2003.8.31「御言葉を受け入れなさい」
ヤコブの手紙1章17~27節
17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。
18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
20 人の怒りは神の義を実現しないからです。
21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
1.ヤコブは何を教えるのか
①ヤコブの手紙の特徴
私たちが今日学ぼうとしている「ヤコブの手紙」はいくつかの点で論議のまとになる書物です。まずこの手紙の著者である「ヤコブ」とはいったい誰なのかという問題です。実は初代教会にはこのヤコブという名前をもった人物が複数存在し、新約聖書の中にも登場します。その中でもこの手紙の著者として有力視されているのは「イエスの兄弟であるヤコブ」と言われている人物です。彼はイエスと同じマリアの子として生まれ、聖書によれば最初はイエスの活動に理解を示しませんでした。しかし、イエスの十字架と復活を経て、回心し、やがてエルサレム教会の重要なリーダーとなった人物です。この人物がこの手紙の著者として有力視されていますが、やはりはっきりと断定することはできません。
さらに、この著者問題以上に重要なのはこのヤコブの手紙が掲げる主題にあります。今日の箇所にも「御言葉を行う人になりなさい」(22節)という奨めの言葉が登場します。有名なところでは2章17節の「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という言葉から伺えるようにこのヤコブの手紙は信仰者の行いをたいへんに強調している点にあると言えます。さらにこの点と関連してヤコブはこの2章21節で「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか」と語っているところからローマの信徒への手紙で使徒パウロが記した『信仰義認』の教理、つまり「私たちが救われるのはイエス・キリストを信じる信仰によるものであって、自分たちがなしたよき行いなどによるものではない」という教えとは全く逆の教えが語られていると考えられているからです。このため宗教改革者で有名なマルチン・ルターはこのヤコブの手紙を「藁の書」といってその価値を軽視したと言われています。
②ヤコブの手紙の目的
確かにこのヤコブ書にはパウロの展開した『信仰義認』の教理ははっきりとは記されていないようです。しかし、だからと言って私たちはこのヤコブ書をキリスト教の中心教理に反する価値のない書物と判断するのは少し早急すぎるかもしれません。なぜなら、このような文章を読むときに私たちはまず著者の執筆の目的が何であるかを考える必要があるからです。確かにパウロは海外に立てられた新しい教会のためにキリスト教の中心的な教理を教える必要に駆られてローマの信徒への手紙を執筆しました。しかし、このヤコブの手紙の著者の執筆目的はこのパウロの場合とはだいぶ違った事情があると考えてよいのです。
もし私たちがたとえば歴史の教科書を読んで「今日の食事の献立の作り方がここには書かれていない」と不満を抱き、抗議したとしたらそれは愚かなことではないでしょうか。もし、食事の献立を知りたいのなら料理の本を最初から選んで読むべきなのです。聖書の読み方に関しても同じことが言えると思います。私たちが『信仰義認』の教えを詳しく知ろうとするならパウロの記したローマの信徒への手紙を読めばよいのです。それなのにヤコブの手紙に同じ内容を求めることは執筆者の意図を無視した無謀な行為といわざるを得ません。
それではヤコブはどのような意図、あるいは目的をもってこの手紙を書いたのでしょうか。一番考えられることはこの書物の冒頭からヤコブが語っていること、つまり信仰者の試練についてこの手紙は語っているという点です。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(2節)。おそらくこのような箇所から考えてこの手紙の読者たちは激しい試練の中におかれていると推測することができるのです。ですから、この手紙は信仰者にとって試練とはいったいどうのよう意味をもつのか、またその試練を乗り越えていくためには何が必要なのかを教えようとしているのです。そして、ヤコブが信仰者の行いを強調するのはこの試練の中におかれている信仰者の問題と深い関わりがあると考えてよいのです。
確かにパウロは私たちが救われるのは唯一キリストへの信仰によることを力説しましたが、信仰者の行いを決して軽視したわけではありません。むしろ神様の救いに与った信仰者はどのように生きていくべきかを重要視し、それを教えています。このヤコブの手紙の場合も『信仰義認』を否定するのではなく、信仰によって救われた私たちが試練の中でどのように生きていくべきかに強い関心がおかれていると考えてよいのです。
2.神はどのような方か
①神にのみ助けがある
さて、聖書学者たちの解説によればこのヤコブの手紙の読者たちはすでに信仰をもって救われたクリスチャンでありながらも、激しい試練の中に身を置くことで迷いが生じ(6節)、むしろ信仰を堅持することより目先の出来事を乗り越えるのに精一杯で希望を失いつつあった人たちだと考えられています(13~14節)。
私たちは激しい試練に出会うときどのようなことを考えるでしょうか。もしかしたら「どうしてこんなことが起こるのだろう。自分に対する神様の愛が変わってしまったのだろうか」と疑いだすことがあるかもしれません。ですからそのような疑問を抱く人々にこの書物は次のように語るのです。
「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」(17節)。
ここには神様が私たちに与えてくださるもので悪い物は何一ないという主張がまず教えられています。そしてその上で神様は変化することのないかた、つまり私たちに対する御心を変えることは決してない方であるという言葉が語られているのです。このような言葉を通してヤコブの手紙はこの読者たちが迷い、失いかけている神様への信頼を回復させようとしています。さらにこの言葉は試練の中にあるものがもしそれに勝利しようと考えるなら、自分の考えや世の価値観を頼るのではなく、神様が与えてくださるすばらしい贈り物である「知恵」に頼りなさいと教えていると考えることができるのです。問題に出会ったとき私たちは確かに軽率な行動は慎む必要があります。そして、十分に熟慮して行動することが大切です。しかし、それ以上に大切なのはそのときの私たちの熟慮が何にもとづいているのかということです。もっともすばらしい贈り物は神様から私たちに与えられるのです。つまり問題を解決する知恵は神様の側にあるということです。私たちはそれを知るために試練の中でこそ祈り、聖書の御言葉を読む必要があるとこのヤコブの手紙は教えているのです。
②行いの土台は何か
「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです」(18節)。
ヤコブは信仰者の行いを強調していると語りましたが。しかし、この節では私たちが何によって救いを受け、いまどのような者にされているかという答えがしるされています。私たちは「真理の言葉」によって生まれた者たちなのだとこの手紙は語ります。ここでいう「真理の言葉」とは神様の言葉、つまりキリストの福音を語っていると考えてよいでしょう。私たちはこの福音を信じて新しく生まれ変わるのです。キリストが私たちのためになしてくださったすべての業を、私たちが信仰をもって受け入れるとき、キリストがなしてくださった業すべてが、あたかも私たちが神の前で行ったことと見なされ、私たちは救いを受けることができるのです。そのような意味ではやはりこのヤコブの手紙にもパウロが語ろうとした『信仰義認』の教理が隠されているのです。続けてヤコブはそのようにして新しく生まれた私たちは「造られたものの初穂」だと言っています。ここにはキリストによる再創造の出来事が記されていると考えられています。神様の最初の創造ではアダムとエバが神様の祝福の中で造られましたが、彼らは残念なことに堕落によりその祝福のすべてを失ってしまいました。ところが私たちは今、キリストによる再創造の御業にあずかることで神の豊かな祝福の中に入れられているのです。つまり、キリストを信じるということは、神の再創造の御業にあずかることでもあると教えているのです。その上でこの手紙は私たちがその再創造の御業における最初のもの、また最上のものとして造られたことを教えるために「造られたものの初穂」という言葉を用いたのです。
ヤコブはこのように私たちがまず信仰によってこのすばらしい祝福に入れられたことを確認した上で、信仰者の行いの大切さを語ろうとしているのです。言葉を換えていうなら、私たちが信仰に伴う行いを実現できるのは、私たち自身が信仰によってすでにこの神の祝福の中に入れられているからなのです。決して私たちの努力や才能がその基ではないことをヤコブの手紙は教えているのです。
3.私たちはどのように生きるべきか
①祝福への招待
「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(21~22節)。
「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」とヤコブの手紙は奨めています。マタイによる福音書でイエスは「天の国」をからし種のようなものだと教えています。からし種は非常に小さなもので風が吹けばどこかに飛んでいってしまうような代物ですが、ひとたび芽を出せば鳥が巣を作るような大きな木になるというのです。私たちの心に植え付けられた御言葉もこのからし種のような力をもっています。ですから、私たちがその御言葉を受け入れて、進んでその御言葉を行っていくならば、その御言葉自身が豊かな生命力を開花させるのです。
もしお百姓さんがたくさんの穀物の種を持っていたとしても、それだけではどうにもなりません。穀物を食いつぶしていけば、やがてはそれもなくなってしまいます。大切なのは持っている種を畑に行って蒔き、その種を育てることです。御言葉を受け入れ、それを行うとはこのお百姓さんと同じような行動を私たちに求めていると言ってよいのです。もし、私たちがこのヤコブの手紙の奨めに従うなら、私たちは神様の豊かな祝福を御言葉が実を結ぶことを通して味わうことができるのです。しかし、そうしないで御言葉を聞くだけなら、私たちは本当の御言葉の価値とそこに隠された祝福を一生味わうことができなくなってしまうのです。ヤコブの手紙は私たちがそうならないように、そして試練の中でこそこの御言葉の力に信頼して、その祝福を体験するべきであると私たちを招いているのです。
②私たちを通して現れるもの
今日の箇所の最後には「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(27節)という言葉が登場します。旧約聖書の教えには「みなしごや、やもめ」に対する保護が繰り返し語られています(出22:21)。また預言者はこのような人々に関心を示さない人々を非難してもいます(イザヤ1:17)。聖書によれば彼らの守り手は神様ご自身であり、神様は彼らにいつも関心をもたれていると教えられています。
どうして神様は特にこのような人々に関心を持たれているのでしょうか。「みなしごや、やもめ」は何も持ってはいない人々です。そのような意味で彼らにいくら助けの手をさしのべても彼らから何の見返りも期待することはできない人々なのです。そのような意味で彼らはいつも人々から無視される存在であったのです。人の愛はどこかでいつも何らかの見返りを求めているからです。しかし、だからこそ神様の「みなしごや、やもめ」に対する関心は神様の愛の純粋な形が表しているのではないでしょうか。それなのに私たちはいつの間にか自分が救われたのは神様が私たちから何らかの見返りを要求するためだと勘違いするところがあります。あるいは私たちは神様になんらかの見返りを与えてことができるような者だと思い違いをしてしまうことがよくあるのです。しかし、私たちは神様の愛に何も返すことのできない罪人でしかありません。だからこそ「みなしごや、やもめ」とは私たち罪人の姿を象徴的に表す人々だと考えることができるのです。そのような意味でここに語られている奨めは神様の私たちに対する愛を私たちの行いを通して世に知らせなさいという言葉だと考えることができるのです。
私たちはこのすばらしい神様の愛を世に伝えるために今、遣わされている者だと言えるのです。いままで何度も語ったように主イエスは私たちの教会に聖霊を送りつづけ、私達を通していまその御業を地上に現されようとしておられます。ですから「御言葉を行う人になりなさい」というヤコブの手紙の教えはこのすばらしいイエスの御業が私たちの教会を通して、また私たちの信仰生活を通して表されるためにもっとも大切なアドバイスを語っていると考えることができるのです。