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2005.10.2「収穫のときが近づいたとき」

聖書箇所:マタイによる福音書21章33~43節

33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。

35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。

36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。

37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。

38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』

39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。

40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」

41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」

42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』

43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。


1.権威についての論争の続き

①連続したお話の一部

 今日もイエスの語られたたとえ話から学びます。今日の箇所は先週、私たちが学びましたイエスの語られた二人の兄弟のたとえ話の次に登場するお話です。そのような理由からイエスはここで「もう一つのたとえを聞きなさい」(33節)と言う言葉でこのお話を初めています。つまり、このお話も神殿でイエスが祭司長や長老たちに話された連続したお話の一部であると考えてよいのです。

 神殿で商売をする商人たちを追い出し、そこで誰の断りもなく人々に説教をし始めたイエスの姿を見て、祭司長や長老たちは「誰に許可を貰っているのか。何の権威であなたはこのようなことをしているのか」と詰め寄ります。祭司長や長老たちは「この神殿は自分たちのものであり、自分たちの許可がなければここでは誰も何もすることができない。自分たちはそのような権威を持っている」と考えていたのです。ですからこの権威についての論争のためにこのたとえ話は語られていると考えてよいのです。


②誰のことを語っているのかわからない

 たとえ話の内容は次のようなものです。ぶどう園の主人が旅に出ることになり、その管理を農夫たちに委ねました。やがて収穫が近づいたので、この主人は自分の僕をぶどう園に送り収穫物を受け取ろうとします。ところが農夫たちは収穫物を渡すどころか、主人のもとから遣われて来た僕を殺害してしまうのです。それも一人だけではありません。後から後から主人が送ってくる僕を彼らは次々に殺害していきます。そこで主人は最後に自分の息子をこのぶどう園に遣わす決心をします。「自分の息子なら、彼らは敬ってくれるだろ」と思ったからです。しかし、農夫たちは主人の息子を敬うどころか、「一人息子を殺してしまえば、この農園は自分たちのものになる」と考え、彼をも殺してしまったと言うのです。

 イエスはここまでたとえを話した後、祭司長たちや長老たちにこの話の結末がどうなるかを尋ねています。彼らは当然「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と答えます(41節)。彼らはこの時点でこのたとえ話が誰のことを語っているのか分からなかったようです。やっと45節になって「祭司長やファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられることに気づき」と記されているからです。このたとえ話のあらすじはこのように簡単に語ることができます。しかし、それではこのたとえ話は私たちに何を教えようとしているのでしょうか。


2.すべてのものは誰のもの

①祭司長や長老たちの本当の使命

 私たちが学んでいるイエスのたとえ話はこのところ「ぶどう園」がその舞台になるものばかりです。季節も秋でおいしそうなぶどうが店頭に並んでいますが、イスラエルの民にとってぶどうは季節に関係なく、特別な意味を象徴するものとして考えられていました。それは今日の旧約聖書の朗読箇所であるイザヤ書にも登場していますように、神様とイスラエルの民の関係をぶどう木を植え、それを育てる農夫とそのぶどうの木に実ったぶどうにたとえることができるからです。

 今日のお話でもぶどう園の農夫が登場しますが、彼らはこのぶどう園を作り、そのぶどうを愛情を込めて育てた本当の農夫ではありません。むしろ最初の部分で紹介されるようにこのぶどう園の主人こそがぶどう園を十分に手入れした本当の農夫であり、ここに登場する農夫たちはそのぶどう園をこの主人から一時的に預けられた管理人にすぎなかったのです。つまり、イスラエルの民の本当の所有者は神ご自身であり、祭司長や長老たちはこの民を一時的に神様から預けられた管理人でしかなかったということをこのたとえ話は私たちに教えるのです。ですから、祭司長や長老たちの使命は自分たちの権威を主張することではなく、このイスラエルの民を本当の持ち主である神様に導き、最終的にはその神様にすべてを返すことだったと言えるのです。


②自分のもの、神のもの

 それでは何度もこの主人のもとから遣わされた僕たち、悪い農夫たちに迫害され、殺されてしまった人たちは誰を表しているのでしょうか。それは旧約聖書に登場するたくさんの預言者たちを示しています。預言者たちは神様からのメッセージをあずかり、神様から離れようとする人々に「神様に立ち返るように」と熱心に語り続けました。しかし、イスラエルの民はこの預言者たちの言葉に耳を傾けることがありませんでした。本当なら、その管理を神様から委ねている祭司長や長老という指導者こそが真っ先にこの預言者のメッセージに耳を傾けるべきだったのに、彼らはむしろこの預言者たちを迫害して、彼らの伝える神様からのメッセージを抹殺してしまったのです。

 なぜそんなことが起こったのでしょうか。このたとえ話によれば悪い農夫たちはぶどう園が自分のものでないことに不満を抱き、そのぶどう園を自分のものにしようとうしたと語られています。祭司長や長老たちがイエスの前で主張した権威はまさにこのことを言っています。彼らはイエスが伝える神のメッセージに耳を傾けることができません。彼らは「この神殿は自分たちのものだ。この民は自分たちのものだ」と言う主張を繰り返したのです。

 ある説教家はこの部分のお話を「世界は神のもの」と言う題で説教しています。つまり、神様のものを自分のものにしようとして悪巧みを企て、それを実行したのはこのお話を聞いている祭司長や長老たちだけではなく、私たちすべての人間であると彼は言っているのです。私たちは神様から与えられている世界を自分のものにしようとして日々労苦し、そのあげくはこのお話に登場する農夫たちのように自分を破滅させているのだと言うのです。

 私たちの教会の大切な信仰告白の一つであるハイデルベルク信仰問答書の第一問には「私たちのただ一つの慰めは何か」と言う問いが登場します。そしてその答えはこの人間の企てを全く逆行することが記されています。「私は私自身のものではなく、イエス・キリストのものだ」と信仰問答は答え、私たちの慰めの根拠がそこにあると言っているのです。人を悲惨な状態にしている罪の本質をこのたとえ話は私たち人間が神のものを自分のものにしようとするところにあると教えているのです。そして、その罪から救われて、私たちが真の平安を得る秘訣はこの世界をそしてこの人生を真の持ち主である神に返し、その方に委ねることにあると語るのです。


3.ぶどう園はだれに委ねられたか

 先日のたとえ話では神の招きに対して「自分の準備は完璧にできている」と誇った祭司長や律法学者たちが洗礼者ヨハネ通して与えられた神の招きに答えることができず。かえって、何の準備もすることができないと思っていた「徴税人や娼婦たち」がその招きにいち早く答えることができたことを学びました。このたとえ話でも、ぶどう園を自分のものにしようとした農夫たちは結局、すべてを取り去られ、ぶどう園はほかの人々に委ねられることになります。前の話の続きから考えるなら、ここでも徴税人や娼婦たちが先に神の国に入ることができる理由は語られていると考えることもできます。彼らが選ばれるのは、彼らがすぐれた何かを持っていたからではなく、むしろ自分の力でどうすることもできない現実の中で、その人生を神様に委ねるしかなかったからです。だからこそ、彼らは神の国の祝福にあずかることができたと言うのです。

 ただ、今日のお話はそのような現実を説明するだけではなく、将来、神がなさろうとすることについても預言されていると考えることができます。イエスはこのたとえ話について次のように解き明かしをしています。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。福音書の中でイエスの活動はイスラエル地域に、そしてその対象はユダヤ人にだけ限定されているかのよう見えます。しかし、不思議な神様の計画は、むしろ全世界の民に向けられていることこの言葉で分かるのです。だとすると神様はユダヤ人たちに替わって招きを受けた私たちに対してもぶどう園の収穫の受け取ることを求めておられるとも考えることができるのです。


4.隅の親石

①神を拒み、御子を殺す人の罪

 今日の箇所でもっともわかりにくいところはこのぶどう園の主人が自分のぶどう園の収穫を得るためにとった態度です。もちろん、主人から遣わされる僕たちを次々と殺して、最後にはその主人の息子まで殺せば、「ぶどう園は自分たちのものになる」と思い違いをしている農夫たちの態度も常識では考えられません。なぜなら彼らの罪を主人が見逃すはずがないからです。しかし、それ以上に不可解なのは主人が自分の僕たちが悪い農夫たちに次々と殺されてしまったことを知りながら、続けて僕を送り続け、自分の息子を最後に遣わす決心をして「息子なら彼らも敬うに違いない」と考えるところです。これも常識なら、主人は最初に遣わした僕が殺されてしまったところで、その原因となった悪い農夫たちを懲らしめるはずではないでしょうか。そうでなくても、自分の息子を遣わしたからと言って農夫がその態度を変えると信じることは主人の態度は決して知恵深いものと考えることはできません。しかし、ここに記されているお話は、実際に神様が私たちに人間に対してなされたことなのです。

 神に背き続ける私たち人間を神は滅ぼすことではなく、何とかして救いだそうと考えられたのです。だから、数々の預言者を神はこの地上に遣わされたのです。そして最後には御子イエス・キリストを私たちのために送ってくださったのです。しかし、イスラエルの人々はこの神の御子イエスをさえ受け入れることを拒み、彼を十字架にかけて殺してしまったのです。イエスの死は神を拒み続ける人間の罪の姿をもっともはっきりと表す出来事だったと言えます。


②神の驚くべき計画

 しかし、神の計画はこの人間の罪によってじゃまされることはなく、むしろその中で成就したとこのたとえ話は私たちに教えています。ここで詩編118編22~23節をマタイは引用してこう語ります。

『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える』(42節)。

 家を建てる大工たちが設計図を作ってそれに従って家を建て始めました。しかし、材料の中にどう考えても使い物にはならない石があります。そこで「こんな石は必要ない」といって彼らはその石を捨ててしまったのです。しかし、神の計画の中ではこの石こそが隅の親石、つまり家を支えるためのもっとも大切な要の石となったと言うのです。本来この詩編はイスラエルの民に向けて語られているものと読まれて来ました。周囲の国々にくらべて小さな民にすぎないイスラエル、世界史の中ですぐに消え去ってしまうような小さなこの民を神は大切に取り扱われているという意味で彼らはこの詩編の言葉を愛してきたのです。しかし、この詩編の意味は御子イエス・キリストの十字架の出来事を通してさらに明らかにされたのです。神がイスラエルの民を特別に選び、大切にされたのは、この民を通して隅の頭石である神の御子イエスが遣わされるためだったのです。そして、この詩編の言葉の通りにイエスは今、私たちの救いを成就させる隅の頭石となるためにやってこられたと説明しているのです。

 ですから私たちは今日のたとえ話を通してもう一度、自分の持っている人生の計画を点検する必要があります。私たちはこの世界を、また自分自身の人生を誰のものにしようと日々努力しているのでしょうか。自分のためでしょうか。それとも神のためでしょうか。その計画が自分のためのものでしかないなら、私たちは自らを滅ぼす結果となります。しかし神のために生きようする計画なら、その計画は私たちを神の国の祝福へと導いてくれるのです。

 また、私たちは今、私たちのためにすべてのものを準備して、すべてを与えてくださった神様にふさわしい応答をすることが求められています。私たちはどのように神に応答すべきでしょうか。それは隅の頭石であるイエス・キリストを私たち一人一人が受け入れることを通して実現します。私たちの人生をこの救い主であるイエス・キリストに委ねて、イエス・キリストのものとしていただくとき、私たちの人生は神の計画の中でなくてはならない隅の頭石の一部となることができるとこのたとえ話は私たちに教えているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 私たちのために世界とそのすべてのものを委ねてくださったあなたに感謝いたします。かつて私たちは自分の愚かさの故に、それを自分のものにしようと企て、悲惨な結末を待つばかりの者たちでした。しかし、今、あなたはイエス・キリストを通して私たちにその愚かさを知らせてくださいました。その上で、隅の頭石イエスの救いによって私たちをあなたのものとしてくださったことを感謝いたします。どうか、私たちがこの主に自分の人生を委ねることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2005.10.2「収穫のときが近づいたとき」