座から振り落とされる心配はないのです。なぜなら、この聖霊なる神が私たちを導いて私たちが神の子としてこの地上の生涯を生きることができるようにしてくださるからです。


②律法主義からの解放

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」(15節前半)。

 パウロはここで私達を導く聖霊のみ業について詳しく語ります。聖霊は「あなたがたを、人を奴隷として再び恐れに陥れるような霊ではない」と彼は説明します。しかし、この言葉は同時にあなたがたは神に救われる前、つまりこの聖霊を受ける前には「奴隷として恐れの中に陥っていた者たち」だったと語っているのです。

 キリストの救いを受け入れず、この聖霊の働きを理解しない人々の救いについての考え方はいつも律法主義に陥ります。律法主義とは「神の子になるためにはまず自分が頑張る必要がある」という考えた方です。ユダヤ人たちは聖書に記されている神の掟を熱心に守ることで自分が神様のお気に入りとなり、「神の子」となろうとしたのです。しかし、このような考え方に支配される人は信仰生活を外面的には熱心に送りますがその心には平安も喜びもありません。なぜならば、自分の努力を一瞬たりとも止めてしまえば、自分は失格者になってしまうという不安と恐れが律法主義者の心を支配しているからです。

 しかし、パウロは、「私たちはそのような方法で神の子になるのではない」とここで断言しています。私たちが神の子となれるのは主イエス・キリストの救いのみ業に100パーセントかかっています。そして、イエスはその救いみ業を完全に成し遂げられたとき、聖霊なる神を送ってくださり私たちを神の子としてくださったのです。私たちはこのイエス・キリストの救いによってのみ「神の子」とされる特権を受けることができるのです。他のいかなる方法でも私たちが「神の子」となる方法はないのです。


2.証する霊

①「アッバ、父よ」

 「この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」(15節後半)。この聖霊が私たちのうちで働いて私たちが天の父なる神を「アッバ、父よ」と呼ぶようにしてくださるとパウロは私たちの信仰生活の現実を語ります。私たちが信仰生活の中で天の神様を「おとうさん」と大きな声を出して呼ぶことができる。それは簡単なように見えるのですが、本来の人間にはできない聖霊のみ業の結果だとパウロはここで教えているのです。

 旧約聖書の創世記3章によれば最初に罪を犯した私達人間の先祖アダムとエバに起こった大きな変化は、それまで親しく交わることができた神様を恐れ、神様から身を隠すようになったということでした(8~10節)。なぜなら罪を犯した人間は正しい神様から自分に厳しい罰が下ることを恐れなければならないからです。ですから罪ある人間は神を恐れ、その前から逃げ出そうとします。

 しかし、イエス・キリストを信じる私たちには聖霊の働きによって、むしろ大胆にこの神様に呼びかけることができるようになるのです。なぜなら、私たちの罪はすべてイエスの十字架で贖われているからです。そして私たちは父なる神とイエス・キリストの間にあった親しい愛の関係と同じような関係に今、入れられるのです。その証拠が、「私たちが今、神を「父よ、おとうさん」と呼べることにあるのだ」とここではパウロは説明しているのです。


②私たちのための唯一の証人

「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(16節)。

 私たちがイエスによってすでに神の子とされているという事実を証ししてくれる完全な証人こそこの聖霊であるとパウロは重ねて語ります。中学生だった娘さんを北朝鮮に拉致された横田さんご夫妻は自分たちの孫が北朝鮮で生きていることをDNA鑑定で知ることができました。横田さんご夫妻とそのお孫さんの間に血の繋がりがあることがDNA鑑定ではっきり認められたのです。ところが神様と私たちの関係はそう簡単には鑑定ができません。なぜなら、私たちはもともと神様と血の繋がりのある実子ではないからです。神様の真の子はイエス・キリストの他おられないのです。私たちは神様に養子とされたのだと考えてよいでしょう。しかし、もし裁判所でその関係が争われるとしても私たちには完全な証人がおられる、その方が聖霊なる神だとここでパウロは教えているのです。

 ほかの何者もこの関係を証しできるものはありません。信仰生活が順調で、何もかもうまくいっているとき、私たちは何かそのことで「自分が神の子」であるという証拠を受けたと考えることがあります。もちろん、その素晴らしい生活を与えてくださった神様に感謝を捧げることは大切です。しかし、その生活自身が私たちを神の子としている証拠だと考えるなら、私たちの信仰生活に大きな嵐が訪れて、問題が起こったとき私たちはその証拠も失ってしまうことになりかねないからです。

 聖霊はどのようなときも私たちの心にみ言葉を通して働きかけてくださる方です。さまざまな出来事が起きて、私たちの生活から喜びや感謝がたとえ一時的に奪われてしまうときでも、また、私たちの周りの人が「あなたは本当に神様から救われているですか」と疑問を投げかけるときにも、聖霊は私たちに働きかけて「あなたはイエス・キリストの恵みによってすでに神の子」とされていると証言し続けてくださるのです。


3.キリストと共に相続人(17節)

①何を相続するのか

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」(17節)。

 私たちがイエス・キリストの救いの恵みによって「神の子」とされる、それだけでも私たちには十分に素晴らしいことなのにパウロは「それだけではないぞ、あなたがたが神の子とされたということは、もっと素晴らしいことなのだ」と私たちに畳み掛けるように教えています。それがここで登場する「相続」という出来事です。この世では『相続貧乏』と言うのがあって相続税を支払うためにせっかく引き継いだ土地や屋敷を人手に渡さなければならないことがあるそうです。しかし、神様のくださる相続財産はそのようなものではありません。

 それでは私たちに与えられるこの神様の相続財産とはどのようなものなのでしょうか。私たちは今、イエス・キリストによって「神の子」とされています。つまりそのことは、本当の神の子であるイエスと同じように神様の前で取り扱われるということを意味しています。ということはここで私たちが受け継ぐことができる相続財産とは主イエス・キリストが本来、受け継ぐことになっているすべての祝福であることが分かるのです。「絵にも描けない美しさ」という歌い文句がありますが、ここで語られている相続財産は地上の言葉では言い尽くすことのできないすばらしいものです。私たちはこの相続財産をこれから受け継ぐことができるのです。


②神を父とする者の素晴らしさ

 マルコによる福音書によれば主イエスは十字架にかかられる前の夜、ゲッセマネの園で次のような祈りを捧げられています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14章36節)。

 このとき自分を殺害しようとする敵がもうすぐ自分のところにやってくることをイエスは知っていました。ところが、イエスの弟子たちはその苦しみも知らないで眠り込んでいます。恐れと孤独の中で、頼るべき者を何ももち得ないように見えたそのとき主イエスは「アッバ、父よ」と祈ったのです。イエスが自分のみ業を成し遂げることができたのは、この「アッバ、父よ」と呼ぶことができる父なる神様との深い愛の関係があったからでした。

 人が「本当に自分は一人ぼっちだ」とつくづく味わうのは、試練のときでなないでしょうか。しかし、私たちはどのような試練のうちにあっても孤独ではありません。神が私たちと共にいてくださって、私たちの祈りを聞いてくださるのです。その事実を聖霊なる神は信仰生活の中で私たちに証ししてくださるのです。だから私たちもまた、この地上の生活の中で父なる神を信頼して歩むことができるのです。この事実を私たちがいつも学んでいるハイデルベルク信仰問答は次のように語っています。

『問26「われは、天地の創造主、能わざるところなき父の神を信ず。」というときには、あたたは、何を信じているのですか。

答 天と地と、その中にあるすぺてのものを、無より造り、これを、その永遠のみむねと摂理によって、保ち、支配して下さる、われらの主イエス・キリストの永遠の父が、そのみ子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父にていますこと、その神に、わたしは、依り頼み、神が、からだと魂に必要なすべてのものを、備えて下さり、このなやみの多い世において、わたしにお与え下さる、どのような不幸さえも、わたしの益として下さることを、疑わないことであります。なぜなら、神は、全能の神なるゆえに、これをなさることができ、また、信頼すぺき父なるゆえに、喜んで、して下さるからであります。』

 神は私たちがこのような信仰を持ち続けてことができるようにと、聖霊なる神を私たちの導き手として与えてくださるのです。だからこそ私たちはこの地上の生涯の中でも神の子として歩み続けることができることを今日の聖書は教えているのです。


2003.6.15「神の子とする霊を受けた」