2005.10.23「律法全体と預言者は」
聖書箇所:マタイによる福音書22章34~40節
34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
38 これが最も重要な第一の掟である。
39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
1.イエスを陥れようとするファリサイ派
①人間の作った偽りの宗教
私が以前住んでいた青森県には岩木山という山があります。弘前城の公園から見える岩木山の姿はたいへんに美しく、ちょうど富士山を思い出させるような姿をしています。そのせいでしょうか地元の人はこの岩木山を「津軽富士」と言って愛しているのです。日本のシンボルのような富士山が地元にあったらという願いがあるのでしょうか、日本の各地に「何々富士」と呼ばれる山が存在します。それだけではなく、中には自分の庭に富士山の形に擬えた小高い山を作ってしまう人もいるほどです。しかし、それがどんなに富士山に似ていても所詮それは偽物でしかなく、本当の富士山ではありません。
人の作る宗教についてもこれと同じことが言えると思います。神様の言葉を借りてきて、どんなに精巧に作っても、それは所詮人間の作った偽物の宗教でしかなく、本当の神に礼拝を献げることも、使えることもできません。聖書に登場する「律法主義」と呼ばれる宗教はこの人間が作り出した宗教の中で最も本物に似せて精巧に作られたものであったと考えることができます。しかし、いくらその宗教が聖書の言葉を使い、本物のような姿をしてもそれもまた所詮人間の作り出した偽りの宗教にすぎないのです。主イエスはこの「律法主義」が真の宗教ではなく、偽りの宗教であることを暴きたてるような発言と行動を何度も行われました。ですからこの当時この「律法主義」に安住していた人たち、あるいはそれを頼りとしていた人たちはイエスと激しく対立せざるを得なかったのです。
②共同戦線
「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった」(34節)。
今日の部分ではファリサイ派と呼ばれる人々が登場します。当時のユダヤの宗教を支配する二台勢力がこのファリサイ派とサドカイ派と呼ばれているグループでした。この間まで学びましたサドカイ派は神殿に使える祭司たちを中心にしていた人々で、それを指示する人々も貴族や特権階級に限られていたと言います。ですから、彼らとイエスとの間で起こった論争はこのエルサレムの神殿の特権にまつわるものだったのです。一方、今日のお話に登場するファリサイ派はこのサドカイ派に比べて、むしろ「町の宗教家」と言う印象が強く、一般の人々の生活を細かに指導し、面倒を見ていた人たちだと考えることができます。その意味でサドカイ派よりも強い影響力を民衆に持っていたグループでした。彼らは律法を解釈して、日常の生活にどのように適応するかを民衆に熱心に教えました。律法と言ってもそれは聖書に記されている掟以外に、彼らが「口伝律法」と呼ぶ事細かに細分化された律法が含まれています。そのような意味で「律法主義」はこのファイリサイ派のグループによってより深められて行ったと言えるのです。しかし、彼らの律法主義がどんなに聖書の教えに近いように見えても、それはやはり人間の作った宗教にすぎませんから、人はそれによって救いを受けることができません。そしてイエスの攻撃はこのファリサイ派の人々にも向けられていたのです。そのような理由から、普段は敵対し合っている両派でしたが、イエスに対して共同戦線を組んでここで陰謀をたくらんでいます。
2.律法主義の正体
①ファリサイ派も納得する答え
「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」」(35~36節)。
おそらくファリサイ派に属する一人の律法の専門家がここでイエスを試すために質問をします。「律法の中でどの掟が重要か」。彼らの意図はイエスがこの質問に答えて、律法の内の何か一つが大切と言い出したなら、「神の掟はすべて大切であってどれも欠かすことはできない。あなたはその重要性を理解していない」と非難する狙いがありました。
この質問にイエスは次のように答えます。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(37~39節)。
実はこの同じ問答をマルコによる福音書は全く別の状況から記しています(マルコ12章28~34節)。ここではイエスの語られる聖書についての解釈に感動した律法学者がイエスに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねています。ここでは聖書の言葉を巡るまじめな問答としてこの問題が取り上げられているのです。そしてイエスはここでも同じ答えをされています。するとこの質問をした律法学者がすぐに次のように答えたと言うのです。
「律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(32~33節)。
この問答からイエスが答えた律法についての解釈は当時の律法学者たちもよく理解できたものであり、決して意外な答えではなかったと言うことが分かるのです。ですからおそらくこのイエスの答えを聞いたファリサイ派の人々は「それなら律法を事細かに守っている私たちこそ、それを一番よく実行している者たちだ」と胸を張ることができたと思うのです。しかし、このときのイエスの答えはこれらの律法主義者の行動を肯定するためではなく、その正体を暴き、彼らの教えが偽りであることを明らかにする目的があったのです。
②その行動の動機は何か
アメリカで発達した心理療法の一つに行動療法と言う技術があります。これはどちらかと言うと人間を他の動物と変りがないものと考える傾向がある技法です。人間の取る思わしくない行動を改善するためにどのようにすべきかについてこの療法はいくつかの方法を提案します。その一つはアワードつまり、賞品を使って人間の行動を変え、より好ましい行動を行えるように訓練する方法です。たとえば勉強をせずに遊んでばかりいる子供に勉強をさせる習慣をつけさせるために、「勉強をしたら、おまえのほしがっているこれこれをあげようとか。勉強が終わったらおまえが遊びたいだけ遊んでいい」と親は子供と約束をするのです。すると元々勉強に興味を持たなかった子供も親がくれる賞品や、あるいは遊ぶことを目当てに勉強に取り組むことになるのです。別の言葉で言えば「動機づけ」と言いますが、人はその関心がもてる動機を見いだせばそれをすることができるのです。つまり勉強に興味を持つことができない子供はその動機を見つけ出せないからだと言えるのです。行動療法はこの動機づけを賞品などを使って行い、それによって行動に変容を起こさせ、その行動を強化し、習慣化させようとします。
しかし、この方法は用い方を間違うと返って大きな問題を生むのです。もし、子供が勉強自身について正しい動機付けができないままなら、その子供はいつまでも賞品だけを目あてに勉強を続けることになり、逆のことを言えばその賞品がもらえなければ勉強はしなくても良いと言うことになってしまうからです。
実は律法主義の落とし穴はこの動機付けと言う点にあるのです。「神を愛すること、隣人を愛すること」それを彼らは律法に従って熱心に守っていました。しかし、その動機は律法を守る自分が神から正しいと認めてもらうこと、そのような賞品を得るために行われているのです。つまり、律法主義は自分を評価してほしいと言う動機付けのもとに、自分のために神様を愛し、自分のために隣人を愛しているのです。つまりその行動は結局は自分を愛することが最大の目的となってしまうのです。
しかし、イエスの語られた律法の要約には「自分のために」という目的はつけられていません。「神を愛すること」、「隣人を愛すること」。律法は愛すること自身を私たちに与えられた目的と教え、その目的に従って生きよと教えているのです。ですから律法主義者は同じ言葉を使いながら全くこれとは違った教えを人々に語っていたのです。
3.破産した罪人
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」。イエスが語られたこの教えを私たちはすばらしい教えだ、これに従って生きたいと思っているかもしれません。しかし、そう考える私たちは律法主義者と同じような誤りを犯していないと誰が言えるでしょうか。私たちはいつも自分の愛に相手がどのように答えるか、自分の愛を相手がどのように評価してくれるかを考えます。だから「私がこんなに愛したのに」と言う不満が私たちの内側に沸々と沸いてくるのです。これでは私たちも律法主義者と同じように「自分のために誰かを愛している」ことになり、イエスの教えとは全く違った歩みをしていることになってしまいます。
改革派教会が大切にするハイデルベルク信仰問答では問4でこのイエスの教えられた律法の二つの要約を示した上で、問5で次のような問答を記しています。
「問5 あなたはこれらのすべてを完全に行うことができますか。答 できません。なぜなら、わたしは神と隣人とを憎む方へと生まれながら傾いているからです」(吉田訳)。
欠陥住宅の床にビー玉を置くとごろごろと一カ所を向かって転がり始めます。床が傾いているからです。私たちの心も傾いているのでいつも一カ所に転がって行くというのです。神と隣人を憎むという心の場所に向かってです。カール・バルトと言う神学者はこの問5を引用して私たち人間を「破産した罪人」と呼んでいます。借金取りが私たちの家のドアをたたき続けても、私たちはそれを払うことができません。部屋の中で電気も消して、声も出せずに息を潜めて、その借金取りの取り立てに怯えているのが私たちです。神様が愛を要求しても、私たちはその愛を支払うことができないばかりか、心の中からわき出る憎しみによってその借金の額を増やし続けているのです。ここで語られたイエスの言葉は私たちのこの悲惨な姿を表すものだと言えるのです。
4.私たちのために遣わされたキリスト
①「預言者」を忘れるな
ここで一つ見逃してはならないことは律法学者がこの質問で「律法の中で」と尋ねているのに対してイエスは「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と答えているところです。私たちが旧約聖書と読んでいる書物をユダヤ人たちは「律法と預言者」と呼んでいました。ですからイエスの答えは「旧約聖書全体は、この二つの掟に基づく」と言ったと考えることができます。しかし、どうしてイエスはわざわざここで「律法」に「預言者」と付け加えたのでしょうか。
旧約聖書の中の「預言者」と呼ばれる書物はイスラエルの民に神が律法を与えられた後の歴史を記す書物と考えることができます。つまり、「預言者」の書は破産した罪人であるイスラエルの民の姿を示していると言えるのです。そしてその一方、神はこの破産した罪人を見捨てることなく、歴史に介入し、彼らを導こうとされたことがこれらの書物に記されているのです。このイスラエルの民と神との関係の歴史を切り離して、律法だけを取り上げるなら、神はあたかも実験室のガラス窓のこちら側で、実験室にいる動物が「律法」と言う試薬を施されてどのような反応を見せるかを観察する実験者のようになってしまいます。
一方、「律法」にこの「預言者」を付け足して神を見るならどうなるでしょうか。学校の授業参観で両親はふつう黙って子供たちの勉強の様子を見守っています。しかし、ときどき出来の悪い子供に我慢ができないのか、「そこはそうじゃないでしょう」と言って子供の勉強に介入する親の姿がテレビドラマなどでは登場します。現実にそう言う親がいるのかどうかわかりません。またいたとしても、それはこの場合にはあまり好ましい行動ではないかもしれません。しかし、真の神は私たちの姿をじっと眺めておられる方ではなく、私たちの歴史に介入される方なのです。その神の姿が「預言者」の書には豊かに示されています。そしてこの預言者の書が最終的に示そうとするのはイエス・キリストを私たちのために遣わして、私たちの歴史に介入しようとする預言なのです。
②救われた者の可能性を示す言葉
イエスはこの私たちのために救い主としてやってきてくださって私たちの払うべき借金を払ってくださったのです。ですから、このイエスを救い主と信じる者はもはや借金取りの厳しい取り立てに苦しめられることがありません。イエスが十字架によってそのすべてを私たちに代わって払ってくださったからです。このことは言葉を変えて言えば、私たちはもはや自分に対する神の評価を気にする必要がなくなったと言うことができます。私たちは既にこのイエス・キリストによって神の前で正しい者と評価していただけるからです。ですから私たちはこのイエスによってもはや自分のために律法を守る必要がない者とされているのです。そこで初めてイエスのこの律法の要約は私たちに新たな意味を持って来るのです。なぜならイエスへの信仰によって「破産した罪人」の状態から救われた私たちは「自分のために」ではなく、今、聖霊の力によって真に神を愛し、隣人を愛する可能性を与えられているからです。
このようにイエスの語られた戒めの要約は私たちの破産状態を示すことと同時に、救われた私たちに神が与えてくださる新しい命の可能性を示すものと考えることができるのです。
…………… 祈り ……………
天の父なる神様。
憎しみへと生まれながらに傾いている私たちのために救い主イエス・キリストを送ってくださったことに感謝いたします。私たちの払いきれない負債を主は十字架の死を通して支払ってくださいました。そして、私たちは今、この罪の結果から自由にされ、神様の前で義しい者とされた幸いを感謝いたします。この地上に留まる限りなお憎しみから解放されない私たちです。しかし、あなたは信じる私たちに聖霊を送って、新しい生き方を実現してくださいます。自分を見つめるのではなく、あなたを見つめて希望と感謝を持って私たちを新しい生活へと送り出してください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。