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2004.2.15「すべての人の中で最も惨めな者」

聖書箇所:コリントの信徒への手紙第一15章12~20節

12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。

13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。

14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。

15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。

16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。

17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。

18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。

19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。


1.死者の復活を否定する信仰

①信仰の対象の真実性

 今日も続けてコリントの信徒への手紙15章から学ぶことにしましょう。先週の礼拝でもお話したようにパウロはこの15章の部分でコリント教会の信徒がパウロの伝えた本来の福音に立ち戻るようにと薦めています。なぜなら、コリント教会の中に起こったさまざまな問題の根は彼らがパウロたちから伝えられた真の福音から離れ、自己流の信仰理解に陥ってしまったところに深い原因があったからです。私たちは「信仰とは信じる人の心の問題」だと考える傾向がありますが、まことのキリスト教信仰にとって大切なものは私たちの信仰の対象がどのようなものであり、またそれが真実であるかどうかにかかっているのです。そこでパウロはくどいように今日の箇所でも自分たちが伝えた信仰の内容の真実性を問題にして論じています。


②死者の復活を信じない信仰

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(12節)

 今日の箇所では「死者の復活」についての信仰が問題とされています。なぜならここに書かれている通りコリント教会の中で「死者の復活などない」と主張する人々が存在していたからです。彼らの考えていた「キリスト教信仰」がいったいどのようなものであるか、詳しく調べる手がかりはあまりありません。ただ、このパウロの手紙を読むと彼らは「キリストの復活」を信じながらも、それ以外の人間がやがて最後の日に「復活する」という信仰を持っていなかったか、あるいはそれを否定していたと言うことが推測されるのです。実はこのような推測はコリントの人々の持っていたもともとの宗教観からも必ずしも間違いではないと考えることができるのです。このコリントはギリシャ地方にあった町のひとつで、有名なアテネの町ともあまり遠くないところに位置していました。使徒言行録17章にはパウロがこのアテネの町で福音を伝えた際の興味深い出来事を記しています。


2.キリスト教の救済観の結論である「死者の復活」

①ギリシャ人の宗教観

 ここではアテネの町の人々が新しい知識に非常に貪欲な人々でパウロの語る福音の内容について大変に興味を持って、その言葉に耳を傾けていたことが記録されています(19~20節)。パウロはアテネの町の人々に真の神とはどのような方であるのかを力説しました。ところ、彼の論旨が「死者の復活」に入った途端に聴衆の態度は大きく一変してしまいます。いままで熱心にパウロの話に耳を傾けていた人々が今度は彼をあざ笑い「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」(32節)と急に無関心になって、パウロの話を聞くことを拒否してしまうのです。パウロの語る言葉のほかの部分には興味を示しても、ギリシャ人にとってこの「死者の復活」は受け入れることができない教えであったことがここからも推測することができるのです。

 それはどうしてなのでしょうか。ギリシャ人が現代の人間のように科学的思考をもっていたからでしょうか。そうではありません。先に少し触れましたように、これは彼らのもっている宗教観、あるいは「人はどのように救われるのか」という救済観と深いかかわりを持っていたからです。皆さんもあるいはギリシャ哲学の話を耳にされたことがあるかもしれません。ギリシャ人にとって人間の肉体は人の魂を閉じ込める「牢獄」のようなものと考えられていたと言うのです。彼らは「魂の不死」つまり「人間の魂はいつまでもなくならない」と言う永遠性を信じていました。ところが一方で地上の事柄、特に人間の肉体が悪いものであって、魂の自由を拘束しているものだと考えていたのです。ですから、彼らにとっての人間の救いとは人間の魂がこの肉体から解き放たれることだと言えたのです。このような宗教観を前提にしているからこそ、有名なソクラテスも積極的にその人生の最後で自分の死を選びとったと言えるのです。

 このような宗教観をもつギリシャ人にとって「死者の復活」とは人間を拘束している牢獄に再び魂が拘束されてしまうような、ナンセンスなことになってしまうのです。そしてそのような宗教観がパウロの福音を拒否したギリシャ人の姿に影響していたのです。おそらくこのコリント教会でも一部の人々の中でギリシャ的宗教観とキリスト教を混合するような自己流の解釈が生まれ、その教えが人々を迷わしていたと考えることができるのです。


②キリスト教の救済観

 さて、皆さんはもちろんギリシャ人ではありませんから、「肉体は魂を閉じ込める牢獄」だと考えたり、信じたことはないかもしれません。しかし、このギリシャ的思考は実は私たち日本人の宗教観ともある程度共通するところがあるとも言えるのです。「魂は良いもので肉体は悪い、天的なものは良くて、地上的なものは悪い」。このような考え方を別の言葉で「二元論」と言います。実はこの「二元論」は私たち日本人の宗教観の中にも深く貫かれているのです。このような考え方に対して私たちの信じるキリスト教信仰は「一元論」と呼ばれています。なぜなら、私たちの信仰にとって天にあるものも地上にあるものもそのすべては悪いものではなく、すべては神様が創造された良いものだと考えているからです。それは皆さんが聖書の最初の部分、創世記をお読みになるとすぐわかることです。すべてのものは神様が創ってくださったものであり、神様はそのすべてのものをごらんになられて「よいもの」と評価されているからです。

 ところが、聖書はこの神様に造られたすべてのものを司るべき人間が神様から離れてしまったときにすべてのものに変化が起こったと教えているのです。人間の罪によってもともと「すべてよかったもの」が、悪いものに変わってしまったのです。そこで大切になってくるのは、この世界と人間の救いとはこの失われた神様との関係が回復されることだということです。人間と神様との関係が回復されるなら、地上のものも、天上のものも、すべてのものはその本来のすばらしさを回復することができるのです。これが私たちの信じている救いの出来事なのです。この救いをキリストは成就してくださり今、私たち人間と神様との関係が回復されたのです。ですから、この救いのために私たちの持っている肉体も本来の姿を回復することができるようになったのです。「死者の復活」とは私たち人間が神の創造の本来の目的に従って、最高の祝福にあずかること指していると言えるのです。だからこそこの出来事は聖書の神を信じる私たちにとって決して変えることのできない真理であると言えるのです。


3.死者の復活とキリストの復活との関係

①福音を伝えるために払われた労苦

「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(13節)

「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」(16節)

 パウロはこの短い文章の中で同じような言葉を二度繰り返しています。この言葉の背後には今、語ったようにキリストの復活を教えながらも死者の復活を否定する誤った教えがコリント教会の信徒たちを惑わしていたからです。しかし、パウロはここでキリストの復活と死者の復活は切り離すことはできないこと、つまりこの二つの出来事はちょうどコインの裏と表のようなものであり、どちらかを否定すれば、そのすべてが否定されてしまうようなものであることを強調しているのです。つまり、死者の復活を否定することは結果的にはキリストの復活を否定することであると言い、もしこのキリストの復活が否定されてしまうことになるならいったいキリストの福音はどのようになってしまうのかとパウロは続けて語りだしています。

「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」(14~15節)

 パウロはここで自分たちの宣教の内容とそれを伝えるために払った労苦のすべては無意味になってしまうと語ります。つまりパウロの伝えた福音のすべてはこのキリストの復活の真実性の上に立っているのだと教えているのです。パウロがどんなにこの福音を伝えるために労苦したかはコリントの信徒への手紙第二に詳しくその内容が記されています(11章23~28節)。彼がこのような労苦を経ながらも熱心にキリストの福音を伝えたのはその福音の内容が真実であったからに他なりません。つまり、逆に言えばこの福音を伝えるためにパウロたちが払った労苦はキリストの復活の真実性を明らかに証明するものだと言えるのです。


②眠りについた者の初穂

「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(17~19節)

 この後半部では今度はコリント教会の信徒の信仰の側にたってパウロは論旨を進めています。死者の復活を否定するなら、キリストの復活も否定することになる。キリストの復活を否定するなら、自分たちはいまだに罪の支配の中にあることになり、まだ救われていないことになってしまうと言うのです。それだけではありません。これではキリストに望みを置いて天に召されていった人々の信仰もまた無意味なものとなってしまうからです。それではキリストを信じて生きている自分たちは「すべての人の中で最も惨めな者」になってしまうのではないかとパウロは語るのです。

 何度も語るように信仰とは信じる者の心の問題ではありません。神様がこの世界と人間をキリストによってどのように変えてくださったか、その事実こそが大切なのです。そして私たちの信仰はこの事実を受け入れるところに成り立つものなのです。パウロはその私たちが信じるべき事実を次のように語っています。

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)

 キリストの復活が真実である以上、私たちの信仰は確かなものであり、やがて私たちは終わりの日にキリストと同じ姿で甦ることができるのです。このようにパウロはここで私たちのキリスト教信仰が揺るぎのない神様の救いの事実の上に立てられていることを確認しています。


4.復活の主に出会って信じる

 私はこの復活の論議を読む中で自分の未熟な体験を思い出しました。私がまだ聖書を読み始めて信仰生活に入った初期の頃のお話です。その頃の私は、まだまだ正しい信仰の理解とは相容れない、自己流の信仰解釈を持っていました。簡単に言えば、先週お話したようなカトリックの作家遠藤周作氏のキリスト理解に深く共鳴していたのです。自分にとって自分を愛してくれるキリストを信じることができても、その復活を聖書の言葉通りに信じることができないそんな気持ちを私は心の底で抱いていました。

 あるとき教会の青年修養会に出ていたときに、小さなグループの話し合いの中で私は自分のそのようなキリストの復活について理解をそこに居合わせた青年たちに披露しました。するとそこにいた大学生の一人が大変厳しく「君の信仰理解はリベラル(自由)主義だ。それは本当の福音を信じる態度ではない」と批判したのです。私がそのときどのような反論をしたのか今はぜんぜん覚えていません。ただ覚えているのは自分が「リベラル主義」だと厳しく批判されて大変傷ついた思い出でと、心の中で「そんなことを言われても、自分は一生懸命、聖書を読んで福音を信じようと努力しているのに」とつぶやいていたことです。

 今、改めて考えてみると私の当時の信仰のもっとも大きな誤解は、キリストの復活を合理的に理解しようとしたところだけではなく、私がこの復活という事実を自分の力や知恵を使って一生懸命に信じ込もうとしたところにあったのではないかと思えるのです。なぜなら人はどんなに努力をしてもキリストの復活を自分の限られた知識では理解することができないからです。

 ここで復活の事実性を語るパウロは幼いころから聖書に精通していた人物でしたが、キリストの復活をそれだけで信じることができたわけではありませんでした。むしろ彼はキリストの復活を目撃し、またそれを信じる人々を迫害して、その信仰を否定するのに熱心な人物だったのです。ところがこのパウロが全く変わってキリストの復活を告げ知らせる者となります。それはどうしてなのでしょうか。彼の努力が彼を正しい信仰理解に導いたのでしょうか。そうではありません。パウロはこの箇所の直前でこの変化の理由を語っています。

「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(8節)

 復活されたキリストは最後にパウロの前にも現れ、彼の心を正しい信仰へと導いたのです。つまり彼の信仰は復活されたキリストの働きかけを受けて初めて正しいものとされたのです。もちろん今は、このような形でキリストが人間の前に現れることはありません。しかし、復活の主の働きかけは今でも続いているのです。ですから私たちが今、キリストの復活を真実なものと信じることができるのは、復活された主が天から送ってくださる聖霊の働きによるのです。つまり私たちが今、復活の主を信じることができるのは、キリストが今も生きて働いていることをも証明するものだと言えるのです。

 そして、この聖霊の働きを受けて復活の主を信じさせていただいている私たちにとって、やがて最後の日に与えられる「死者の復活」の希望も確かなものであると言えるのです。そのとき私たちがどのような姿でよみがえるのか、確かにされていることは多くはありません。しかし、もう一度語るように、私たちはその日にキリストと同じ姿をもってよみがえることができると聖書は約束してくださっているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 キリストを墓から三日目に甦らせ、その出来事を通して私たちもキリストと同じように甦る希望を与えてくださったあなたの御業に感謝いたします。どうか私たちがあなたの福音を正しく理解し、信じることができるように私たちに日々、聖霊を送ってください。私たちがあやまった自己流の信仰や、他のこの世の価値観に影響されて福音の真理を誤って理解することがないようにしてください。

 願わくは私たちの信仰を強め、パウロと同じようにキリストの復活の証人として福音を宣べ伝えることができますように。そして罪と死の不安の中にある人々にあなたにある希望を大胆に語ることができるようにしてください。

 救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2004.2.15「すべての人の中で最も惨めな者」