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2003.6.29「門がひとりでに開いたので」

使徒言行録12章1~11節

1 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、

2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。

3 そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。

4 ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。

5 こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。

6 ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。

7 すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。

8 天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。

9 それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。

10 第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。

11 ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」


1.神様は「自動販売機」ではない

 神学生のとき、私は英語がとても苦手でたいへんな苦労をしました。なぜなら神学校で教科書として指定される書物の大半がいままで見たこともないような部厚い英書だったからです。そんな英語の苦手な私ともう一人の同級生のために当時、神学校で英語を教えていた岩井素子先生がわざわざ中学校の英語の問題集を買ってきて夏休みの午後、毎日教えてくださったことがありました。この岩井先生はアメリカやオランダに留学したことのある語学に堪能な秀才でしたが、一つ大きな弱点を持っていました。それは先生がよく日本語の単語を忘れてしまうことです。灘教会の祈祷会でのときだったと思います。岩井先生が「ほら、櫻井君。あのコインを入れて、下からジュースとか、コーラが出てくるもの、えーと…」と私に尋ねるのです。私が「先生、それは自動販売機でしょう」と答えると、「そうそう」と笑顔でうなずかれていた先生の姿を思い出します。おそらくそのとき先生は私がたちが神様に祈ることが「自動販売機」にお金を入れるようなことだと考えてはならないことを説明しようとしたのだと思います。

 お金を入れれば自分の期待したものがその通りでてくるのが「自動販売機」の素晴らしい点です。しかし、もし私たちが神様に祈りを捧げるときいつも自分の期待したとおりの答えが返ってくると考えていたら、それは大きな誤解であると言えます。なぜなら、祈りにおいて私達はたびたび自分の期待したとおりの答えを受けないばかりか、自分が期待したものと違った答えを受け取ることがあるからです。今日の箇所ではエルサレム教会に起こった大きな試練と、それに対するエルサレム教会の祈りが記されています。また、その教会の祈りに答えられた神のみ業が記されています。私たちはこの箇所を読むとき、エルサレム教会の人々が試練の中でどのような祈りを捧げたかを垣間見ることができるのです。


2.試練に立たされるエルサレム教会

①ヤコブの死

 使徒言行録はイエスの語られた「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1章8節)という約束がその通り実現していったことを記しています。すでに今日の12章の時点で教会の伝道はユダヤ、サマリアの全土だけではなく、異邦人世界にまで広がっていました。この箇所の直前では、エルサレム教会からアンティオケに派遣されたバルナバと、新しく教会に加わったサウロ(後のパウロ)が合流して、ともに働き始めたことが記されています(11章19~30節)。そしてこの後の13章からはこの二人の伝道旅行がいよいよ開始されるのです。

 そのような流れから考えるとここで突然、エルサレム教会とペトロの上に起こった話題が使徒言行録に登場するのは「不自然だ」と考える聖書学者もいるようです。つまり使徒言行録には本来この12章の部分は存在しないで、11章に13章がつながっていたと考えるのです。しかし、別の聖書学者は「事実とは決して流れのよいもの、自然なものではない」と語っています。「計画通りに行っているようで、突然、予期に反した出来事が起こるのが現実の歴史だ」と彼は言うのです。

 そのような意味では発展する教会の歩みの中で、それに釘をさすような形で起こった出来事がこの12章に登場する事件だと考えることができます。ここではまずイエスの十二弟子の一人であった「ヨハネの兄弟ヤコブ」が殉教の死を遂げています。それはエルサレム教会の人々の心に大きな衝撃を与える事件であったはずです。しかし実は彼の殉教はイエスによってすでに預言されていたことでもありました。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」(マルコ10章39節)。イエスはこのときご自分がこれから十字架の死を遂げることを預言しますが、ヤコブとヨハネはその真意を知らないまま「自分たちも同じような覚悟ができています」と答えるのです。その二人にイエスはやがて彼らも同じような死を遂げることを預言されたのです。そしてヤコブはそのイエスの預言の通り殉教の死を遂げたのです。


②ヘロデ・アグリッパ1世の狙い

 ここに登場する「ヘロデ王」とはイエスが誕生したときに登場する「ヘロデ大王」(前73年頃~後4年)から見て孫に当たる「ヘロデ・アグリッパ1世」(前10年~後44年)と呼ばれる人物です。彼は母方の家系をたどればユダヤの大祭司のハスモン家の血を引いているという説もあります。彼は幼少の頃からローマで育ち、ローマ皇帝との関係も深かったためにユダヤとサマリア全土を治める最後の王として君臨しました。しかしながら彼も元々はユダヤ人ではないヘロデ家の出身であることからそのままでは純粋なユダヤ人の王とは認めてもらえない立場にありました。だからこそ彼は自分の地位を確保するために熱心であったといえるのです。彼はそこでサドカイ派やファリサイ派といった当時のユダヤの民衆を支配していた宗教的指導者たちが共通して憎んでいるキリスト教会に目をつけ、弾圧の手を向けたのです。まず彼はエルサレム教会の有力なメンバーであったヤコブを捕らえ、彼を殺してしまいます。ユダヤ人たちの支持を集めることに躍起になっているヘロデはこのことが「ユダヤ人たちに喜ばれて」いることを知ると、さらにエルサレム教会の中心的なリーダーと考えられたていたペトロに目をつけ、彼を捕らえさせ、牢獄に入れてしまうのです。

 ペトロの牢獄は四人一組の兵士四組によって厳重に守られ監視されていました。ヘロデはペトロがエルサレム教会の人々の手で奪還されることを恐れたのだと思います。過越しの祭りが終わったら、ちょうどそのためにエルサレムに集まっていた巡礼者たちの前にペトロを引き出して、彼を殺害しようと考えたのです。そうすればヘロデはユダヤ教会のために異端者たちを処罰した教会の守護者のような役割を演じることになり、ユダヤの民衆の支持を得られると考えたからです。


③祈り続ける教会

 このように絶体絶命といってよいような立場に立たされたペトロでした。しかし、使徒言行録の著者ルカはこのペトロの背後で彼のために教会の人々が熱心に祈っていたことを付け加えています(5節)。仲間が窮地に立たされているときにその仲間のために熱心に祈るということは当たり前のことかもしれません。しかし、彼らはこの直前に同じように教会の大切なリーダーの一人であったヤコブを失うという体験をしたばかりでした。おそらく、ヤコブが捕らえられたときも教会は彼のために熱心に祈りを捧げていたはずです。しかし、ヤコブはその祈りにもかかわらずヘロデの手で殺されてしまったのです。同じように今度はペトロが捕らえられて、殺されようとしています。教会の人々は自分たちの無力さを痛感していたかもしれません。しかし、その無力さの中でも彼らは祈ることをやめることはありませんでした。

 「祈っても無駄だ」。そんな声が聞こえてくるような出来事に出会うことが私たちにもあります。祈りとはそのような意味でその現実との戦いと言うことができるかもしれません。私たちは自分の無力さを痛感します。しかし、だからこそ私たちは祈り続ける必要があるのです。エルサレム教会の姿はそのことを私たちに教えています。


3.天使によって救出されるペトロ

①獄中で眠るペトロ

 初代教会の使徒たちはその働きのゆえにたびたび牢獄に閉じ込められました。ペトロもすでに「足の不自由な人」を癒す奇跡を行ったときに投獄されています(4章1~22節)。また、その後も使徒たちが揃って投獄される事件が起こりました(5章17~26)。なによりも私たちの心に残るのはフィリピの地で投獄されたパウロとシラスのお話です(16章16~34節)。最近、名古屋刑務所で受刑者たちに拷問のような仕打ちをして死に至らしめた刑務官たちの罪が問題となっています。人権について厳しく法制化されている現代の日本でさえこのような有様です。ましてや、この時代の牢屋やそこに囚われた人々には人権などはなきに等しいものであったはずです。裁判なしで簡単に囚人の命が奪われることもたくさんありました。私だったらこんなところに入れられたすぐに気が変になってしまうかもしれないと思います。しかし、フィリピの牢獄でパウロとシラスは神を賛美しました。また、今日のところで登場するペトロも意外な姿を示しています。もうすぐ処刑されてしまうかもしれない彼が牢獄の中でぐっすりと眠り込んでいたのです。そのとき天使が彼のわき腹を突っつかなければ気づかないほどに彼は深い眠りに入っていたというのです。「悪い奴ほどよく眠る」と世間では言いますが、ペトロの場合は神様の奇跡よって、危機的な状態の中でも守られ平安な眠りが与えられていたのでしょう。つまり神の助けはすでにペトロの上に現れていたのです。


②神が救い出してくださった

 突然の天使の出現、そしてあれほど固くペトロを繋ぎ止めていた鎖が簡単に外れてしまいます。その上でペトロは彼の脱獄を阻止すべく配置されていた二重三重の監視と障害を乗り越えて脱出するのです。がっしりと閉じられた鉄の門がひとりでに開かれます。それはこの物語の主人公がペトロでも、天使でもなく、神ご自身であることを暗示しています。神様が窮地に立たされたペトロを守り、脱出の道を開かれたのです。

 ところが、この出来事があまりにも突然のことであり、またペトロも経験したことのない不思議な出来事だったからなのでしょうか、彼は自分の前に起った現実をなかなか把握することができません。あたかも、牢獄で眠りこけていたペトロがその夢でこの情景を夢見たといえるような感じだったのでしょう。夢であれば目覚めたとき、ペトロは自分がやはり重い鎖につながれ、冷たい牢獄の中にいることに気づくはずでした。しかしペトロの救出劇は現実のできごとでした。そして目覚めてペトロは自分が神の御手の中で守られ、助けられたことを悟るのです。

 フレンドシップアワーで聖書のみ言葉を手がかりに参加者といろいろな会話を交わします。そのときお互いに実感するのは、「自分はそのときには気づかなかったけれど、神様に守られていたのだ」という事実です。自分の人生に神様が豊かに働いてくださっていることを知ることができるのです。一人で考えるだけではそうはなかなかできません。もしかしたら、悔しい思いや、残念な思いなどだけが甦ってきてしまうかもしれません。しかし、聖書のみ言葉に促されて、私たちが自分の人生を振り返るとき私たちもまた、「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」と言うペトロの言葉を自分の言葉として語ることができるのです。


4.教会の祈り

 さて、このようにペトロは神様の素晴らしい力によってその窮地から救われました。しかし、ここでは最初に語ったように牢獄のペトロと共に教会の仲間たちが熱心に祈り続けたことをもう一度最後に考えたいのです。実はこのペトロの脱出の後、彼は自分のために祈り続けている仲間のところに行って自分の安否を告げています。ところが、そのペトロの出現に何よりも驚いたのが、彼のために祈り続けていた人々なのです。まるでそれが信じられないかのように彼らは行動しているのです(12~17節)。

 以前、私の友人の牧師が彼の教会の祈祷会に出席している一人の姉妹のお祈りについて語っていたことがあります。その姉妹の祈りは彼によれば「とても具体的だ」というのです。そして具体的に祈ることはよいことなのですが、その祈りは少し行き過ぎているというのです。たとえば教会の礼拝に事情があって出席できない人がいるとします。するとその姉妹の祈りは次のようになるのだそうです。「礼拝に出席できない○○さんのところの近くに住んでいる××さんが、いつもより30分早く起きて、朝、○○さんのところに電話をして「これから車で迎えにいくから、一緒に教会に行きましょう」と誘ってくれて、教会に○○さんが出席できるようにしてください」と。でも、こんな祈りを当の××さんが聞いたらどうでしょうか、何か自分が「他人に操作されている」ような不快な気持ちを感じてしまうのではないでしょうか。もちろんこの姉妹には悪意はひとつもないのです。でもなんだか変な気がします。ところが案外、私たちはこの姉妹ほどではありませんが、祈りの中で自分の都合のいいように、神様や周りの事柄を操作し、支配しようとすることがあるのではなでしょうか。しかし、この祈りでは自分が主人となり、神様が僕のような関係になってしまいます。

 神様の答えに対して意外な反応を示したエルサレム教会の人々、またそのことを最初は夢のように感じていたペトロの姿は彼らの祈りが決してこのようなものではなかったことを物語っているのではないでしょうか。確かに彼らもまた自分たちが窮地から救われることを強く神様に願い、祈ったはずです。しかし、それがどのような形で現れるかについて彼らは神様にゆだねることができたのです。そして彼らはすべての出来事の上に主権を持っておられる神様に心から信頼して祈ることができたのです。だからこそ、彼らはヤコブの死という衝撃的な出来事にも挫折することなく、祈り続けることができたのです。

 ハイデルベルク信仰問答は私たちの捧げる祈りについて問117でたいへん興味深い答えを語っています。ここで問答書は「神さまがみ言葉を通して私たちに求め、命じられている事柄を私たちが心から請い求める」ことが神様の喜ばれる祈りだと私たちに教えているのです。多分、エルサレム教会の人々の祈りはそのようなものであったのではないでしょうか。この困難の中で自分たちが神様の望まれている事柄をなすことができるようにと彼らは熱心に祈ったのです。そしてそのような祈りに答えて、神様はこの出来事の主人公として豊かに働いてくださったと考えることができるのです。


2003.6.29「門がひとりでに開いたので」