2004.1.11「神の恵みが現れました」
聖書箇所:テトスへの手紙2章11~14節、3章4~7節
11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
4 しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、
5 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
6 神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。
7 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
1.伝道者テトスの使命
①個人宛の手紙…
私たちが今日、学ぼうとする「テトスへの手紙」は伝道者パウロによって記された文章です。パウロはさまざまな教会にあてて手紙を送りました。また、教会だけではなく特定の個人にあてても手紙を記しています。その中にこのテトスやまたそのほかにもテモテへの手紙などが含まれています。個人宛の手紙がどうして聖書の中に収められるようになったのかという理由はこの手紙の内容を学ぶことで理解できます。この手紙には受け取った本人だけではなく、私たち信仰者にとっても有益な教えがたくさん記されているのです。つまり、私たちはこの手紙を「テトスへの手紙」というより「私にあてられた手紙」と理解して読むことができるのです。
さて、それではこの手紙の最初の受取人であるテトスは一体どのような人物だったのでしょうか。またパウロはテトスにどのような理由でこの手紙を送ったのでしょうか。この手紙の受取人テトスはパウロの同労者として大切な伝道の業に携わっていました。聖書によればパウロはテトスを自分の助手としてエルサレムにも連れて行っています(ガラテヤ2章1節)。ですからパウロはテトスを信頼して重要な使命を彼に与えていたのです。
②教会を建てる
この手紙を読むとこのときパウロからテトスに与えられていた使命が何であったかがわかります。それは「クレタ島にキリストの教会を建てる」という使命でした。しかし「教会を建てる」と言ってもそれは教会堂つまり建物を建てることではありません。彼の使命は第一にクレタ島の教会を指導できる長老や監督と呼ばれる役員をその群れの中から選び、彼らをリーダーとして訓練することにありました。クレタの教会がひとり立ちできるために、他の教会員を指導することができ、彼らの模範なるべき教会役員をクレタの教会の人々の中から選ぶのです。そして特に、彼らが教会を破壊しようとする誤った教えから教会を守ることができるようにしなければなりませんでした。
さらにもうひとつの使命はこの教会に属する人々全体に正しい信仰生活について教え、訓練する必要があったのです。実はこの仕事についてテトスはたいへん困難な状態に立たされていたと想像することができます。それはもともとこのクレタ島の人々がもっていた「気質」に原因がありました。以前、NHKでオーストラリアの放送局が製作したドラマを見たことがありました。その中に登場するイギリス人がこんなことを言っていたのを思い出します。「どうもアメリカン人はいい加減で信用できない。…でもオーストラリア人よりはましかもしれない」。イギリス人から見てオーストラリア人がどこまで信用できない人々なのか私にはわかりません。しかしこのイギリス人も言うようにそれぞれの国民の「気質」はいろいろと異なります。貴重面を重んじる国の人々もいれば、その反対に「おおらか」な国民性を持つ人々もいるのです。そしてどうもクレタ島の人々は「おおらか」を通り越すような、褒めることのできない気質を持っていたようです。パウロはこのことについてはっきりと語っています。
「彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。『クレタ人はいつもうそつき、/悪い獣、怠惰な大食漢だ。』この言葉は当たっています」。(1章12~13節)。
パウロが「これは本当だ」と言っているくらい、クレタの人々には相当な問題があったようです。このような人々を信仰者として立派に育て、その中から教会役員を選ぼうとするのですからテトスの働きは本当にたいへんだったろうと思わされるのです。
しかもこの手紙の最後の部分を読むとこのテトスのクレタでの働きは期限が決められていました。このときもうすでに彼には次の仕事まで準備されていたのです(3章12節)。つまり、彼はこの難しい使命を短期間で果たす必要があったのです。
2.現された神の恵み
①神の恵みによって
先頃行われた総選挙では「マニフェスト」というものが話題の的になりました。日本語では「政策綱領」とでも呼ぶのでしょうか。私が一番、興味を持ったのは民主党が言っていた「高速道路の無料化」でした。岐阜や茨城に高速道路を使って帰る私の家族にとって高速道路の代金はたいへんな負担となります。「これが無料になったらどんなによいだろう」と思うことはたびたびです。しかし、この政策に対して当然のように与党は激しい攻撃を加えました。「いったい、そんな財源をどこから出すのか」。「高速道路を無料にしたら、道路を作るために使われた借金、また今後の道路の維持費用はどこから生まれるのか」。つまり、この政策は現実的なものではないと攻撃したのです。残念ながら今度の選挙で民主党は政権をとることができませんでしたから、あの政策が本当に現実的なものであったのかどうか今は確かめることができません。
さてテトスがクレタの教会を建てるために与えられた大切な使命、それを本当に成し遂げることができる「保証」はいったいどこにあったのでしょうか。それがないならパウロはテトスに無理な使命を強いていることになってしまいます。
そこで今日、読んだテトスの手紙の二つの箇所にはこの業を成し遂げることのできる「保証」、あるいは「財源」がどこにあるかが語られているのです。この二つの箇所でパウロは「神の恵み」(11節)、「神の慈しみと、人間に対する愛が現された」(4節)と語ります。これは言葉を言い換えれば、「キリストを通して現された救いの計画が今実現した」と言うことになります。つまり、パウロはテトスがクレタに教会を建て、その教会の信徒たちの生活を導き、教会役員を選ぶことができるのはこのキリストの救いのみ業が成就したからであると言うのです。
②神の恵みによって変えられる価値観=すでに神の国の国民
それでは具体的にどうしてこのキリストの救いみ業の成就が私たちの信仰生活を導き、また教会を立てあげることができるのでしょうか。パウロはこのことについて第一に私たちが今は、この救いによってキリストの再臨の日、終末のときを希望を持って待ち望むものとされていることを指摘します。
年末にドラマ「北の国から」の再放送を見ました。俳優の田中邦衛さんの主演するとても有名なドラマです。このドラマの中で田中さん演じる「黒板五郎」は自分の家族に遺言を書こうとします。知人から遺言状の作り方を指導してくれる先生をわざわざ紹介され、彼はその人の指導のもとで遺言を書き始めます。ところが遺言状の先生は主人公の五郎の書いた遺言状を色々余計なものが書かれていて、本当に大切なものが表現されていないと指摘して書き直しを何度も命じるのです。もっと「あなたとあなたの家族にとって大切なことを書きなさい」と言うのです。そこでこの遺言状の先生は主人公に次のようなことを教示します。「あなたがいなくなったときのこの場所のことを考えなさい。あなたが今、生きているこの場所のことです。そのとき、その風景は何も変わっていなかもしれません。しかし、変わってしまったもの一だけあるのです。それはそこにはあなたがいないということです。そしてあなたがいなくなったこの場所で生きている家族のことを考えてみなさい。その彼らに残してあげたい言葉を考えてみるのです」。そんなことを言っていたような気がします。主人公の書いた遺言状に余計なことが書かれているのは、まだ彼が本当の意味で自分が死ぬという現実を悟っていないからでした。ですから物語が進み、主人公が自分の死を現実のものとして受け止めていくとき、初めて残された家族に自分が語りたいことがはっきりとしてくるのです。
パウロはここでこの世の生活に習うのではなく、信仰者としてふさわしい生活を送りなさいと教えています。そしてその信仰生活の鍵になるのは私たちがすでにキリストの救いに与り、キリストの再臨の訪れのときに完成される神の国の国民にされていることにあると語るのです。この信仰の現実を私たちが真剣に受け止めるなら、私たちの今の生活にとって何が大切であり、何が余計なものであるかが自然とわかってくると教えているのです。つまり、私たちが大切なことを見分けることができ、またそれを実行することができるのは、私たちがキリストによって救われていること、キリストの再臨のときにそのみ国の国民にされていることを確信し、またそのことを想像しながら毎日の生活を送ることにあるのです。そうするならば、私たちの生活の中で余分なものが何で、本当に大切なものがなんであるかが分かってくるのです。
③神の恵みによって永遠の命を受け継ぐ者とされる=聖霊の導き
さてパウロは次に私たちの信仰生活を導き、また教会を建てあげる力をまたもうひとつ別の側面から説明いたします。それは私たちの信仰生活のために私たちに送られる助け主である聖霊働きです。
私たちは信仰生活を続ける中で、よく自分の愚かさや弱さを発見してはがっかりすることがあります。「本当に自分は最後まで信仰生活を忠実に送ることができるのだろうか」と疑問に思うことがあるのです。パウロはしかしそのような私たちに「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」(5節)と語り、私たちの信仰生活の確かさは私たち自身にあるのではなく別のところにあると教えているのです。
この確信はキリストの救いのみ業の上に置かれています。そしてキリストの成し遂げられた救いによって、私たちには「聖霊」が間違えなく送られているのです。聖霊は私たちの心に働きかけて、私たちにキリストを信じる信仰へと導き、またその後も信仰生活を送るようにされるのです。私たちはキリストを信じて教会員になるとき「洗礼」を受けます。この洗礼は実際に私たちの上に聖霊が働いてくださっていることをあらわすものなのです。ですから洗礼はキリストの贖いの死によってもたらされた罪の許しが私たちの上に聖霊によって現実のものになったことを確信することができる大切な儀式(聖礼典)なのです。
また私たちがたびたびこの礼拝の中で受ける聖餐式もこの聖霊がキリストの勝ち取ってくださった恵みを私たちの信仰生活のうえに日々、現実のものとしてくださることを表すものです。これらの聖礼典に私たちが与るとき、私たちの信仰生活はこの信頼できる聖霊によって導かれていることを知ることができるのです。聖霊が私たちうちで働いてくださるからこそ、私たちの信仰生活は守られているのです。
世界的に有名な童話作家アンデルセンがまだ有名でもなく、貧しかった若いころの逸話です。立派な作家になることを夢見る青年アンデルセンは当時、有名だったスウェーデンの女流作家ブレーメンに会って小説の手ほどきを受けることを考えました。彼女に会うため彼はやっとの思いで、旅費を作り船に乗りました。この旅の途中、アンデルセンはたまたまその船で知り合った船長と親しくなり、自分の旅行の目的を彼に話しました。すると船長はアンデルセンに残念そうにこう語ったのです。「確か、今朝読んだ新聞では、ブレーメン先生は長い外国旅行に出たという記事が載っていたはずです。ですから、あなたがこれから会いに行っても、先生はそこにはいないでしょう」。この船長の話を聞いて、アンデルセンはたいへんなショックを受けました。「せっかく苦労して旅費を作りこのように旅に出たのに、自分の苦労はみんな無駄になってしまうのか」。どうしたらよいのかも分からず、失望している彼のもとに、しばらくして船長があわてて駆けつけました。そして先ほどのニュースを聞いて悲しんでいたアンデルセンにこう告げたのです「アンデルセンさん。たいへんな奇跡が起こりました。ブレーメン先生がこの船に今、乗っておられることが分かったのです」。
私たちはいつも聖霊が私たちとともにいてくださり、私たちの信仰生活を導いてくださることを心に刻む必要があると思います。わずかな情報や出来事に惑わされて失望するのではなく、神の救いに根拠を置いて、この救いの事実を確信すべきなのです。神の救いのみ業を今、私の人生の上に実現するために聖霊は私たちのもとに遣わされています。ですからパウロは最後に次のよう語ります。「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」(7節)と。確かにテトスに与えられた使命はこの世の現実から見れば困難なように思われます。しかし、彼の働きはキリストの救いのみ業によって可能とされ、実現することができることをパウロはここで教えているのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様。
私たちにあなたの恵みと慈しみを施し、救いを実現してくださったあなたのみ業に感謝いたします。キリストの十字架のみ業によって私たちは今、あなたを信じる者とされました。あなたのみ国に入る資格をもち得ない私たちをキリストの十字架のみ業をもって救い、罪を許し、み国の民としてふさわしい者にしてくださったみ業を褒め称えます。地上の多くの人々はこの祝福を知らないまま、自分にとって何が必要で大切なものであるか、またそうではない余計なものであるかを知らないで生きています。私たちにみ国のすばらしさを知らせてください、キリストの再臨を、希望を持って待ち望み、今の私たちに何が大切であるかを見分ける力をあたえてください。
聖霊を送り、キリストが十字架で成就してくださった祝福を私たちの生活に実現してくださるあなたのみ業を褒め称えます。
目先の出来事に失望するのでなく、聖霊の働きに身をゆだね、私たちの救いの完成の日を待ち望むものとしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。