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2003.8.10「あなたがたは神に愛されている子供ですから」

エフェソの信徒への手紙4章30節~5章2節

30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。

31 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。 32 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。

2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。


1.キリストの身体なる教会の成長

 私が中学生の頃、自分の身長が少しも伸びずにどんどんクラスメートに背の順位を抜かされるということがありました。そのことを本人も大変気にしたのですが、私の母も心配して私に「肉を食べれば背が伸びる」と言っては豚肉を食べさせようとしたことがありました。その結果であるかどうか分かりませんが、私の身長はその後、急激に伸び始め今日のような姿にまで成長することができました。

 私たちが今、学んでいるエフェソの信徒への手紙ではたびたび「キリストの体」いう言葉が登場します。この「キリストの体」とはイエス・キリストを救い主として信じて集められている私たち信者の群れ、つまり「教会」のことを言い表していると言うことができます。ですからこの言葉には、弟子たちを残して天に昇られたイエスが今、この地上の教会を通してその御業を行われているという意味がまず込められています。そのためにイエスは天から絶えず聖霊を私たちの教会に送ってくださるのです。

 またこの手紙が何度もこの「キリストの体」という言葉を語るもう一つの意味は、そこに集められている私たち信徒が心から一致して、このキリストのために生きる共同体に入れられていることを教えるためです。ですから私たちはそれぞれ違った存在でありながらも今、キリストを頭とするこの共同体の大切な一部としてここに集められているのです。そのため、私たちには自分のことだけではなく、このキリストの体全体を考えて生きることが求められているのです。人間の肉体にたとえても、体の一部分だけがいくら成長しても、それは何の役にもたたないばかりか、体全体にはマイナスな影響を与えることになります。同じようにキリストの体である私たちも自分だけが成長するのではなく、キリストの体を構成している兄弟姉妹がともに成長していかなければ本当の成長とは言えないのです。そのため他人を差し置いても自分だけが成長することを願うこの世の価値観と、エフェソの信徒への手紙が語る教えとの間にはこのような意味で大きな隔たりがあると言えるのです。


2.教会の成長を拒む原因

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」(4章30節)。

 今日の箇所には「聖霊を悲しませてはいけません」という命令ともいえる言葉が記されています。それでは「聖霊を悲しませる」とはいったいどのようなことを語っているのでしょうか。さきほど語りましたように、救い主イエス・キリストは私たちの教会に聖霊を遣わして、この教会の活動を通してご自身の御業をこの地上に現してくださろうとしています。聖霊はそのような意味でこの教会をキリストの体とするために私たちのもとに遣わされているのです。そのような意味で、「聖霊を悲しませる」とは教会をキリストの体とする聖霊の御業に背く行為、あるいはこの体を通して働かれようとするイエス・キリストの御心を拒む行為が語られていると言ってよいでしょう。

 それでは具体的に言って「聖霊を悲しませる」とはどのような私たちの行為を指して言っているのでしょうか。そのことについてエフェソの信徒への手紙は続けて語ります。

「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」(31節)。

 ここには五つの行為が語られています。そしてすべては私たちが心のうちに持っている悪意から生まれるものであるから、その悪意を捨ててしまいなさいとこの手紙は私たちに命じているのです。「無慈悲」、あるいは「苦さ」と表現されるこの言葉は私たちの心のうちに隠されて冷酷さを言い表しています。顔には表れませんがそのような思いを他人に対して持っているという言葉です。やがてその思いは隠すことができないほどになると「憤り」あるいは「爆発」と言う言葉が登場します。つまり隠されたその思いが爆発するのです。その「憤り」も一時的に終わってしまえばよいのですが、この感情の原因が何も解決されていなければ、この「憤り」が一時的なものではなく、継続的なものつまり「怒り」へと変わっていくと言うのです。その怒りが言葉として明確に示されるのが「わめき」です。そしてこの「わめき」は次の「そしり」に変わります。「そしり」とは相手を傷つけるために発せられる言葉を意味しています。このように私たち人間の心のうちに隠されている悪意がやがて相手を傷つけ殺す行為へと変わっていくのです。

 もちろん、このような思いを持つことが相応しくないことはこの世の道徳の中でも教えられているかもしれません。しかし、特にこの手紙でこのような行為が「聖霊を悲しませる」ものとして取り上げられているのは、私たちの教会の中でこのような行為が繰り返されるとき、それはキリストの体なる教会の成長を拒み、キリストの御心がこの地上に実現することを妨害するものになることを指摘しているのです。ですから「悪意を捨てなさい」という命令は私たちのためでありながら、私たちの主イエス・キリストのために命じられている言葉だといえるのです。


3.本当の愛をどこで見いだすか

①神の本質に基づく愛

 キリストのために「悪意を捨てる」ことを私たちに命じるこの手紙は、それだけではなく次にもっと積極的な命令を追加しています。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(32節)。

 ここで語られる「親切」は神の「慈しみ」につながる言葉です。また、「憐れみの心」とは相手を赦す行為につながる言葉で、これもまた私たちを無条件で赦してくださる神様の「恵み」に基づいた言葉だと言うことができます。つまり、いずれの言葉も神様が私たちに接してくださっているのと同じように、お互いに接し合いなさいと薦めていることが分かります。私たちはこの世の中で絶えず悪意にさらさられています。そしていつの間にかその悪意に悪意をもって返すことを私たちはこの地上で身に着けてしまいます。しかし、この手紙はこのような接し方ではなく、私たちが神様から受けたような新しい接し方をもってお互い接し合うべきだと教えているのです。


②最初の愛を忘れてしまった教会

 「言うは易く、行うは難し」といいますが、「互いに親切にし、憐れみの心で接する」ことがいかに難しいか、この命令を忠実に実行しようとする人はそのことで絶えず悩まされます。実はヨハネの黙示録を読みますとこの手紙の題名にも登場するエフェソ教会が同じようにこの問題で深く悩んでいたことが分かるのです。黙示録の2章には次のようなエフェソ教会にあてられたキリストの言葉が記されています。

「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(2~5節)。

 この言葉によればエフェソ教会は正しい教えを守ることにはどこまでも熱心でしたが、その反面、愛を失いつつある教会であったことがわかります。確かに正しい教えを守ることは教会にとって最も大切なことですが、もう一方で教会を支える柱である「愛」を失うことは教会にとって致命的なことでした。だからこの問題でキリストはこの教会を強く戒めているのです。それではどうして、エフェソ教会はこのような誤りに陥ってしまったのでしょうか。それは正しい教理や教えは、言葉やそれを記した文章によって伝えることができますが、そのような方法で決して愛を伝えることができないという愛の特徴に原因がありました。愛は言葉ではありません。愛は行為です。愛は実際に私たち自身が体験しなければ分からないものなのです。このため黙示録はエフェソの教会のメンバーに「あなたたちはこの愛を、キリストを通して体験したはずだ、その愛に立ち戻りなさい」と教えているのです。


③キリストに愛されている子供

「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(1~2節)。

 私たちは地上の生活を送るとき自分の弱さを体験し、その弱さを嘆くことがたびたびあります。しかし、聖書は「そんなことではあなたは神の子になれませんよ」とは決して教えてはいません。そうではなく「あなたがたはすでに神に愛されている子供ですから」と私たちを励ましてくださるのです。私はさきほどのところでわざと読み飛ばしましたが、一見、私たちに対する厳しい命令の言葉が続く文章の中にも神様のすばらしい恵みが語られているのが分かります。「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」。「神がキリストによってあなたがたを赦してくださった」。私たちはすでにこのような神様の慈しみと恵みを十分に体験しているのです。ですからエフェソの手紙はそのような愛の中に生かされているあなた方だからこそ、悪意を捨て、互いに愛し合うことが可能なのだと教えているのです。

 ある神学者は「神の命令とは、神の私たちに対する約束でもある」と教えています。厳しい神の命令を聞くとき、私たちは自分が本当にそれを実行できるかどうか不安になります。しかし、その命令を本当に私たちの上に実行してくださるのは私たちではなく、私たちを通して働く神様の力にあるのです。神は私たちの教会をここに語られているようなキリストの体としてくださると約束してくださっているのです。だからこそ私たちに必要なのはこの約束を信じて、神の言葉に従っていくということだけなのです。そしてもし、その中で私たちが絶えず自分の弱さを体験することになっても、私たちはそのときこそ私たちを愛してくださる神の恵みを見上げて、その恵みに信頼することが大切なのです。

 NHKのドラマで以前に作られたイギリス人ラフカディオ・ハーン、日本名で小泉八雲という名前で有名な人物の物語が先日放送されていました。ハーンはアメリカで日本の伝統的な文化に触れ、日本への憧れを抱きます。やがて彼はその日本にやって来るのです。船が日本に近づいたとき、「富士山が見える」という声を彼は聞きます。憧れていた日本を象徴する富士山。その富士山を実際に見ることができると思ったハーンはあわてて船室から船のデッキに上がります。ところが富士山が見えるはずの方向に彼が目を向けても、そこには厚い雲がかかっているだけで何も見えません。「何も見えないじゃないか」とがっかりするハーンに「もっと上を見ろ」と言う声がかかります。ハーンがその声に促されてもっと上を見上げると、雲の上に富士の美しい頂上が佇んでいたというのです。ハーンはこの物語の中でこの体験を次のように語ります。「自分が探そうとしたところにそれはなかった。それは自分のいままでの生き方を言われているように思えた。自分が一生懸命に探しているところにはそれはない。もっと高く、もっと上を見ろ。そこに本当の富士山があるのだから」。

 私たちは愛を見いだすためにどこを見て、またどこを探しているのでしょうか。本当の愛はキリストを見上げ、キリストの愛からしか体験することができません。そしてその愛こそが、私たちの教会をキリストの体としてくださるものなのです。ですから私たちにももう一度、キリストが私たちをどんなに愛してくださっているかを思い起こし、そこから再出発をすることが求められているのです。


2003.8.10「あなたがたは神に愛されている子供ですから」