2004.8.8「信仰によって待ち望む」
ヘブライ人への手紙11章1~2、8~12節
1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
9 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。
10 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
11 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。
12 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
1.信仰とは何か
①神の約束に基づく見えない事実
発明王として有名なエジソンは入学した小学校をわずか半年で退学しています。その原因は彼が教師に向けて発する突拍子もない質問内容にあったようです。エジソンは授業中に誰も考えのつかないようなことを言い出して教師を困らせてしまい、そのおかげで教師の彼に対する印象を悪くしてしまったのです。ところがエジソンの母親だけはこの息子の行動について次のように語り、理解を示していたと言うのです。
「ほかの人には不可能に見えて考えもつかないことを、私の息子は可能だと信じているのです」。
確かに誰もが実現不可能と考えることを「可能だと」信じたエジソンによってたくさんの発明が世に送り出されました。ところで今日のヘブライ人への手紙では「信仰」について次のような有名な説明が記されています。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)。
信仰についての定義をヘブライ人の手紙の著者はこのように語っているのです。まずこの言葉から私たちが信仰について分かることは、信仰の対象は「望んでいるもの」、つまりまだ実現していないものを相手にしていると言うことです。また、同じようにそれは「見えない事実」であるとも語られています。つまり私たちの信仰の対象はいまだに実現されてはいませんが、見えない確かな事実であると言うことができます。私たちもそれぞれいろいろなことを望んでいます。しかし、それらのもの大半は自分勝手な妄想であったり、事実とは大きくかけ離れたものでしかありません。ですからここでヘブライ人への手紙の著者が「見えない事実」と言っているのは、私たちの勝手な願望ではなく、神の約束に基づく事柄であることがわかります。神の約束こそはそれがいまだ実現されていなくても「見えない事実」ということができる唯一のものなのです。なぜなら、この約束をしてくださった方は真実な方ですから、この約束を必ず実現してくださるからです(11節)。
②信仰は神の約束を証明する賜物
ここでまず覚えておきたいのは「信仰」はいわゆる、私たちが考える人間の「信念」とは違うということです。「あの人は最後まで自分の意思を貫く信念を持っている」。そんな言葉を私たちは口にしたり、耳にすることがあります。この場合の「信念」はその人がもつ優れた才能のひとつと考えていいでしょう。だからもし信仰をこの「信念」と同じものと考えてしまうとそれはとても危ういものになってしまいます。なぜなら人間の持つ才能は変わりやすいからです。また、信仰はこの特別な才能を持っている人にだけしか持てないものとなってしまいます。しかし、聖書の言う「信仰」とは私たち人間が特別な才能ではなく、神様からの賜物、つまり神様が私たちのために贈ってくださった贈り物なのです。ですから私たちがどんなに信念の弱い者であっても、この信仰を神様からいただくなら「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することが」できるようになるのです。
この1節の言葉を岩波書店版の新約聖書は次のように翻訳しています。「信仰とは私たちが希求している事の基であり、見えないものの証明である」。私たちに与えられている信仰とは神の約束の土台であり、それが真実であることを証明するものと考えることができます。
昔一人の王が「聖書の言葉は本当に真実なのか、本当に神はいるのだろうか」と問うたとき、一人の知恵ある家臣が次のように答えたといいます。「この神を信じているユダヤ人たちの存在がそれを証明しています」。キリスト教会の歴史を通じても信仰を持って生きた数え切れない証人たちが存在しています。それは彼らの信念が強かったからではなく、神様が彼らに信仰を与え続けてくださったからです。つまり信仰者の存在こそが、神の存在を確かに証しする証拠だと言えるのです。
2.信仰の証人アブラハムとサラ
①信仰の素晴らしさを証しする人
さて、ヘブライ人への手紙の著者は歴史上に存在するこの無数の証人の中でも私たちが旧約聖書の中でよく知ることができる信仰者たちをあげて、神が与えてくださる信仰の素晴らしさを私たちに教えています。
「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(2節)。
「人間国宝」と呼ばれる人たちが私たちの国には存在しています。その人たちの持っている技術を見れば日本の文化の素晴らしさが分かるという意味で、彼らは「人間国宝」に選ばれているのです。ここでは「この人たちのたどってきた生き方を見れば、私たちに与えられている信仰がどんなにすばらしいか分かる」と言う意味で神様から認定された「信仰の証人」たちが列挙されています。アベル、エノク、ノア…。しかし、この章を読むと分かりますが、ヘブライ人への手紙の著者が最も重要な証人として考えているのはアブラハムであったようです。
ヘブライ人たちは自分たちの先祖はこのアブラハムであるというところで、何か自分たちが神様から特別に扱われるべき存在であるかのように思い込んでいました(マタイ3章9~10節)。しかし大切なのはこのアブラハムが私たちのために示している信仰にあるのです。そして、このアブラハムと同じ信仰を神様からいただいているものはすべて「アブラハムの子孫」と呼ばれるにふさわしい人だと言えるのです。
②寄留者アブラハム
「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました」(8~9節)。
アブラハムの信仰をここでは二つの事柄から説明しています。第一に彼は生まれ故郷を捨てて、神が与えてくださると約束された土地を目指して旅立ちました。しかも、彼はそのとき「行き先も知らずに出発した」というのです。放浪癖のある人は別ですが、誰でも行き先を決めないままで旅行に出発するようなことはしないでしょう。まず目的地を決めて、その場所についての情報を調べた上で、旅行のために必要なものを整えてから出発するのではないでしょうか。しかし、アブラハムはそうではありませんでした。彼は行き先がどんなところであるか知らないまま、慣れ親しんだ故郷を捨てて長い旅に出発したのです。誰が見ても無謀です。しかし、彼がそのような旅に出発することができたのは神の約束が彼に与えられており、その約束を真実だと証明する信仰を神様からいただいていたからなのです。
このアブラハムの出発を「無謀な旅」といいましたが、考えてみると私たちも自分の人生を旅と考えるなら、案外この「無謀な旅」を続けているのかもしれません。なぜなら、私たちも「行き先を知らずに」歩んでいる可能性があるからです。そう考えるととても不安になってきます。しかし、その不安を取り去ってくださるものこそ、神の約束であり、それを真実なものと証明してくれる信仰にあると言うことをこのアブラハムの生涯は私たちに教えていると言えるのです。
アブラハムの信仰を表す第二の点は彼が他国に宿るように約束の地に住んだこと、そこで幕屋、つまり天幕暮らしをしたことに表されていると語られます。天幕は移動用のテントと言ったらよいでしょうか、旅を続ける遊牧民が使う住居です。アブラハムは神様から与えられたカナンの地に到着してもそこに家を建てることなく、天幕暮らしを続けたというのです。つまりこのことはアブラハムにとってそこが旅の本当の目的地ではなく、単なる中継地点でしかなかったことを表しているのです。そしてヘブライ人の手紙の著者はアブラハムの旅の本当の目的地を次のように説明しています。
「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」(10節)。
素晴らしい都が神様によって準備されているということを知っていたアブラハムでしたから、いつもそこに行けるようにと旅支度を整えて生活していたのです。言葉を変えれば彼は地上のものからいつも自由にされていたと言うことができます。何が起こっても、もっと素晴らしいものが神様によって準備されていることを知っていたアブラハムはいつも希望を失うことなく生きることができたのです。
③不妊の女サラ
地上の事柄だけに希望の根拠を置くものはいつか必ずその希望を失い、絶望しなければなりません。そのことは次に登場するアブラハムの妻サラの人生を通しても分かります。
「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました」(11節)。
創世記の中でアブラハムは妻サラを通して自分に「男の子が与えられる」と神様から約束されたとき次のような応答をしたことが記されています。「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」」(17章17節)。
現代日本では結婚の晩婚化が進んでいますから「高齢者出産」という言葉はあまり使わなくなっているそうです。しかし90歳は明らかに「超高齢者出産」になるのではないでしょうか。それどころかこの後でこの手紙はこのサラについて「死んだも同様の一人の人から」と表現していますから、サラの出産が人間的に見ればほとんど不可能に近い出来事であったことがわかります。このように肉体的な衰えによって奪われてしまった可能性を乗り越えて、サラは息子イサクを出産します。このことについてヘブライ人への手紙の著者は次ぎように説明しています。
「約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです」(11節)。
この世が提供する情報や可能性よりももっと確かなものを彼女は知らされていました。神の約束が必ず実現することを彼女は信仰によって教えられていたのです。そしてやがて彼女はその約束の通り、奇跡といえる出来事を経験することができたのです。
ブルームハルトという昔、ドイツで活躍した有名な牧師は「年老いて行けば行くほど、自分の中にある希望は大きくなって行く」と語ったといいます。人間は年を取るといろいろなことができなくなり寂しさを感じることがあるようです。しかしブルームハルトはそれに反比例するように自分の中で神様の約束に対する希望が強くなっていくことを感じたというのです。地上のものや、自分自身の持つ力に希望を置くなら、それはどんどん小さくなっていって、最後には消滅してしまいます。しかし、神様の約束に基づく希望はそうではありません。その希望を私たちのうちで日に日に大きくなっていくと言うのです。
3.キリストの贖いの証人
先日、テレビを見ていましたら黄熱病の研究で有名な野口英世博士が自分の自伝を読んで「これは作り話だ」と言ったという出来事が紹介されていました。人生には浮き沈みがつきものなのに、それをすべて取り去って美談ばかりで飾られている自分についての伝記を読んで、彼は気に入らなかったらしいのです。このヘブライ人へ手紙はもちろん伝記ではありませんが、このアブラハムとサラの記述について創世記の箇所と読み比べてみるといろいろな違いに気づきます。創世記を読むとアブラハムとサラの人生にも浮き沈みがあったことが分かります。特にイサク誕生のくだりを読むとアブラハムもサラも神様の約束を簡単には信じることができずにいたことがわかります。特にサラは神様の約束を聞いて「自分が馬鹿にされている」とさえ思ったのか、呆れて笑い出しています(18章12節)。ところが、ヘブライ人の手紙の著者は彼らの人間的な弱さや失敗をここですべて取り扱わず、切り捨てているのです。
このことについてある神学者はこのように説明しています。「彼らの弱さや失敗はすべてキリストの贖いのみ業によって帳消しにされているから、それがここには記されていない」。となるとここに記されている彼らの生涯はキリストのみ業を通して再評価されたものであるということになるわけです。そう考えると同じようにキリストの贖いのみ業にあずかっている私たちもやがて自分の人生をこのように神様に再評価していただける希望があることがわかります。つまりアブラハムとサラも、そして私たちもキリストの贖いの素晴らしさを自分の人生を通して証言する証人と言えるのです。
この後、私たちは今日も聖餐式の恵みにあずかります。この聖餐式はキリストの贖いが私たちのものであることを示すものです。つまり、この聖餐式にあずかるものの人生はたとえどんなに弱さや失敗に満ちていても、神様の前にやがてこのアブラハムやサラの人生のように再評価していただける希望が与えられているのです。そして神様はこの約束が真実であることを私たちに信仰を与え、またこの聖餐式に参加させることで今日も証明してくださっているのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神さま
私たちにあなたを信じる信仰を与えてくださり、あなたの約束のすべてが真実であることを教えてくださるあなたのみ業に心から感謝をささげます。かつて私たちは地上の事柄に目を注ぎ、そこに希望を置き、また絶望するような者たちでしたが、今、私たちにも天の都を目指す信仰を与えてくださりありがとうございます。 あなたは私たちの弱さや失敗のすべてを用いて、私たちをもキリストの贖いの証人として召してくださいっています。どうか私たちがいつもあなたに希望を置いて、地上の生涯を送っていくことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。