2003.7.20「平和を実現した」
エフェソの信徒への手紙2章13~18節
13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
1.遠かった者が、近い者となった
①ジュネーブからやって来た神父
以前、この教会堂で県南四市(川口、蕨、鳩ヶ谷、戸田)の牧師会を開いたことがあります。この牧師会にはいろいろな教派の牧師たちが集まります。普段、改革派の会議ばかりに慣れている私には正直言ってとまどうところもありますが、それ以上にいろいろな教派の牧師と知り合いになれるところがよいところだと思っています。元はお坊さんだった牧師もいます。軍隊のように制服を着ている救世軍の牧師もいます。空手やキックボクシングが得意な牧師もいるのです。プロテスタントの牧師だけではありません。カトリック教会の神父さんも参加します。ここで牧師会をしたときに私はその神父さんと初めて話しました。カトリック教会に様々な修道会がありますが、その神父さんの所属するのは「労働修道会」と言って、普段は病院などで働いているというのです。日本語が上手な方でしたが、見るからに西洋の方であることがわかります。そこで私はその神父さんに「どちらの国から来られましたか」と尋ねると「スイスです」と言う答えが返ってきました。スイスと聞くと皆さんはマッターホルンとかアルプスの山々を想像されるかもしれません。しかし、「改革派」の牧師である私はすぐにカルヴァンが宗教改革を行ったジュネーブの町を思い出しました。そこで「スイスのどこから来られたのですか」と私が訪ねるとその神父さんは笑いながら「私はスイスのジュネーブ出身です。宗教改革者のカルヴァンが作った町からやって来ました」と答えるのです。その「カルヴァンの町からやって来たカトリックの神父」と言う言葉に不思議な感じを私は覚えたのです。
②神様との関係
今日の聖書箇所には「近い」とか「遠い」という言葉が登場します。この言葉は地理的な距離を問題にしているのではなく、神様との関係を表していると考えてよいと思います。あの牧師会にやってきたカトリックの神父さんは地理的にはカルヴァンと深い縁のあるジュネーブからやってきましたが、カルヴァンとの関係は「遠い」といえるかもしません。しかしその反対に、私たち改革派教会の信徒はジュネーブの町には一度も行ったことがありませんが、カルヴァンの宗教改革の精神を引き継ぐ教会で礼拝を捧げ続けています。そのよう意味では私たちはカルヴァンをいつも身近に、「近く」に感じている者たちなのです。
人類の歴史の中でユダヤ人は神様と特別な関係を持った人々であったと言うことができます。「ユダヤ人の歴史は神様との関係の歴史だ」と言っても過言ではありません。そのような意味でユダヤ人たちは「神様に近い者」たちと言うことができますし、自らもそれを自認していたところがありました。一方このユダヤ人にから見て、真の神を知らない外国人、それを彼らは総称して「異邦人」と呼びました。そしてユダヤ人は異邦人を「神様から遠い者」たちだと考え軽蔑していたのです。エフェソの手紙を書いたパウロはこの「神様に遠い者」たち、つまり「異邦人」に神様の福音を伝えることに熱意を捧げた人物だと言われています。そしてこの手紙の中でもパウロは彼ら異邦人出身のクリスチャンに対してかってあなたたちは「神様に遠かった者」たちだったが今、「神様に近い者」とされたと語っているのです。その上でパウロは今まで対立しあった異邦人とユダヤ人の関係が回復されて、キリストを頭とする一つの教会を通して一つにされていることを教えているのです。
2.キリストは私たちの平和
①敵意という隔ての壁を取り壊した
パウロはこの手紙の中で異邦人とユダヤ人の対立を解決し、平和をもたらすためにキリストが働いてくださったことを「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(14節)という言葉で表現しています。現在でもイスラエルではユダヤ人とパレスチナ人との間で対立が続き流血の惨事が繰り返されています。たくさんの国や人々によって平和のための努力がなされていることは確かですが、どれも決定的な解決を見いだすまでには至らないのです。この新約聖書がかかれて時代にも異邦人とユダヤ人との間の対立はたいへんに激しいものだったと言われています。まず、ユダヤ人たちは自分たちだけが「神様から選ばれた民族」であるという誇りを持っていました。そしてその神様との契約の印である神様の戒め、つまり「律法」を持ち、それを生活の隅々まで徹底して守っていることが彼らのその誇りをさらに強めてもいたのです。一方で彼らは神様を知らず、「律法」を知らない人々を軽蔑して「異邦人」と呼んで軽蔑したのです。そしてまるで彼らに近づくなら自分までその汚れに感染してしまうとばかりに、異邦人との交わりをユダヤ人たちは毛嫌いしていたのです。
「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」と語れています。ここで登場する「隔ての壁」とは具体的にエルサレム神殿の中に存在した壁で、異邦人がそれ以上神殿の内部に入ることができないようにもうけられていた壁のことだと言われています。もちろん「ベルリンの壁」のように物理的壁は簡単に人の手で壊すことができます。ですからここで言われているのはその神殿の壁だけではなく、その壁を作り出したもの、その対立を根底の部分で支えていたユダヤ人たちの「律法主義」の過ちを言っていると考えてよいのです。ですからキリストのもたらしてくださった平和とはまず第一にこの誤れる「律法主義」から人を解放させることにあると言えるでしょう。キリストは私たちが神様に近づくために、十字架で血を流し、その救いの業を成就されました。すべての人々を神様の民、「神に近い者」として下さったのです。このキリストの御業のためにユダヤ人の「誇り」、「律法主義」は今や何の意味もないものとされたのです。
②規則づくめの律法を廃棄された
確かに「律法」は旧約聖書を読むと神様からユダヤ人たちに与えられた大切な戒めであることがわかります。神様の与えてくださったものが私たちに人間を苦しめたり、だめにする訳はありません。それなのにパウロはこの律法を「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」と言っています。そしてキリストはあたかもこの「律法」をなくすためにこの地上にやってきたというような言葉を使っているのです。ここで注意したいのはこの律法についてパウロは「規則と戒律ずくめの律法」とわざわざ呼んでいる点です。「規則と戒律ずくめ」という言葉はあまりいい響きを持ったものではありません。どちらかといえば人間を苦しめ、奴隷のような生活させるものに聞こえます。もちろん、神様の与えてくださった「律法」はむしろそれを信じる人に「自由」と「喜び」を与えるものなのです。ところがユダヤ人たちはその「律法」をいつのまにか「規則と戒律ずくめ」のものに変えてしまっていたのです。
一人の婦人が、いつも自分が朝食を作るとき、ハムの四隅をわざわざ切り落としてフライパンで入れる習慣に疑問を持ちました。それは彼女が自分の母親から教わった調理法でした。「母はどうしてこんな料理の仕方を私に教えたのだろう」と思ったのです。彼女はそのことがとても気にかかったのでしょう。わざわざ里帰りしたときに自分の母親にその調理法の理由を尋ねたのです。ところがその母親も首をひねりながら「私もおばあちゃんから教わったので、その理由がわからない」と言うのです。そこで彼女は近くで元気に暮らしている祖母のところに行って同じ質問をして見たのです。祖母の答えは意外なものでした。「あれはね。あんたおじいちゃんが貧しくて、大きなフライパンが買えなかったのよ。その当時、使ってたフライパンが小さくて、ハムを焼くためには四隅を切り取らないとだめだったの」。
ユダヤ人はこの婦人のように律法を先祖から伝えられた規則として守ってはいましたが、その律法がどうして自分たちに与えられているかという理由を忘れてしまっていたのです。律法は神様が私たちをご自分の恵みの中にとどまらせるために与えられたものなのです。つまり律法は本来、私たちが神様の恵みの中に生かされていることを教えるものです。ところがユダヤ人はその「恵み」を忘れ、いつのまにか神様ではなくその「律法」を守っている自分を誇りとするようになってしまっていたのです。
キリストは今や十字架を通してユダヤ人も異邦人も関係なくすべての人々を神様の恵みの中に入れてくださったのです。そして、誤った「律法主義」ではなく、その愛を通して本当の「律法」の意味を私たちに教えてくださったのです。
③両者を一つの体にした
さて、ユダヤ人たちはこの誤った「律法主義」の考えから、異邦人たちを軽蔑しました。ユダヤ人は異邦人と交わるだけで汚れると考えて、積極的に交流を持とうとしなかったのです。ですから彼らはもし異邦人が自分たちと仲良くしたいなら、異邦人がまず「ユダヤ人」となる必要があると考えたのです。それは異邦人が今まで持っていた習慣を捨てて、ユダヤ人として生きる決心をし、その義務を果たすこと、彼らもまた「律法主義」の生活に従うことを意味していました。
一方でこのように自分たちを毛嫌いして、交わりを持とうとしないユダヤ人に対して、異邦人たちもよい印象を持つわけはありません。彼らも「頑固で、何を考えているかわからない人々」というレッテルをユダヤ人たちに貼って、増悪をむき出しにしたのです。お互いが相手を認めません。お互いが「自分たちのようになることが和解」の条件だと主張しあって譲らなかったのです。しかし、キリストは両者の対立を解決されるために別の方法を取られたのです。
「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(15~16節)。
キリストのみ業をユダヤ人にも異邦人にも等しく与えられています。実はどちらも神様との関係から言えば本当は「遠い」存在だったのです。イエスの語った放蕩息子のたとえ(ルカ15章11~32節)では家を飛び出した弟も、そして家にとどまった兄もいずれも父親の愛の深さを本当には理解していいませんでした。ですからこのお話は「異邦人」と「ユダヤ人」の関係を語っているとも言えるのです。二人の対立を解決させるのは父親の役目です。世の父親なら、「けんかをするな」と怒鳴り散らして、子供たちに恐怖を与えることでその場を押さえることでしょう。しかし、放蕩息子の父親は二人の息子を共にその愛で包み込むことで和解させるのです。キリストの御業も同じでした。ユダヤ人も異邦人も十字架の愛を通して生かし、その上で彼らを新しい教会の交わりの中で一つとされようとしたのです。そのときお互いの違いは「対立」の原因ではなくなります。むしろ、お互いがお互いに与えられた別々の賜物を使うことで、キリストを頭とする教会を建てあげていくこととなったのです。パウロは今やキリストによって私たちはそのような者にされたのだと教えるのです。
3.礼拝することのできる恵み
日曜日の晩に私はNHKの大河ドラマ「武蔵」を見るのを楽しみにしています。例年の大河ドラマに比べて合戦シーンや派手な見せ場があまりない「武蔵」は視聴率が低調だと言われています。しかし私は毎週このドラマの見ながら「剣の道は深い」とうなずいているのです。
いぜん、心陰流の柳生石舟斎のところ武蔵が訪ねて、剣の手ほどきを受ける場面がありました。そこで何としても石舟斎に勝とうとする武蔵は何回も竹刀で打ち込むのですが、そのたびに簡単に交わされてしまいます。そして最後には石舟斎にもっていた竹刀まで奪われてしまうのです。敗北感を覚える武蔵に石舟斎は「おまえは勝負の最中に鳥の声が聞こえたか」と問うのです。しかし勝つことだけに心を奪われていた武蔵には「鳥の声」が聞こえてはいなかったのです。人の心は不思議なもので何かにとらわれてしまうと、聞こえてくるものが聞こえなくなり、見えているものが見えなくなってしまいます。そして最後には自分が今どこにいるのかさえわからなくなってしまうのです。
「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(18節)。
ここで「御父に近づくことができるのです」と言われているのは私たちの礼拝の生活をさしていると考えることができます。私たちがこのように礼拝を捧げることができるのはキリストが「平和」をもたらしてくださったからです。その上でキリストは私たちをいつも守り導くために聖霊を天から送り続けてくださっています。この御業のために私たちはこのように神を礼拝することができているのです。
しかし、私たちもまたいつのまにか誤れる「律法主義」のわなに陥ってしまうことがあるのです。神様のすばらしさではなく、自分の正しさを誇り、いつのまにかお互いの間に壁を作りだしてしまいます。自分の「正しさ」だけを主張して、相手を非難しようとします。私たちがこのように自分を守ることだけに縛られてしまうと私たちの信仰生活に何が起こるでしょうか。神様の豊かな恵みの中に生かされているのに、その恵みを感じられなくなってしまうのです。勝敗に囚われた武蔵が「鳥の声」を聞くことができなかったように、神様の愛が私たちに感じられなくなってしまうのです。
こんなとき私たちに必要なのは相手に勝つことではありません。相手を自分の都合のいいように変えることでもありません。むしろ律法主義に陥り、勝敗にこだわるこの自分を神様にゆだねることではないでしょうか。私たちがキリストに自分をゆだねるときにキリストは私たちを導いて、ユダヤ人でも異邦人でもない、新しい人としてくださいます。そしてキリストの体の一部として私たちを用いてくださるのです。平和をもたらすのはわたしたちではありません。それはイエス・キリストがしてくださることであることを今日の聖書の箇所は私たちに重ねて強調しているのです。