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2004.2.29「主の名を呼び求める」

聖書箇所:ローマの信徒への手紙10章8~13節

8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えて いる信仰の言葉なのです。

9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。

12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。

13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。


1.救いの確信はあるか?

①どのようにして信じるの…

 今日はローマの信徒の手紙に登場するパウロの言葉から学びます。私はこのパウロの言葉に関して一つの思い出を持っています。当時、わたしは教会で求道者生活を続け、「自分には主イエスを信じることが必要なのだ」という思いを強く抱くようになっていました。ところが「それでは具体的にイエスを信じるために自分はどうしたらいいのだろうか」という疑問が私のうちに続いて起こって来ていたのです。そのとき私が通っていた教会の牧師にこの自分の疑問を語りました。「神様を信じたいのだけれど、神様をどのように信じたらよいのかわかりません」。そう打ち明けた私に牧師はローマの信徒への手紙10章8~9節のパウロの言葉を引用して、「櫻井くん、ここに書いてある通りにしなさい」と教えてくれたのです。ところが当時、そのように言われても正直なところ私はこのパウロの言葉の意味をほとんど理解できなかったのです。


②正しいことをしなければ救われないの?

 今、考えてみると当時の私にとってこのパウロの言葉が難解であったためと言うよりは、救いについての自分の抱いていた誤解がこの言葉を理解させることを難しくしていたのだと思えてなりません。当時の私は「この自分が救われるのだから、自分は神様のために何かとてつもなくたいへんなことをしなければならない」と思い込んでいたのです。だから「信じる」と言ってもそこには当然、何か難しい要求が付け足されているのではないかと私は思ってしまっていたのです。

 私はこの後も自分の抱いている疑問を解く手がかりとして、いろいろなキリスト教に関する本を読みました。先週、ヤング宣教師が語られたビリー・グラハムの本も何冊か読みましたが、残念ながら私はそこに自分の疑問への回答を見出すことができなかったのです。私はその後、マルチン・ルターの小教理問答書を通信教育で勉強する機会を得て、その中で人間は自分が救われるために何もすることができないほどに堕落し、神の前で無能力になっているということを学ぶことができました。そのことを知って初めて、ここに書かれているパウロの言葉が少しずつですが分かるようになっていったのです。


2.私たちの近くにある救い

①福音を受け入れられないユダヤ人

「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある」(8節)。

 パウロは今日の箇所で旧約聖書の申命記30章14節に登場するモーセの言葉を引用して主イエス・キリストを信じる信仰について説明しています。もともと、モーセがこの言葉を語ったときの意味は、これから約束の地カナンに入ろうとするイスラエルの民に、その地で神の祝福を受け、命を生き長らえるためには神の律法を守ることが大切なことを教える意味がありました。そしてその際、イスラエルの民がこの律法に従うことは決して難しいことではないと教えたのがこの言葉なのです。

 ところがパウロはこのモーセの言葉をここでは律法についてではなく、私たちのキリストへの信仰、それによって受けることができる救いについて当てはめて語っているのです。キリストを信じる信仰は決して私たちに難しいことではありません。なぜなら、神様は私たちがイエス・キリストを信じて、その救いを受けることができるように福音の言葉を私たちに与えてくださっているからです。ですから、私たちはこの聖書に示されている福音の言葉を通してイエス・キリストを信じる信仰に導かれることができるのです。ところがユダヤ人たちはこの福音を理解できず、むしろ受け入れることができないでいました。どうして彼らはこの福音を理解することができなかったのでしょうか。

 私は英語が大変苦手で、牧師になるために入る神学校の入学試験でも英語の点数が足りなかったために合格することができませんでした。それでも神学校の温情によって「聴講者」として、他の学生たちと一緒に神学校の授業を聞くことができるようになったときに、あらためて驚かされたのは神学校の授業で用いられている教科書の大半が英語で書かれているということでした。

 神学校では最初入学して三ヶ月間は「予科生」といって、ギリシャ語とヘブル語の特訓を受けるのです。しかしこのギリシャ語も英語からギリシャ語に訳し、またギリシャ語を英語に訳すというもので、どうしても英語の呪縛からは解放されません。そこで一人の神学校の先生が「私が英語を特別に教えましょう」と授業が終わったあと、私ともうひとりの学生二人に英語の特訓授業をしてくれることになったのです。そのときその先生は中学校で使う薄い英語の問題集を持ってきて、「これで勉強しましょう」と言うのです。私はその問題集を見たとき、こんなもので本当に難しい英語の神学書が読めるようになるのかと疑問に思いました。ところが、私はその先生の指導で生まれて初めて、英語の問題集を最初から最後までやりとおすことができたのです。それまでの私の勉強の仕方と言えば、難しい参考書や、分厚い辞書を買って来るものでしたから、むしろ英語の難しさを痛感させられ、「やっぱり英語は自分には向いていない」と言う確信を深めるものでしかなかったのです。つまり、私は自分の実力を知らず、その実力とは大きくかけ離れたところで英語を勉強しようとしていたのです。私はこのとき自分の実力を知り、それにあった勉強方法をとることが大切であることを学ばされました。

 ご存知のようにユダヤ人たちは「律法主義」と言って、自分が神様の律法を熱心に守ることで神様の救いにあずかることができると考え行動していました。ところが、パウロがこのローマの信徒の手紙で教えているのは「私たち人間はみな、この律法を完全に守ることができない」ということでした。つまり私たちの人間の持っている実力は律法を守ることはできないのです。ところがユダヤ人たちはこのことを理解していませんでした。そのためにユダヤ人は自らにも、また他人にも決して守ることのできない律法を要求したのです。この方法では私たちは救いから遠のくばかりで、決してそれにあずかることはできません。つまり、ユダヤ人たちの主張した律法主義は私たちに人間の実力にふさわしくない方法であって、この方法では誰も救いにあずかることができないのです。


②救いは私たちの近くにある

 そこでパウロは私たち人間にふさわしい救いの方法を神様は私たちに別の形で与えてくださったとこのローマの信徒への手紙で教えているのです。それが主イエス・キリストを信じる信仰であり、その信仰を通して私たちが神様の前に義しくされる(信仰義認)という方法です。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(9~10節)。

 世界史に登場する秦の始皇帝は広大な中国を統一した人物として有名です。彼の巨大な権力のもとであの「万里の長城」は作られています。自分の力で何もかも手に入れたかにみえた始皇帝でしたが、唯一つかれが手にすることができなかったものがありました。それは「不老不死の薬」です。彼はその薬を手に入れるために中国全土、また海外にまでたくさんの人々を遣わし、薬を探させたと言います。どんなに巨大な権力を手にいれても自分が死んでしまったらそれがどうなってしまうか分からない、そんな不安が彼に不老長寿の薬を求めさせるきっかけとなったのではないでしょうか。結局、彼はその薬を手に入れることなく50歳で死に、彼の死後すぐに、秦の国は内紛によって滅んでしまいます。

 聖書には始皇帝の求めた不老長寿の薬は登場しませんが、私たちが神様の救いを得て、永遠の命を受けることができるすばらしい祝福が語られています。私たちはこの祝福を遠くに出かけて手に入れる必要はありません。すぐに手に入れることができるのです。それはどうしてでしょうか。それは私たちのためにイエス・キリストが十字架にかかり、また復活されたという事実があるからです。私たちのためにこの地上に来られたイエスは私たちには実現不可能な律法の要求を完全に満たしてくださったからです。イエスはご自分がこの律法の要求を私たちに代わって成し遂げることによって、私たちを救いへと導いてくださったのです。つまり、最初に引用したモーセの言葉はこの主イエス・キリストを通して真実なものとなったのです。私たちにとって律法を通して命をえる方法はこのイエス・キリストの救いのみ業を通して可能となるのです。

 このように私たちは主イエスが完全な救いを私たちのために成し遂げてくださったことを信じるだけで、イエスが獲得してくださったすべての恵みを手に入れることができるとパウロはここで教えているのです。


3.私たちの満たす条件とは違うもの

「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」(12節)。

 このキリストにある救いをパウロは別の角度から語っています。当時ユダヤ人とギリシャ人はあまり仲の良い間柄ではありませんでした。ユダヤ人はギリシャ人を「真の神を知らない汚れた異邦人」として嫌っていましたし、ギリシャ人はユダヤ人を「文明も知識も知らない、野蛮で遅れた人々だ」と馬鹿にしていたのです。つまり、彼らはお互いに違った尺度を使って、相手が人間としてふさわしい条件を持っていないと判断していたのです。ところがパウロはここでユダヤ人とギリシャ人の区別なく、誰もが同じようにキリストにあって救われることができると教えているのです。それはどうしてでしょうか。もし、神様の救いが人間の持つ何らかの条件であるならば、その条件から外れてしまう人が必ず生まれてくるでしょう。ところが、神様が私たちの救いのために求めている条件は、私たちの側の持っている条件ではなく、キリストが十字架と復活によって私たちのために満たしてくださった条件なのです。だから、そのキリストが満たしてくださった条件を、信仰を持って受け入れる人は、たとえ何人でも、また誰であっても関係はないのです。つまり私たちの信仰とは私たちが何かをすることではなく、私たちのためにすべてのことをしてくださった主イエスを受け入れ、その恵みをあずかることだと言えるのです。


4.最後まで大丈夫

①自分の条件では確信できない

 スポルジョンといういまから150年くらい前にイギリスで活躍した有名な説教家はその説教の中で「もし、私たちの救いがキリストによる恵みだけではなく、私たちの側が持っているなんらかの条件を必要としているなら、私たちは今、自分は救われているという確信を持つことができなくなる。しかしパウロは『あなたがたは今、すでに救われている』と聖書の中ではっきりと語っているではないか。」というようなお話をして、私たちがキリストの恵みによってのみ救われるという事実を強調して述べています。

 スポルジョンがこのように語るのは私たち人間の持っている条件は大変に不確実であるからです。今日は大変立派な信仰生活を送っているとしても、私たちは明日自分がどうなっているかわかりません。つまり私たちが最後に神様の前に立つまで、「自分はがんばって信仰生活を続けることができる」と胸を張って言える、保証は私たちのうちには何もないのです。

 私が小学生のとき学校のバス旅行に出発する前の晩になると、私の母は私のために旅行の荷物を作ってくれました。ところがもともと大の心配性の母は「もし寒くなったら…、もし雨がふったら…、もし何かが起こったら…」と考えながら旅行に持っていく荷物をどんどん増やしていくのです。そのおかげで、私の荷物は同級生の荷物にくらべてかなり大きなものとなりました。もちろん、今も私では自分で旅行の荷物を準備するようになりましたが、不思議なことに私もあのときの母と同じように旅行の荷物を作ると自然と大きなものになってしまうのです。いつの間にか余分な衣類を詰め込み、読みきれない数の本も入れ、旅先でかかるさまざまな病気を予想してたくさんの薬を準備して、かばんに詰め込んでしまうのです。


②誰も失望することがない

 私たちの信仰生活にも私たちの予想もつかないことが起こります。私たちが最後に神様の前に立つまでには私たちの信仰生活にどんなトラブルが起こるか分かりませんし、そこでは私たちの思ってもいないことが起こるかもしれないのです。私たちは本当にこの信仰の旅路を最後まで歩み続けることができるのでしょうか。この疑問に答えるようにパウロは次のように語ります。

「聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります」(11節)。

 今語りましたように私たちの救いが私たちの持っている何らかの能力や、条件によって左右されたとしたら私たちの信仰生活は不確かで不安なものになってしまいます。しかし、私たちの救いはすべてキリストの満たしてくださった条件、つまりその恵みによって成り立っているのです。ですから私たちが自分の救いを確信できるのは、それが私たちの力ではなくキリストの恵みによっても成り立っているからです。そして、主イエス・キリストはこの恵みによって私たちを必ず、最後の完成のときまで導いてくださるのです。だからこそパウロはここで「主を信じるものは誰でも失望することはない」と語っているのです。今、私たちは自分の力や自分の持っている条件を見て気落ちする必要はありません。なぜなら、キリストは私たちのためにすべてのことを成し遂げ、その条件を満たしてくださったからです。私たちの信仰とはこのキリストの恵みをただ受け取り、それに信頼して生きることでしかないとパウロは今日の箇所で教えているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 私たちの始祖アダムの犯した罪によって、救いのために自分では何もすることができない私たちにために、救い主イエス・キリストを通して私たちが救われる方法を与えてくださったことを感謝いたします。私たちのために十字架にかかり、また復活された主の御業を通して、私たちが神様の前に義しい者とされるという恵みによる救いを与えてくださりありがとうございます。私たちは自分の実力を忘れ、思い違いをしては、救いの確信を失ってしまう愚かな者たちです。どうか私たちがキリストの恵みによってのみ救われていること、また最後の時までその主によって導かれていることを覚えて信仰生活を送ることができるようにしてください。そして私たちの信仰生活を喜びに変え、あなたへの感謝をささげることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2004.2.29「主の名を呼び求める」