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2003.6.22「永遠の贖いを成し遂げられた」

ヘブライ人への手紙9章11~15節

11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、

12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、

14 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。


1.神に近づきたい

①殺風景な教会

 クリスチャンホームで生まれた方は別としても、皆さんは最初に教会という建物に入られたときどのような印象をもたれたでしょうか。ギリシャ正教会やカトリック教会のような建物は例外ですが、案外多くの方はキリスト教会の内部が、自分が今まで想像していたものよりも、殺風景で、何もないところだと感じられた方が多いのではないでしょうか。私たちはこの日本で子供のときから近くにお寺や神社のある環境で育っています。私たちが見慣れているお寺や神社にくらべてみてもキリスト教会の建物はたいへんに簡素な作りになっています。おそらく、その殺風景の一番の原因は私たちの教会にはご本尊やご神体と言ったものや、それを祭る祭壇がないからではないでしょうか。

 以前、本で読んだ話ですが、近所の人から「ご本尊さんにささげてください」と家で取れた野菜や食べ物をいただいて「どうしようか」と迷ってしまった牧師がいました。そこで「せっかくだから、生き神様(?)が食べてしまおう」とその牧師はそれをおいしくいただいたという話を語っていました。もちろん、本当に生きておられる真の神は使徒パウロが語ったように、天地万物を創られた方ですから、人の作った宮などのすむ必要がありません(使徒17:24)。ですから神様を小さな祭壇や建物に閉じ込めてしまおうとするのは、この真の神様を知ることができない人々から生まれる発想なのです。


②エルサレム神殿

 しかし、どうして多くの人間はこのような祭壇を作ったり、それを祭る建物を建てようとするのでしょうか。それは人がそのような建物に入ってなら「神様に会える」、「神様に近づける」という実感が持てると考えているからではないでしょうか。だから最初に教会に来たときに、「どうも殺風景だ」と私たちが考えた背後には、「神様がここにおられるという実感がつかめない」という気持ちが隠されていたと言っていいのではないでしょうか。

 聖書を読むと実は真の神を礼拝するイスラエルの人々も、祭壇を築いたり、神殿を持っていたことがわかります。ただこの場合の大半は人間が勝手に作り出したものではなく、神様の命令によって、その細部に至るまで細かい指示を神様から受けて作られたものであったと言えます。特にモーセの時代には神様との会見の天幕が作られました。そしてやがて、イスラエルの人々がカナンの地に定着していくに従い、それは神殿となり、最後にはエルサレムに大規模な神殿が作られます。この神殿はダビデ王によって、計画され、その息子のソロモン王によって完成されたものです。やがて他国の侵略を受けたイスラエルはエルサレムの神殿を破壊されるという経験しますが、その後のエズラ、ネヘミヤの神殿再建の労苦は旧約聖書に記されており、大変に有名なお話です。イエスの活動の舞台となるエルサレムの神殿はこの再建された神殿をヘロデ大王が長い時間をかけて改築したものでした。しかし、この神殿も紀元70年ごろにエルサレムに侵入したローマの軍隊によって完全に破壊されてしまいます。それ以来、エルサレムの神殿は現在に至るまで再建されていません。

 この神殿では祭司という神殿で働くために特別に選ばれた人々が仕えていて、彼らは聖書の規定に従ってさまざまな儀式を執り行っていました。今日、私たちが学ぶヘブライ人への手紙はこの神殿での儀式をよく知っている人が、同じようにそのことをよく知っている人々に送ったものと考えられています。ですからこの手紙は「ヘブライ人」、つまり「ユダヤ人」に送られた手紙だと考えられ、昔からこのような名称がつけられているのです。


2.神に近づくために

①動物犠牲の必要性

 この神殿で祭司たちが執り行っていた儀式の中心は何であったのでしょうか。それが今日の聖書箇所に記されています。祭司たちはこの神殿で動物犠牲を捧げていたのです。現代の動物愛護団体が聞いたら、抗議行動が起こるかもしれませんが。エルサレム神殿ではたくさんの動物が犠牲として捧げられ、その命が奪われていました。それではどうして、このような犠牲が神殿で祭司たちの手によって捧げられる必要があったのでしょうか。それは一言でいって、傷つけられた神様と人間との関係を修復し、回復させるためのものであったと言えます。何度も私たちが学んできているように、私たちと神様との関係を破壊するものは、私たち人間の持っている罪の性質です。罪を犯した人間はそのままでは神に近づくことも、仕えることもできません。そこで必要になってくるのはその罪を償うと言うことです。私たちの社会にも刑法という法律があって、罪を犯したものが刑罰を受けてその罪を償う制度があります。同じように神様は罪を犯した人間がその罪を償うことを求めておられるのです。ところが聖書によれば私たちの犯した罪はすべて自分の命をもって償う必要のある重罪なのです。そこで登場するのが動物犠牲です。つまり神殿で捧げられる動物犠牲は私たちの命の代わりに捧げられるものだったと言えるのです。それが動物犠牲を祭司たちが神殿で捧げた大きな理由でした。


②罪の自覚

 聖書という明確な基準を持っていない人々にとって罪、あるいはその罪を犯した者の深刻さというのはなかなか理解ができないものです。そのために、多くの人は自分が罪によって死を免れることができない立場にあることを理解することができません。なぜなら、聖書という基準をもたない人の判断は絶えず、主観的であり、また相対的な判断であるため、変わりやすい上に曖昧だからです。

 以前、青森で働いていたときのお話です。そのときも私はヤング宣教師に協力するという形で青森県の三沢というところにあった伝道所で働いていました。しかし当時、ヤング宣教師は札幌に住んでいましたので滅多に私と会う機会はありませんでした。ところがアメリカから皆さんもご存知のグレース・バグアル先生が英語の奉仕のために来日することになりました。そのときグレース先生が生活するためにもともと三沢伝道を始めた宣教師が乗っていた車を先生に引き渡すことになりました。とても、年期が入った今にもタイヤがひとりでに外れるのではないかと思うような古い車でした。しかも、それを使っていた前の宣教師はあまり車をきれいにするという習慣がなかった上に、愛犬までその車に乗せていましたので、内部もあまりきれいではありませんでした。さらに、その車を私が受け継ぎ、しばらく乗っていたので、いつのまにかその車は「走るゴミ箱」と化していたのです。

 その車を引き渡すことになり、私も「これでは申し訳ない」と一生懸命になって掃除をしてヤング宣教師に渡したのです。今でも思い出しますが、それは雪の降り出した寒い夕方の出来事でした。ヤング先生はその車を受け取ると簡単な掃除道具を持ってきて、私の掃除をしたばかりの車をさらに丹念に掃除しはじめたのです。その三時間後、外出先から教会に戻ってきた私はびっくりする光景を目撃しました。もうすっかり暗くなった教会の駐車場でヤング宣教師はまだ、その車の中を掃除していたのです。あのとき、私はつくづくヤング先生と自分は美的感覚に違いがあるのだなと思ったしだいです。

 このような美的感覚は主観的なものではっきりとした基準がありませんから、人はそれぞれ違った感覚を持っています。実は私たちの社会では罪に対する感覚も非常に主観的なところがあります。赤信号では絶対にわたらない人があれば、その一方で安全を確認した上ですいすいと渡って行ってしまう人がいるのもその例でしょう。ところが、聖書の世界ではこの罪に対してのはっきりとした規定があります。それが神の与えてくださった律法です。この律法に従って自分の生活を省みるとき、イスラエルの人々は自分が罪を犯して、このままでは神様の罰を受けざるを得ない者たちであることがよく分かったのです。だからこそ彼らはそれを償うために、神殿で動物犠牲を熱心に捧げることになったのです。


3.成し遂げられた契約

②キリストが成し遂げてくださった犠牲

 今日の箇所ではとくにイエス・キリストが真の大祭司としてただ一度だけ捧げられた犠牲と、イスラエルの民が今まで捧げ続けてきた犠牲とが対比されています。神殿に仕える祭司たちのリーダーであった「大祭司」は年に一度、規定に従って神殿の最も奥にある至聖所に「幕屋」を通って入り、「あがないの捧げ物」を捧げました(レビ記16:3~16)。「雄山羊と若い雄牛の血」(12節)とはそのことを指しています。この場合、雄山羊は民の罪を贖うために、若い雄牛はこの儀式をつかさどる大祭司自身とその家族の罪を贖うために捧げられたといいます。そして、この犠牲は毎年繰り返し、行われていたのです。

 この古い契約にもとづく儀式に代わった、今やキリストにより新しい契約が成就したことをこのヘブライ人への手紙の著者は読者たちに語ります。新しい契約における大祭司は「イエス・キリスト」ご自身です。その上でイエスは動物の犠牲ではなく、ご自身の命を捧げられました。私たちの罪を贖うために、イエスが十字架にかかり、そこで命を捧げられたことが、この大祭司の務めを行われたことだとこの手紙は説明しているのです。しかも、新たにここで捧げられたイエスの命、イエスの血は毎年、繰り返してささげ続けられなければならなかった動物の犠牲とは違ってただ一度限り捧げればよい十分な捧げ物だったと言うのです。ここで「永遠の贖いを成し遂げられたのです」(12節)と語られているのは私たちの罪のすべてがこのイエスのただ一度の十字架によって贖われたことを表しています。また、この手紙は古い契約で捧げられた動物犠牲はそれを捧げた者たちの「身を清める」(外側)ことだけを意味していましたが、新たに捧げられたキリストの血は「わたしたちの良心を死んだ業から清める」ものだと教えています。聖書の人間観によれば人間の「良心」は私たちが神様を礼拝するときにもっとも大切な働きをする部分だと考えられています。つまり、キリストはその血によって私たちの良心を清め、神を礼拝し、神に仕えることができるものと私たちを変えてくださったというのです。ここには新たに捧げられたキリストの犠牲の一回性と完全性が説明されているのです。


②大いなる恵み

 「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉を子供のころ学んだ記憶があります。井戸の中に住んでいるかえるは生まれたときから井戸の中の世界しか知りません。ですから自分がどんなに小さな世界に住んでいたとしても、それに満足しきっているのです。そのかえるのような生き方をする人間の姿を揶揄する言葉であったと思います。

 ユダヤ人たちは神殿で大祭司によって繰り返される「動物犠牲」を知っていました。彼らは大きな神殿で荘厳な儀式の中で執り行われる、この儀式を自分たちの生活にとって最も大切なものだと信じて守ってきたのです。

 しかし、このヘブライ人への手紙の著者はキリストによる新しい契約とその恵みを知ったとき、いままでのものは「本当に小さな」世界に住んでいたものが自己満足のために行っていたようなものだと思ったに違いないのです。ですから彼はキリストの捧げられた犠牲を「この世のものではない、更に大きく、更に完全な」ものとこの手紙で紹介しているのです。これはまさにキリストの十字架の救いという「大海」を知ってしまった著者が語る実感であったと言えます。こんなに素晴らしい出来事を今、私たちは知っている。このキリストのみ業によって私たちの罪は完全に贖われ、私たちは今、神様を礼拝できる者と変えられているのです。この真理をヘブライ人への手紙は感動をもって私たちに伝えているのです。

 私たちの教会堂には荘厳な祭壇はありません。もちろん動物犠牲を捧げることも私たちはしていません。しかし、私たちの教会がどのように簡単なものであっても、いや、私たちがどこにあっても神様を礼拝することができるようになった理由はここにあるのです。海の上に浮かぶ氷山の姿は小さくても、海中に沈んでいる大きな氷の部分によってその氷山は支えられているように、私たちの礼拝が真の大祭司イエス・キリストのみ業によって支えられていることを私たちは今日の聖書箇所から覚え、心からの感謝を捧げたいと思います。


2003.6.22「永遠の贖いを成し遂げられた」