2003.7.13「約束されたものの相続者とされる」
エフェソの信徒への手紙1章3~14節
3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。
10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストの救いの業の完成とはもとに一つにまとめられるのです一つのとなる。
11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。
12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。
13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
1.獄中で神を賛美するパウロ
①調子が悪いから賛美する
先日、久しぶりに中会の席で南越谷教会の古川牧師と挨拶を交わすことができました。最近、私はそれぞれ別々のとこらから「古川先生を特別伝道集会の講師として呼びたいのだが」と言う相談を受けたばかりでした。そのことを先生にお話すると「この秋には石川県に行く予定があるし、他にも青森の弘前からも依頼が来ているんだ」というお話を伺いました。ご存知のように古川先生は長い間、人工透析を受けてご奉仕をされています。健康には決して恵まれていないのに、どうしてこんなに先生は活動的なのだろうといつも思わされます。その古川先生の元気の秘訣を以前にも私は皆さんに紹介したかもしれません。
私が南越谷教会の祈祷会に出席していたときのころのお話です。その日、教会の前に着くとまだ集会には時間があるのに中から古川先生の大きな歌声が聞こえてきました。先生はギターをかなでながら歌うのが上手なのですが、そのときも一人で賛美をされていたのです。先生があまりにも大きな声で何度も賛美している姿を見て私は「先生、今日は調子がいいみたいですね」と尋ねてみたのです。するとそのとき古川先生は首を振りながらこう私に答えたのです。「いや、そうじゃないんだ。ぼくはね体の調子が悪いときや、心が落ち込んでしまうときにはむしろ大きな声で賛美を歌うことにしているんだよ。そうすると神様から力を受けることができるから」。古川先生の元気の秘訣は神様を賛美することと、そして賛美を通して神様から力を受けることにあったのです。
②パウロの賛美
今日私たちが学ぼうとするエフェソの信徒への手紙はいくつかのなぞを秘めた書物だと言われています。まずこの手紙は「エフェソの信徒への手紙」と呼ばれていますが、実は本当にエフェソの教会の人々に送られた手紙かどうかよくわからないところがあるのです。なぜなら本文中にはこの手紙のあて先がどこにも記されていないからです。また、エフェソ教会の人々はもともとパウロととても深い関係があった人々でした(使徒20章17~38節)。ですからもしパウロがそのエフェソの人々に手紙を送ったとしたら、相手の安否を具体的に尋ねたり、さまざまな個人的消息をそこに記すはずなのですがこの手紙にはそれがないのです。そこでこの手紙はエフェソ教会にだけあてられているものではなく、不特定ないくつかの教会に送られ、回覧板が回るように諸教会の間で読まれたものではないかと考えられているのです。さらに、この手紙を読みますと著者パウロは獄中で鎖につながれながら、この手紙を書いていたことが分かります(6章20節)。このことから、この手紙が書かれた目的が次のように推定されるのです。つまり、手紙を受け取った諸教会にとってはリーダーのような存在であるパウロが獄中に囚われているわけです。当然、それを知った教会の人々はそのことで動揺を覚え、不安を感じていた可能性があります。ですからそのような教会の人々にパウロは獄中から自分の安否を知らせ、励ましを与えるためにこの手紙を書いたと考えることができるのです。
さて、そこでもう一つ問題となるのは今日読んだ3~14節の言葉です。聖書学者たちによればこの文章はパウロが通常もちいる表現から大きくかけ離れた文体だと考えられているのです。読んでみると分かるのですが、何か同じような言葉が繰り返し、繰り返し登場します。まるでバッハのフーガが同じ主題を半音上げたり、下げたりしながら何度も何度も繰り返していくようにこの文章は繰り返しの言葉が多いのです。そこで考えられるのはここの部分の文章はパウロのオリジナルなものではなく、当時、キリスト教会の中で歌われていた賛美歌がそのまま記されているのではないかということです。つまりこのことからパウロは自分の書いた手紙の最初に賛美を歌っていると考えることができるのです。そう考えると、パウロは鎖に繋がれ囚人の身でありながらも、その状況の中から神を賛美しているということになります。ですからこの神様への賛美こそがパウロとパウロを心配する諸教会の人々を励まし、また試練の中でも耐え抜く力を与えるものだったと考えることができるのです。
2.神の子として選ばれている私たち
①賛美と祝福
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(3節)。
聖書の中に登場する「賛美」という言葉は不思議な意味を持っています。この言葉を私たち人間が神様に向けて使うとき、それは「賛美する」、あるいは「ほめたたえる」という意味を持つようになります。ところがその同じ言葉が神様から人間に向けられて使われると今度はそれが「祝福する」と言う意味に変わるのです。つまり私たちが神様を「賛美」するとき、神様は私たちに「祝福」をもって答えて下さるということがこの言葉から分かります。私たちがどこにあっても神を「賛美する」なら、神様はどこででも私たちに「祝福」で答えてくださるという応答の関係がこの言葉の中には隠されているのです。
パウロは獄中にありながらも神様を「賛美し」続けます。そして神様は彼を豊かに祝福してくださっていたのです。どうして牢獄で自由を奪われている囚人が祝福の中にあるのかと疑問に思われるかもしれません。しかし、聖書はこの祝福を「天のあらゆる霊的な祝福」と呼んでいます。つまりそれは地上的なこの世の物質的な祝福ではないのです。そうだからっと言ってそれらの祝福は頼りのならないようなものではなく、むしろ私たちをどのような状況の中でもいつも力づけ、喜びに満たすことができる祝福なのです。
②私の条件ではない
パウロの賛美の中で紹介される祝福の第一点は、私たちは神が天地を創造される前から神の子となるために選ばれていたという事実です。
私は中学一年生になったときに学級委員長に立候補したことがありました。対立候補は勉強もよくできて、見るからに育ちのいいクラスメートでした。私は案の定、選挙の結果大差で落選してしまったのです。それ以来、私は選挙に自分から立候補することはありませんでした。私たちは「選ばれる」ためにさまざまな努力を積まなければなりません。自分が「選らばれるに値する」人物であることを証明する必要があるのです。そのために自分が他の人よりどれだけ優れているかをアピールしたりします。それも不可能な場合は、不正な手段を使ってでもなんとか自分を当選させようとするのです。
ところが聖書は神様が私たちを「神の子」とさせるために選んでくださったときを「天地創造の前」であると言っています。そのとき私たちは当然、この地上に存在していませんでした。なぜならその地上すら存在していなかったからです。つまり、この言葉は私たちが神様に選ばれたのは自分の素質や才能はおろか、先祖の血筋などまったく関係のないところで行われたものであることを説明しているのです。この言葉によって神様の選びは私たちの側の持っている条件が一切、入り込まないところで行われていることがわかるのです。言葉を変えればこれはまったくの「恵み」であると言うことができるのです。私たちの条件を一切問わないで神は私たちを愛して神の子として選んでくださったのです。
もし私たちが自分の持っている条件を見ながら、その条件のために「自分が神の子とされた」とか、またその逆に「自分は神の子になれない」と考えているとしたらそれは大きな誤解であることを知らなければなりません。そしてこの神の恵みの選びは私たちの持っている条件がいくら変わったとしても変わることがないことをも教えています。だからこそこの祝福は試練の中で苦しむ人々を慰めます。なぜならどんなに私を取り巻く条件が変わっても、私からこの祝福を奪うことのできるものはいないからです。
3.キリストによって罪赦されている私たち
①キリストによって満たされた条件
「神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(4節)。
ここには祝福の第二の点が語られています。確かに私たちは自分自身の姿を振り返るとき神の子としての条件を一切持っていないばかりか、まったく逆の条件を満たしているように思われてなりません。私たちは自分をそのままでは「聖なる者、汚れのない者」とは決して言えないからです。
先日、アメリカ映画を見ていたら刑務所から逃げ出した脱獄囚が森の中で、牧師から洗礼を受けている人々の集団に出会うシーンがありました。「主イエスを信じるならあなたの罪はすべて赦される」という牧師の招きの言葉を聞いて、脱獄囚の一人は大急ぎで川の中に入っていって受洗者の行列に割り込み、自分も洗礼を受けます。彼は「やった!これで俺の罪はすべて赦された」とはしゃぐのです。すると、もう一人の脱獄囚が彼にこう語るのです。「神様はお前の罪を赦されても、ミシシュピー州の法律はお前を許さない」。
聖書の語る「罪の赦し」とは地上で起こる犯罪を裁く法律とは違います。聖書の語る罪の赦しの目的は私たちを神の子とすること、聖なる者、汚れのない者とするためのものなのです。つまり、この罪の赦しとは私たちを神の子とするために与えられるものなのです。そしてこのことのためにイエスは十字架にかかって命を捧げられたのです。
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(7節)。
たしかに私たちは神の子となる条件を自分の力では満たすことができません。だからこそイエスはこの地上に来てくださって、尊い救いの業を成就され私たちに代わって私たちが神の子となるための条件を十分に満たしてくださったのです。
②救いの完成の日を待ち望む
「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストの救いの業の完成とはもとに一つにまとめられるのです一つのとなる」(10節)。
神の選びによって、またキリストの血によって神の子とされた私たちです。しかし、どうして神の子とされた私たちがこの地上で相変わらず問題に出会ったり、苦しみを受けることがあるのでしょうか。聖書はここで私たちの救いが完成するときがやってくると語ります。つまり、私たちの救いはまだ未完成なのです。しかし、それは必ず完成に向かっていると教えてくれているのです。そして私たちの人生はこの完成の日にキリストにあって一つのものとなると語られています。大きな建造物も、小さな部品の一つ一つから成り立っているように、私たちもキリストの救いの計画における重要な一部分です。いま、私たちが出会っている問題や苦しみもこの計画のための貴重な一部分であるとしたら、どんなにすばらしいことでしょうか。
4.聖霊の証印を押された私たち
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(13節)。
祝福の最後の点に行きましょう。私たちは神様に選ばれ、キリストの血による贖いのみ業によって神の子とされています。そして私たちは莫大な相続財産を受け継ぐ権利、神様の「御国」を受け継ぐことができるようにされているのです。「遺産相続」は私たちの世界でもいろいろな騒ぎを起こします。「本当にその人は遺産を引き継ぐ権利を持っているのか」という疑いが起こります。その場合、一番大切なのはその人が遺産を受け継ぐ権利を持っていることを証明する公式な文書です。その上その文書が勝手に作られたものではないことを証明する「公証役場」のはんこがあれば鬼に金棒です。聖書は私たちも神の子として御国を受け継ぐ権利を持っていることを証明するはんこが押されているというのです。この「証印」が聖霊によって私たちの上にはすでに押されているというのです。
それではこの聖霊による「証印」は私たちの信仰生活の中に具体的にどのような形で現れているのでしょうか。「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じる」ことによると語られています。聖書は誰でも簡単に手に取って、読むことのできる書物です。しかし、聖書の言葉はそれを読む人すべてに真理の言葉として、また救いをもたらす福音として聞こえ、受け入れられるわけではありません。ある人には人類に残された単なる古典として聖書は受け入れられています。また、ある人にはイエスという偉人がためになるお話を語っている程度の本だとしか考えられていません。
しかし、聖霊は神の選びにもとづいて、私たちの心に働いて聖書を真理の言葉として、救いをもたらす福音として聞くことができるようにしてくださるのです。ですから、私たちが聖書を読んで「神様を信じたい」という思いが起こされるなら、それはまさしく聖霊が私たちの上に働いてくださっている結果なのです。たから「私たちが神様を信じることができる」ということは聖霊が私たちに証印を押してくださっている結果であるといえるのです。
私たちが問題に襲われるとき、私たちはその問題だけに心を奪われ、がんじがらめに縛られて何もできなくなってしまいます。しかし、そのときこそ私たちは神様に賛美を捧げる必要があるのです。そうするなら私たちは今、どんなに素晴らしい神様の祝福の中に生かされているのかを知ることができます。そしてこの祝福こそが私たちに試練の中でも生きる力を与えてくれることを今日の聖書の箇所は教えているのです。