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2005.10.9「善人も悪人も皆」

聖書箇所:マタイによる福音書22章1~14節

1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。

2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。

3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。

4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』

5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、

6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。

7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。

8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。

9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』

10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。

12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、

13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。


1.王の招きに答えない人々

①王の開く王子のための婚宴

 今日もイエスの語られたたとえ話から学びましょう。神様の約束に従ってこの地上に来られた救い主イエス・キリストを当時のユダヤ教指導者たちは受け入れることができないどころか、拒否し、彼を十字架にかけてしまいます。そのような悲劇がこれからエルサレムの町で起ころうとしていました。そして主イエスご自身はこのことをはっきりと覚悟されたでこのエルサレムにやって来られたのです。

 イエスは神を礼拝するために多くの人々が集まっているエルサレムの神殿で今、ここで何が起こっているのか、またこれから何が起ころうとするのかをたとえ話を通して語られたのです。それが「ぶどう園への招きを受けた二人の兄弟の話」であり、そして「ぶどう園を乗っ取ろうとして主人の息子を殺害した悪い農夫たちの話」の内容でした。そして、これから私たちが学ぶお話はその二つのお話と共にイエスが語られた三部作の最後のお話となります。ここにも救い主イエスを拒む当時のユダヤの人々の姿と、それとは反対に彼を受け入れて救いを得ることができた人々についての説明がたとえ話という形で説明されています。

 今日のたとえの話の舞台は王様がその王子の婚礼のために開いた祝宴です。当時のユダヤ人の結婚式は王様の家でなくても、大変豪勢なものであったようです。親戚や村中からたくさんの人々が招待されて、何日間も、ところによっては一週間近くも祝宴が行われる場合もあったと言われています。ヨハネによる福音書ではガリラヤのカナで行われたある結婚式で準備したぶどう酒がなくなってしまったというお話を伝えています。これも当時の婚礼の祝宴がたいへんなものであったことを私たちに伝えるエピソードの一つとなっています。

 また聖書において、盛大な婚宴は神様の国を表す象徴として用いられます。ですからこのイエスのたとえ話も、ここに登場する王様は神様であり、この婚宴は神様の国、神の救いの出来事を表していると考えてよいでしょう。このたとえ話ではまず、この神の国、または神の救いへの招きに答えるどころか、拒否をする人々が描かれています。


②婚宴への出席を拒否する人々

 王は王子の婚宴が始まろうとしたとき「王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった」(3節)と語られています。ここでは予めこの「祝宴に招かれていた人たち」、つまり事前にこの祝宴への招待状を受けていた人たちが登場しています。これは旧約聖書によって神様の救いの出来事を予め知らされていたユダヤの人々を表しています。旧約聖書を知らない異邦人とは違って、彼らは旧約聖書を通して神様が自分たちのために救い主を与えてくださることを知らされていました。ですからこの約束の通りに神様が救い主イエス・キリストを遣わされたときに彼らは真っ先にその出来事を悟り、イエス・キリストを受け入れることができたはずなのです。しかし、事実はそうでなかったのです。彼らは王の招きに答えてこの祝宴に「来ようとしなかった」のです。

 王様はそこで祝宴に予め招待されていた人々にもう一度使いを送ります。「そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」』(4節)。「祝宴の用意はすべて整えられた。後はあなた達がこの祝宴の席に参加するのを待つだけだから早くいらっしゃい」。そう使いを通して招待客たちに告げたのです。しかし、人々はこの招きにも答えるようとしません。次ぎように語られています。「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」(5~6節)。彼らは王の招待を無視するだけではなく、その招待を知らせにやってきた王様の家来を捕まえ乱暴して、殺してしまったと言うのです。これは前回のぶどう園の農夫たちの行動と同じような行動です。つまり、ここには神様のメッセージを携えてやってきた預言者たちを無視し、迫害し、またその存在を抹殺しようとしたユダヤの人々の姿が記されているのです。しかし、このお話ではぶどう園を自分たちのものにしようとした農夫たちとは異なり、招待客たちがどうしてこの祝宴に行こうとしなかったのか、その招きを無視したのかと言う理由が次のように説明されています。

 「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ…」と言うようにです。つまり彼らの関心は王の祝宴ではなく、全く別のところにあったと言うことが分かります。「畑」や「商売」に出かけて行く人々はどうして王の祝宴に行くことを選ばず、それを選んだのでしょうか。一言で言って、それは王の祝宴の意味を知らなかったからです。王の祝宴に出席することがどんなに自分の人生にとって価値があり、大切なものであるかを彼らは理解できません。だからこの招きを無視して畑に行ったり、商売をすることのほうが重要だと彼らは考え、行動したのです。


③招きの大切さを知らない

 教会では毎年何回から特別伝道集会のためにたくさんのチラシを新聞に折り込みます。一回1万五千枚ほどの枚数を新聞に入れてこの東川口の町に配布します。そのほか皆さんのご奉仕によってたくさんの手まきのチラシが配布されていますし、住所の分かる方には招待のはがきを作って送っています。またインターネットのホームページでもその案内が掲載されています。しかし、これらの集会への招きに答えて教会にやってこられる人はわずかでしかありません。もちろん、私たちは今までの宣伝方法についてはいろいろ反省したり、方法を変えたりすることもしなければなりません。しかし、問題はこちらの宣伝の仕方だけにあるのとは言えないと思います。

 多くの人々は教会の集会で語られる福音が自分たちの人生にとってどんなに価値があり、大切であるかを知らないのです。私たちに永遠の命を与え、神の国を約束してくださるイエス・キリストの祝福のすばらしさを知らないからこそ、チラシを受け取っても実際に教会に行ってもみようと言う気持ちが起こらないのです。だからそれよりも他のものの方が自分の生活に重要だと感じて、違うものを選ぶのです。だから祝宴に招待されて、そこに行かなかった人々はユダヤの人々だけではなく、ふつうの人間の反応を示しているとも言えるのです。彼らもまた「畑のほうが、商売のほうが自分にとって今は大切だ。生きていくだけで精一杯なのだから」と考えて、王の招きを拒否してしまったのです。

「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」(7節)。王の招きを拒否した人々の悲惨な末路がここでは語られています。しかし、それを招いたのは王の祝宴に関心を示さず、それを拒否し続けた彼ら自身の責任なのです。


2.王の祝宴にやってきた人々

①代りに集められた人々

 祝宴に招いた人々の拒否に出会った王は次に家来たちに新しい命令を下しています。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」(8~9節)。折角、婚宴の準備が整ったのに招待していた人たちはそれに関心を示さず、拒否することで自がその席にふさわしくない者たちであることを証明してしまいました。そこで王は、彼らに代わって一緒に王子の婚礼を祝ってくる人々を求めます。ここで集められるのは「町の大通りに出て、見かけた者は誰でも」と言われています。また「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」(10節)とも語られるように、集められた人の中には「善人も悪人」も区分けがなかったと言うのです。つまり、新たにここに集められた人は招待状を受け取っていなかったユダヤの人々以外の他の人たち、旧約聖書のメッセージを知らなかった人々でした。しかも「善人と悪人」が共に集められた言うことは、この婚宴に出席するために出席者の側にはその条件が一切問われていないことが分かるのです。

 キリスト教会はここに記されている新たに祝宴に出席した者たちこそ今、教会に集められた自分たちであると信じてきました。なぜなら、私たちはかつて旧約聖書の伝統の外に生きてきた異邦人であり、また私たちは恵みによって、自分たちの持っている人間的条件は一切関係なく教会に集められ、福音を聞き、神の救いにあずかることができた者たちだからです。


②まとった礼服

 ここで興味深いのはこの祝宴に出席している人たちは町で突然呼び止められて、ここに集められた人々なのにみな一人の例外を除いて「婚礼の礼服」(11節)を着ていたと言うことです。王の婚礼の事実を知らないのに彼らが「婚礼の礼服」を着て町をうろついていたと言うのは常識では考えられないことです。いったい、この「婚礼の礼服」とは何を意味しているのでしょうか。この場合、第一に考えられるのは王の婚宴を無視し、拒否した人々がその婚宴の本当の価値を理解しなかったのとは逆のこと、つまり彼らが突然の招きではありましたが、この婚宴に招かれることのすばらしさを知り、その招きに喜んで答えることができたことを言っているのではないでしょうか。

 彼らもまた用事があってこの町を歩いていたはずです。あるいは彼らも畑に出かけ、商売に行こうとしたのかもしれません。しかし彼らは王の家来から王様の王子の婚宴への招待を突然受けたとき、そのすべてを置いて、自分たちがしようとしていたことを止めて、この招きに答えたのです。それは彼がこの招きがどんなに自分の人生にとって大切なことであるか、価値があることであるかを彼らが悟ったからではないでしょうか。


3.礼服をまとわない

①一人の例外者

 しかし、ここに一人の例外者が存在しました。婚礼の礼服を着ずに、普段着のままでこの宴会に出席した人が一人いたのです。王はこの人に次のように対応したと言うのです。「王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう』」(12~13節)。

 彼だけはどうして婚宴の服を着て来なかったのか、その理由は説明されていません。しかし、先ほど結論、この礼服はこの王の開いた王子のための婚宴のすばらしさを悟っているかどうかであるとすれば、彼はこの婚宴に出席しながらも、この婚宴のすばらしさとその意味を分かっていないと人だったと考えることができます。彼はおそらく、自分と同じように町で呼び止められた人々がみな宴席に向かう姿をみてまねをしただけなのかもしれません。もしかしたら、心には何の喜びもないまま、王の命令に逆らうことを恐れてこの宴席にしぶしぶ出席したのかもしれません。しかし、形ばかりの彼の本当の姿は王の目からすぐに分かってしまうのです。そして彼もまた、この婚宴の席にはふさわしくない者として追い出されてしまうのです。


②信仰によって神の招きに応答する

 先日、キリスト教綱要を夜の祈祷会で学ぶことができました。綱要の第三巻に入り、学びは「聖霊論」つまり聖霊の働きの部分に入っています。この間の学びではカルヴァンは信仰についての定義づけ、つまり「信仰とはどういうことか」という問題を論じていました。カルヴァンの主要な論敵は当時のカトリック教会で、彼らは「教会こそ、私たちに確かな救いを与えるもの」と語り、当時のカトリック教会への絶対的な服従を信徒に要求しました。ところがカルヴァンは、真の救いは聖霊が私たちに与えてくださる信仰を通して与えられると説明したのです。その際に彼はカトリック教会と同じような誤りと列挙し、論じたのは、「見せかけの信仰」と「一時的な信仰」と言うものでした。「見せかけの信仰」と人間が行う外面的な敬虔な生活を装うことを言い、一方の「一時的な信仰」とは人間が持つ不確かな感情を中心とするものを語ります。このいずれもどうして間違いなのかと言えば、どれも人間の努力や、人間の意志や感情から出てくるものであり、真の神様から与えられたものではないからです。カルヴァンはこれに対して神様が私たちに聖霊を通して与えてくださる信仰こそ私たちを救いに導くものだと語っているのです。

 今日のたとえ話から言えばこの神様が与えてくださる信仰こそ「婚宴の礼服」と言えるのかもしれません。なぜなら、神様はこの婚宴に出席する私たちに、私たちの内側から出る何物も求めてはいないからです。敬虔な生活も高揚した感情も神は私たちに求めてはおられません。なぜなら、神は私たちに必要なものすべてをご自分で準備してくださったからです。そしてその上でこの婚宴に私たちを招いておられるからです。家来を通して語られた王のメッセージは「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」と言うものでした。この言葉は婚宴に出席しようとする私たちに「何の心配もいらないからこの招きに応じるように」と言っているのです。

 私たちに神様は何も求められていません。「そんなことを言っても、何かおみやげを持っていかないとだめなんじゃないか」。そんな心配は無用なのです。メッセージでは「牛や肥えた家畜を屠って」と語られています。私たちがこの祝宴に参加できるように、すでにイエス・キリストが贖いの供え物となりその命を捧げられたのです。このイエス・キリスト以外に私たちが救われるために何かを付け足す必要は全くありません。ただ、私たちは私たちのために神様がすべての条件を整えてくださり、この神の国、そしてその救いへと招いてくださったことを喜び、その招きに答えることが大切なのです。それが私たちの礼服、私たちの信仰なのです。今日のたとえ話は私たちが今、神様から受けた招きが私たちにとってどんなにすばらしいものであるかを教え、その上でこの招きに答えることが私たちの人生にとって一番に大切であることを教えているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 かつてはあなたの招きに関心も示さず、目の前に起こるこの世の様々な出来事に目を奪われて、滅びへの向かっていた私たちにイエス・キリストにあって救いを与えてくださったあなたの恵みに感謝いたします。私たちのためにイエス・キリストを十字架につけ、私たちが本来なすべきすべてのことをすべて成し遂げて、神の国へと私たちを招きいれてくださる福音のすばらしさを感謝いたします。このすばらしさに促されて、心からの喜びと感謝をもってあなたに使えることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2005.10.9「善人も悪人も皆」