2004.2.8「このように宣べ伝えている」
聖書箇所:コリントの信徒への手紙第一15章3~11節
3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
1.いたずらに信じるな
①トルストイの信仰
きっと皆さんも今までに一度はロシアの「文豪」と呼ばれるトルストイの作品を読んだことがおありと思います。確かに「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」と言ったトルストイの大作を読むのは私たちにとって少し骨が折れるかもしれません。しかしそれでも「民話集」と呼ばれるトルストイの記した短編の物語なら私たちにも簡単に読むことが可能かもしれません。特にトルストイの「民話集」に代表される晩年の作品にはたくさんの聖書の言葉や思想が登場してきます。これらの作品を記した頃のトルストイは聖書の思想に大変に影響され、その思想を啓蒙するためにこれらの作品を記したと言われています。「人はなんのために生きるのか…」、「人にとって幸せとは何か…」、そのような誰もが興味を抱くようなテーマを取り上げるこれらの作品は今でも私たちの人生にさまざまなヒントを与えます。
ただここで一つ問題になるのはトルストイがこれらの小説で伝えようとしたキリスト教信仰がどのようなものかと言うことです。実はトルストイの信仰は私たちが教会で信じ、告白している信仰とは大変異なっているところがあるのです。確かに晩年のトルストイは聖書の言葉を自分の人生のよりどころとして生き、それを自分の書いた小説を通して伝えようとしました。しかしそのトルストイの信仰はたいへんに「個性的なもの」だったと言えるのです。どちらかとう言うとトルストイは聖書の中でもイエス・キリストが語られた「山上の説教」と呼ばれる部分を重要視し、その言葉を人生で実践することが大切だと考えました。もちろん、イエスの語った山上の説教は私たちの信仰生活にとっても大切な意味をもつものです。しかし、それはあくまでもキリストの福音の一部分として読むことが大切であって、そこだけを取り上げて強調することを私たちはしません。しかし、トルストイはこのイエスの語る山上の説教こそが私たち人類に与えられた普遍的な遺産であると考え、聖書の他の部分の教えを重要視することはなく、返って軽視したのです。この点で、彼の信仰は非常に個性的なものになってしまったと言えるのです。実はトルストイの悲劇的な死もこの信仰と深く関わりがあったと考えられています。トルストイはこの自分の信念を貫くために、自分の持っていた農場の土地をそこで働く小作人たちに解放しようとしたのです。ところがそれによって彼と家族との間に軋轢が生じ、年老いたトルストイは一人で家出をし、その途中で倒れ、一人さびしく駅の構内で死を遂げているのです。
②コリント教会の自己流の信仰
今日、私たちが取り上げているコリントの信徒への手紙第一の15章2節でパウロは次のように語っています。
「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」。
この部分の言葉を私たちが以前読んでいた口語訳聖書で読むとこうなります。「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである」。ここで「いたずらに信じないで」とパウロは言っていますが、この言葉は聖書の言葉を自分勝手に解釈して信じる、自己流の信仰をしてはならないということを戒めているのです。つまり、私たちの信じるべき信仰とは何か「いたずらに」聖書を自己流に解釈する信仰ではなく、このパウロの時代から伝えられた正しい福音を受け入れることだと教えているのです。
前回にも私たちはこのコリントの信徒への手紙を学びながら、このコリントの教会に起こっていた混乱とその原因について考えました。この教会に起こっていた混乱の原因の一つはさまざまな文化や価値観が流れ込むこのコリントという町自身にありました。その町の影響がいつの間にかコリント教会の内側にも侵食し始め、教会の混乱の原因を生み出していたのです。しかし、問題は実はこの外側からの原因だけではありませんでした。コリントの人々がそのような外側から入ってくる価値観に簡単に影響されてしまったのには実はもっと大きな原因があったのです。その原因とは彼ら自身が持っていた自己流の信仰でした。その問題を取り上げているのが今日の15章の主題だと考えることができます。コリント教会の人々の信仰生活の上に起こった悲劇は彼らがもっていた自己流の信仰理解に原因があったのです。ですから、問題の本当の解決はそのコリント教会の人々の信仰理解を軌道修正させ、彼らが本来信じたところのキリストの福音に立ち戻らせることにありましたか。パウロはそのためにキリスト教信仰のもっとも大切な核心がどこにあるかをこの章で語り、その大切な教えを否定してしまったコリントの教会の人々がどんなに愚かで危険なことをしているかを教えているのです。
2.キリストの死と復活の重要性
この15章は「キリストの復活」について語られた箇所として大変に有名です。パウロはここで「キリストの復活」を否定して、自己流の信仰理解をする人々の誤りを取り上げ、それを正そうとしています。しかし、今日の朗読箇所である15章の最初の部分では私たちが信じるべき福音の核心はこの「キリストの復活」だけではなく、「キリストの死」の二つであることが述べられているのです。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです…」(3~5節)。
ここではキリストの死と復活が並列的に取り上げられ、どちらも聖書で預言された出来事であり、それが成就したことを教えています。その上で、確かにキリストが「葬られたこと」、また復活されたイエスが弟子たちの前に現れた事実を語ることで、この二つの出来事が歴史的な事実であったことをはっきりと教えています。
キリスト教信仰の大切な特徴は私たち人間の側が何をするかというところにあるのではありません。私たちの信仰にとって大切なのは神が私たちとこの世界のために何をされたかという事実です。神は私たちとこの世界のためにキリストを与えてくださり、彼を十字架上で死なせ、また三日目に彼を死人の中から甦らせてくださいました。そしてこの出来事こそが私たちの人生を変え、この世界を変える福音であることをパウロはここでも強調しているのです。
3.キリストの死がもたらす益
私たちはこの二つの神様がなしてくださった事実が、どのように私たちの信仰生活に大切なのか、今日はとくに私たちの教会が大切にしている「ハイデルベルク信仰問答」の助けを借りながら少し考えてみることにしたいのです。
第一にキリストの死は私たちの信仰生活と人生にどのような関係を持ち、影響を与えるものなのでしょうか。この問答書はこのことについて「それは私たちにとってどんな益となるか」と言う言葉で問うています。問43の答えでは「キリストの死」が私たちに与える益を大きく二つに分けて説明しています。それは第一に「私たちが古い罪の支配から解放されること」そして第二に「私たちの人生を神への感謝の生活へと変えること」に益がると教えているのです。
前に学んだようにコリントの教会の人々は神から与えられた賜物を本来の目的のために用いず、自分を誇るため、また人を蔑んだり、非難するためにもちいました。ですから、パウロはこれらの賜物の目的は本来、私たちが神に仕えるために与えられているものであることを指摘したのです。どうしてコリントの教会の人々は賜物という信仰生活の大切な部分で争い、混乱してしまったのでしょうか。その大きな原因は彼らが自己流の信仰理解をして、キリストの十字架の死によって罪の支配から解放されていることを忘れてしまったことに原因があったと言えるのです。彼らはキリストが自分のためにどんなにすばらしいことをしてくださったからをすっかり忘れてしまっていました。キリストが十字架で完全に自分たちの罪を贖ってくださった救いの出来事を忘れてしまったのです。そして、彼らの関心はむしろ自分に何ができるかに向いていってしまっていたのです。あたかもその自分の業が自分を救いに導くかのように誤解してしまったのです。
神がキリストを通して自分に何をしてくださったのか。それを忘れる人には「感謝」は生まれてきません。「感謝」とは私たちが自分の力で作り出せるものではありません。神様の恵みへの人間の自然の反応が「感謝」なのですから。ですから感謝と喜びのない、お互いが競争し合ったり、非難しあうコリントの教会の人々が癒されるためにまず彼らは「キリストが自分たちのために死んでくださった」という事実を受け入れ、その恵みから神への感謝を回復させる必要があったのです。
4.キリストの復活がもたらす益
①復活に躓く人間
パウロが語るもう一つの福音の核心は「キリストの復活」です。実は、この15章の大部分はこの「キリストの復活」を強調することで占められています。それは『「キリストの死」より「キリストの復活」の方がもっと大切である』と言っているのではありません。むしろ、私たち人間の側がこの「キリストの復活」のほうに躓きを覚える傾向があるために、そちらのほうがより重点的に語られているのです。すでに亡くなられましたがカトリックの作家遠藤周作氏はその作品の中で最後までこの「キリストの復活」を認めようとはしませんでした。それにもかかわらず遠藤氏はイエスの復活以後の弟子たちの変化を論じるときにそこで「何かが起こった=X」と言わざるを得なかったのです。しかし、パウロはこの15章ではっきりと「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(14節)と宣言しているのです。
②自分の存在が忘れられてしまう不安
ハイデルベルク信仰問答は問45で「キリストのよみがえり(復活)は私たちにどのような益をもたらすか」と質問しています。そしてその答えは大きく分けて三つに構成されています。第一に復活はキリストの死が与えてくださった祝福を私たちに与えること、第二は信仰者が新しい命にこの地上ですでに預かることができるようにさせること、第三はやがて信仰者がキリストと同じように復活することができる確かな保証を与えることで「益」となると教えているのです。
先日、祈祷会で読んでいるテキストの中で私たちの持つ「死への不安」とは「自分の存在が忘れられてしまうという不安」に繋がっていると教えられていました。私はこの話を読みながらアメリカの有名な小説をドラマ化して日本でもヒットした「大草原の小さな家」の中に登場した一つのストーリーを思い出しました。
ある日、マイケル・ランドンが演じるインガルス家の父親は仕事中に、突然の発作ではかなくこの世を去った友人の死に立ち会います。しかし、その友人の死からそんなに月日が経っていない後に、彼がその友人の家を訪ねるとそこにはもう彼の家族は誰も住んではいません。残されたのはその友人の小さな墓一つ。彼はこの出来事を通して、自分の存在があまりにもはかないものであることを痛感し、不安を覚えます。そして、「何か自分がこの世に生きていた証を残したい」と、今までの仕事を突然に投げ捨てて、家具職人になってしまうのです。それは彼が自分の作った家具に自分の生きた証を残せると考えたからです。しかし結果的に彼のこの試みは失敗します。そして主人公は自分の生きた証は自分の愛する家族たちであることに気づくところでこのお話が終わる、私の記憶ではそのようなお話です。
③特別なものを求める私たち
この物語の主人公でなくても私たちは自分が死んだらこの自分の存在はどうなってしまうのだろうか、誰からも忘れされてしまうのではないかと不安を覚えることがあるのではないでしょうか。人はこの不安を克服しようとし努力します。何か特別なことをして、何か特別なものを作って自分の存在をこの地上に残したいと考えるのです。しかし、実際にはそれが容易にはできることではありません。だからこそ、私たちはそのことでさらに苦しみ続けるのです。
コリントの教会の人々が先を争うように特別な「賜物」を求めたことにも、この問題は繋がってくるのではないでしょうか。「特別な賜物を持つ特別な存在、そうならなければ自分の存在は忘れられてしまう」。そんな不安が彼らを支配していたのかもしれません。しかしそのような不安に捕らわれて賜物を追い求めても、そこには本当の満足は与えられません。
キリストの復活は私たちの存在が決して無くなることがないことを私たちに教えています。そしてそれだけではありません。やがて私たちもまた、キリストが復活された姿と同じように復活することができるという事実をも私たちに教えているのです。ですから、もはや私たちは「自分の存在が忘れられてしまう」と言う不安に駆り立てられて「特別」なものを追い求める必要はなにのです。私たちは「特別」なものではなく、神様が与えてくださるそれぞれの賜物を通して神に仕えることで十分なのです。私たちにとって大切なのは自分が自分の力で「特別(ナンバーワン)」なものになることではありません。この自分の人生が今、キリストの復活によって今すでに「特別(オンリーワン)」なものに変えられていることを悟り、それを受け入れることにあるのです。そうすればキリストにある平和と喜びが私たちの信仰生活に豊かに回復されてくるのです。
このように「キリストの死と復活」この二つの神様が私たちのためになしてくださった事実こそが、私たちを変え、私たちの世界を変える私たちに伝えられた福音の核心です。そして私たちに信仰生活はこの二つの事実によって支えられていることを再び私たちはここで確認したいのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様。
私達のために御子イエス・キリストを遣わしてくださり、その死と復活を通して救いの恵みを明らかにしてくださった御業に感謝いたします。あなたが私達とこの世界のためにしてくださった恵みの事実を私たちが心から受け入れ、信じることができるようにしてください。
キリストの死によって罪から解放された私達が自分の人生をあなたへの感謝をささげて生きるものとなりますように導いてください。キリストの復活によって、新しい命の中に生かされている私たちがその命のすばらしさを知り、この人生を通してあなたの栄光を豊かに表していくことができるようにしてください。何よりもそのために私たちがいつも福音を正しく信じて、それを伝えていくことができるように助け導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。