2004.1.25「皆一つの霊を飲ませてもらった」
聖書箇所:コリントの信徒への手紙一12章12~27節
12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
1.自己の体験を誇る
①「霊的な賜物」で混乱するコリント教会
私たちが今日学ぼうとしているコリントの信徒への手紙は使徒パウロからコリントにある教会に送られた手紙です。このコリントの教会には私たちもこの礼拝で何度か学んだように大変な混乱がありました。その混乱を巻き起こす大きな原因となったものは、おそらくこの教会が立てられていたコリントの町にあったと考えることができます。当時、コリントの町は交通の便のよい場所に立てられた大変、豊かな商業都市でした。そうすると当然のようにその豊かさをもとめてさまざまな場所から人々がこの町に流入して来ます。その人々に伴ってさまざまな文化や価値観の流入も起こりました。その上で、その町の影響がこの教会にも及ぶ結果となったのです。つまりある意味ではとても退廃した文化がこの教会の人々を蝕んでいったのです。そこでパウロはそのような教会に対してこの手紙を送り、アドバイスをすることとなったのです。
今日の朗読箇所の部分では教会にはさまざまな人が集まり、それぞれ異なった賜物を持っているが、そのすべてはキリストの体である教会を構成するために各自に与えられたものであることが教えられています。また、そのため教会に集うものはその賜物を使って、キリストの体である教会に仕えることが大切であることが教えられているのです。
おそらくパウロがこのようなアドバイスを語る直接の原因になった問題についてはこの12章の前半の部分で伺い知ることができます。ここでパウロは「霊的な賜物」について問題にしています。これは私たちが普通「異言」と呼ぶ現象と深い繋がりがあると考えられます。この現象についての解説はさまざまなのですが、ここで問題となるのはコリントの教会の人々が先を争ってその賜物を追い求め、その賜物を得られない人が蔑まれたり、またそれを受けた人が自分を誇ったりするという出来事が起こったということです。パウロはそのようなことは本来「神様が私たちに賜物を与えてくださった、その目的から大きくずれていってしまうものである」と警告しているのです。
②「証し」で競争する?
実は私も入信当初、同じような誤りに陥った経験があります。私が洗礼を受け、信仰生活を始めた教会では毎日曜日の礼拝の中で必ず信徒による「証し」という時間が持たれていました。礼拝のとき牧師が説教壇で一通り説教を語り終えると、今度は毎週交代なのですが信徒がその説教壇に立って、自分の信仰生活で経験した神様の恵みについて語るのです。つまり各自の信仰体験をお話するのがこの「証し」の目的でした。今考えると私の理解が未熟であったせいだと思うのですが、私はその「証し」でどんなに自分が立派なクリスチャン生活を送っているかを語らなければならないと勘違いしていたのです。そのため私は実際の自分の信仰生活にだいぶ脚色をつけて証しを語ることになりました。それで立派な「証し」ができたと満足していたのです。ところが次の週に今度は他の兄弟の立派な証しを聞いて、「ああ自分はあんな体験をしていない」と私はがっかりしてしまうのです。それだけではありません。私はそんな立派な証しをした兄弟が他のところで失敗したり、落ち込んでいるところを見るとなにか「ほっと」するような気になりました。「ああ、あの人も私と同じなんだ」と思えてほっとするのです。しかし、次にまた自分に証しの番が回ってくると、「私は他の人と違います」と脚色をつけたお話をしようとするのです。これでは何か信仰生活が競争のようになってしまいます。おそらくこれと同じような現象がコリントの教会のうちに起こっていたのではないでしょうか。このような問題が起こったのは彼らの信仰生活の中にいつの間にか相手を押しのけても、自分が前にでなければならない地上の競争社会の原理が入り込み、支配し始めた結果だったと考えることができるのです。
2.示された神の恵み
①キリストの体とされている教会
パウロはこのようなコリント教会に対して、「だめだ、だめだ、もっとしっかりしなくては」と批判をしたり、叱責することだけで解決がつくとは思っていませんでした。批判や叱責は人の勇気を奪うだけで、本当の解決を生み出すものにはならないからです。そこでパウロはコリントの教会の人々が勇気を持ってこの問題に立ち向かうために、彼らがすでにキリストの恵みの中に生かされているという恵みの現実を語るのです。
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」(12節)。
パウロはこのような問題を持ち、欠陥だらけに見えるコリントの教会が「キリストの体」だとここで語っています。これはとても不思議なことです。パウロはこのコリント教会が「いつか、努力すればキリストの体になれる」と言っているのではありません。今すでに「キリストの体とされている」という事実を前提にしてコリント教会への助言を語りだすのです。この教会がキリストの体とされているのは、そこに集まる人々が立派な人間で、模範的なクリスチャンであるからではありません。キリストがその教会のために十字架にかかり、その罪を贖い、その上で聖霊をその教会に送り続けてくださっているからです。
「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(13節)。
私たちは教会に入会するとき洗礼を受けます。また毎月のように聖餐式の恵みの座へと導かれます。聖餐式ではパンとぶどう酒を通して、キリストの肉を食べ、その地を「のむ」のです。それは私たちがこの聖霊の支配の中に入れられたこと、キリストの体の一部とされたことを意味しているのです。この私が今、すでにキリストの体とされているのです。それはどんなにすばらしい恵みでしょうか。そして私たちの勇気と力はこの恵みの中に生かされていることに気づくときに与えられるものだと言えるのです。
②肢体の一部されている
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか」(14~17節)。
ここでパウロはキリストの体とされている私たちがお互いに与えられた賜物の違いで争うことは無意味なことである以上に、教会にとっては大きな損失なのだと教えています。
カルヴァンのコリント前書の注解によるとパウロの時代にローマの元老院は少数の貴族の支配に不満を感じる民衆を説得するためにこのパウロの言葉と同じようなたとえを用いたことを紹介しています。「自分たち貴族は体で言えば内蔵のような大切な役割をしている、だから足や手であるあなたたちが一生懸命はたらけるのも自分たちの隠れた働きのお陰なのだ」と元老院は民衆に語ったというのです。この元老院のたとえはあくまでも自分の立場を擁護するために語られていますが、ここでパウロが語るたとえはもっと積極的な意味を持っています。それはキリストの体を構成する一人一人がすべて重要であって、そこにはいらないもの、不必要なものは一人もいないということが教えられているからです。
昨年末に私は突然、肩を痛めて腕が上がらなくなってしまったことがありました。幸い、三日ぐらいで私の場合は回復したのですが。その三日間、日常生活でたいへんな不便を感じることになりました。朝起きて「顔を洗うことも、歯を磨くことも」容易ではありません。痛めたところはほんのわずかの部分であったのかもしれませんが、それが大変な不自由を強いる結果になったのです。私たちに与えられた賜物はそれぞれ違います。しかし、「その違う賜物を持った私たちが集まっているからこそ、このキリストの体は成り立つのだ」とパウロは言うのです。ですから、たとえその体の中で小さな働きしかしていなくても、その働きがなくなってしまったら大変なことになるのです。私たちはみなそんな重要なキリストの体の一部とされているのです。これも私たちにとってどんなにすばらしい恵みでしょうか。
③見劣りする部分とは
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします」(22~23節)。
パウロは次にさらに興味深いことを語ります。このキリストの体にとっては「弱く見える部分が、かえって必要だ」と語るのです。現代の企業家であるなら、倒れかけた企業の経営を立てなおすために、まず「弱い部分」を切り離すことから始めるのではないでしょうか。ところが、キリストの体にとってこの弱い部分はもっとも必要なところなのだとパウロは語るのです。その理由はこの弱い部分をカバーして全体を格好よくさせるために他の部分が活発に働くからです。つまり、体全体がこの「弱い部分」のために活性化し、すばらしい体を作り上げていくとパウロは語っているのです。
しかし、この言葉が本当であったとしたら、私たちはこの「弱い部分」とは誰のこととして読んでいく必要があるのでしょうか。もし、この言葉から私たちが本当に励ましを受けたいのなら、この「弱い部分」が私自身であるということを認めなければなりません。そうなると私はたくさんの人々の助けを借りて今、このように生かされていることが分かってくるのです。私たちはいつのまにか一人でがんばって信仰生活を送っているように勘違いをしがちです。その上でいつのまにか、自分が他の人の欠けをカバーしているのだと思い込んでしまうのです。しかし、事実は私たち自身がキリストの遣わしてくださる聖霊の力よって、またその働きに促された兄弟姉妹の助けによって今、このようにして信仰生活を送ることができるようにされているのです。これもまたどんなにすばらしい恵みではないでしょうか。
3.コンダクターに目を向けて生きる
オーケストラが演奏会をするとき、最初にそれぞれの楽器の持ち主は自分の楽器の調律をします。あっちでもこっちでも、自分の音を合わせる音が聞こえます。それだけを聞いていると、とてもうるさくて、その不協和音に「この演奏会はこれからどうなってしまうのだろうか」と思わされることがあります。
ところが、演奏会が始まり指揮者が前に立って指揮棒を振るい始めると、あの聞くに堪えない不協和音を出していたそれぞれの楽器が見事な調和を見せて、すばらしい音楽を奏でます。それぞれの楽器の音は違っています。しかし、その違った音が指揮者の指揮のもとひとつにされるときそれはすばらしいハーモニーとなっていくのです。キリストの体とされている私たちもそのようなものではないでしょうか。一人一人の奏でる音はその人の賜物、またその人の人生経験によってかなり異なっています。もしそれぞれが思い思いにその音色をかなではじめたら、それは聞くに堪えない不協和音を出すことになってしまうのです。しかし、私たちにはすばらしい指揮者が与えられています。それは私たちの教会の頭であるイエス・キリストです。そして、このイエス・キリストの指揮棒とは私たちに与えられている神の言葉、聖書のことだと言えるのです。私たちがこの御言葉に耳を傾け、イエスの指揮に目を向けて従っていくなら、この教会にも聖霊の奏でる豊かなハーモニーが聞こえてくるのです。今日の聖書の箇所はそのことを私たちに教えています。また、私たちは既にキリストのみ名によって洗礼を受け、聖餐式に与っています。キリストの聖霊の働きかけを受けて、キリストの体の一部とされているのです。この恵みこそが私たちを励まし、勇気づけてくれることを今日の聖書の箇所は私たちに明らかにしているのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様。
イエス・キリストの贖いの死によって私たちを罪から救い、復活された後、私たちに聖霊を遣わす為に天の昇られた主の御業に感謝いたします。私たちはあなたの遣わしてくださった聖霊の力によって信仰をいただき、キリストの体の一部とされています。この地上にあってさまざまな考えや力に支配されてしまい、あなたの恵みの事実を忘れてしまう私たちです。どうか私たちが目の前に起こったできごと、また自分の愚かさのために失望することがないようにしてください。
確かにあなたから与えられている賜物を使って私たちがあなたの教会に使え、あなたの栄光を表すことができるようにしてください。私たちの教会が主イエスを頭と仰ぎ、主に従い、主と共に歩むことができるように私たちの信仰生活を聖霊によって導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。