2005.11.27「なぜ目を覚ましているのか」
聖書箇所:マルコによる福音書13章33~37節
33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
1.目を覚ましていなさい
今日から教会暦はアドベント、待降節に入ります。この待降節はこれからクリスマスまで続き、キリストの誕生を祝うクリスマスの備えをするときと簡単に言うことができます。教会はこの期間にキリストがこの地上に遣わされた喜びを再確認すると共に、そのキリストが再びこの地上に来られる再臨のときを覚えるときとして用いてきました。そのため、この待降節第一週の礼拝で学ぶべき聖書箇所はキリストの再臨に関する内容が記されているマルコによる福音書が選ばれています。この箇所は私たちが先日学んだ、花婿を迎えるために灯を準備して待った乙女たちのたとえ話、あのマタイによる福音書の内容と並行する箇所となっています。ですからこのマルコ福音書13章の最初もイエスの預言するエルサレム神殿の破壊の日を世の終わりの出来事と考えた弟子たちのイエスに対する質問から始まっています(1~4節)。そこでこの13章が記している内容は最初に世の終わりの出来事に伴うしるしと苦難(5~23節)が取り上げられ、その後で人の子、つまりキリストの再臨が語られ(24~27節)、その後で終わりの日が近いので目を覚ましていなさいという今日の箇所によって締めくくられています。
今日の箇所を読んでみるとわずか5節しかない短い文節の中で四度も「目を覚ましていなさい」と言うイエスの言葉が繰り返されています。世の終わりの出来事と主イエス・キリストの再臨を前にして、マルコによる福音書はイエスの言葉を通して私たちに「目を覚ましていること」を勧めています。ですから私たちは終わりの出来事を心配したり、不安に思う必要はありません。その代わりに私たちは目を覚ましている必要があるのだと教えるのです。それではこの目を覚ましていると言うのは私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。今日はそのことについて少し考えてみましょう。
2.昼の子だから目を覚ましている
①世の光イエス・キリストの誕生を祝う
ご存知のようにキリストが誕生された日はいったいいつであったのかはっきりと分かっていません。福音書記者はキリストの誕生の出来事とその意味を伝えているのですが、その日がいつかは詳しく記してはいないのです。それではどうしてキリスト教会はこのイエスの誕生を12月に祝うことになったのか、その有力な説として考えられているのはローマの異教の祭りがこのクリスマスに変わったというものです。古代ローマではこの夜と昼の長さが逆転して、昼の時間が長くなり始める冬至の日を記念して太陽の神を拝む祭りが執り行われていました。そしてやがてローマがキリスト教を国教として定めたときに、この太陽神の祭りがキリストの誕生を祝う祭りに変えられたと言うのです。おそらく、キリストは「世の光」(ヨハネ8章12節)であると言う聖書の表現から考えて、いつかは燃え尽きてしまう太陽よりも、消えることのない真の光であるキリストの誕生をこの日に祝うことが望ましいと信仰者たちは思ったのかもしれません。
②光の子、昼の子
パウロはテサロニケの信徒への手紙5章4~10節でこのような言葉を語っています。
「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」
ここではキリストの降誕と共に成就した神様の救いを信じる私たちが「光の子、昼の子」と呼ばれています。その存在とは対照的にキリストの救いを知らない人、それを信じることが出来ない人が「眠る者」あるいは「酒に酔う者」として語られているのです。彼らは救いを知らないためにいまだに暗黒の世界に生きなければならいません。しかし、キリストの救いを知る私たちはさまざまな問題に満ちているこの世においてもいつも希望を持って生きることができると聖書は教えるのです。光の子、昼の子が目覚めているのは当たり前です。なぜなら人は夜眠るものであり、昼は起きて働いているからです。このようにキリストを信じる者が目覚めているのは当たり前のことだと教えるのです。
迷路に迷い込む人はこれからどちらに進んで良いか、またどのようにしたらこの迷路から抜け出すことができるのか不安です。しかし、その迷路を一度、高いところから眺めるならば、自分が今どこにいて、これからどう進めば出口に出るのか。また必ずこの迷路には出口があると言うことを知ることができます。光の子である私たちはいつも、神様の約束を信じてこの地上の生涯を歩むことができるので道に迷うことがありません。ですから「目覚めている」とはこの約束を信じて上の生涯を送る者のことを教えているのです。
3.いつであるか分からないから目を覚ましている
①目覚めている者
先日のマタイ福音書が伝える花婿の到着を待つ10人の乙女たちのたとえ話でも学びましたように、私たちが目覚めていなければならないのはキリストの再臨がいつ起こるか私たちには分からないからです。このマルコによる福音書でもそれと同じことが次のようなたとえで語られています。
「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」(35節)。
興味深いことは、聖書はこのようなことを語り、キリストの再臨のときを父なる神以外は誰も知らないと言う一方で(32節)、この終わりの日に伴う印しを明記し、読者にそれへ注意を促しているのです(5~23節)。そしてこの13章30節では「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」とも語られています。これらの終末に伴う印しが完全に実現したのちに世の終わりは必ず起こると語っているのです。ところがここで語られている「この時代」と言う言葉は、実はきわめて短い期間を指す意味の言葉が用いられているのです。ここで言う「この時代」とは言葉を代えて言えば「この世代のとき」と訳し変えることの出来る言葉で、このイエスの言葉を直に聞いた人たちがまだ生きている時代を示していると考えることができます。この福音書に留まらず、パウロの記した書簡においてもキリストの再臨はすぐそこに迫っている出来事だと言う説明が登場しています。聖書を記した著者たちはみな、キリストの再臨に自分が必ず出会うはずだと信じてこれらの言葉を記したのです。それに反して、聖書はキリストの再臨が遅れている理由をほとんど説明していません。むしろ、読者に対してはそのようなことを考える必要はなく、誰もがこのキリストの再臨を今すぐ起こる出来事だと信じて生きなさいと教えるのです。そしてこの聖書の勧めに従って生きようとする者は「目覚めている」者たちと言うことができるでしょう。
②今日という日に神様の祝福を受け取るために
先日もお話しましたが、トルストイの民話集に納められている小さな物語「靴屋のマルチンの主人公は妻や息子に先立たれて孤独な人生を送っていました。主人公マルチンは「どうして自分だけが生き残ってこんな寂しい毎日を送らなければならないのだろうか」と考え、願わくば一日でも早く神様が自分の命を終わらせてくれることを祈るような日々を送ってきました。そのようなマルチンでしたが、一人の伝道者の薦めで聖書を読み始めるようになってからというもの彼の生活は一変して行きます。その上で、「明日、あなたの家に行きます」というイエスの声を聞いた彼の生活はさらに活気を取り戻していくのです。彼はしばらくぶりに部屋をきれいに掃除し、お茶や食事の準備をしてイエスの来訪を待ちました。その上で普段はほとんど気にもとめていなかった窓の外に広がる町の風景に注意を払い始めます。そこから彼といろいろな人々との出会いが生まれたのです。マルチンはその日一日を充実して、そして喜びに満たされて送ることができたのです。さらにマルチンはそのときは気づかなかったのですけれどもキリストはその日確かに彼の家にやってきてくださっていたということを悟ることでこの小説は幕を閉じています。
キリストの再臨を待つ生活とはそのように私たちの生活に感動と喜びを与えるのではないでしょうか。そのことを知らない人はこの生涯を退屈で感動のないまま送らざるを得ません。しかし、「目覚めている」者はその毎日の生活がこのように神様の祝福によって変えられていることを知るのです。
4.悪魔に抵抗するために目を覚ましている
①神の力によって悪魔に勝利する
キリストの最初の降臨、つまりクリスマスのときからキリストが再びこられる再臨のときの間を生きる私たちに対して、聖書はこのとき悪魔が最後の力を使って神と神に従おうとする者たちに戦いを挑むことを教えています。つまり、今の時代は信仰者にとって最後の試みのときであるとも言えるのです。そのようなときを生きる私たちにペトロの手紙一は次のような言葉を語って、私たちに「目を覚ましていなさい」と薦めています。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(5章8~9節)。
「神様を信じればすべてがうまくいって、問題はなくなる」と決して聖書は語っていません。むしろ神様を信じて生きようとする人に悪魔が力を尽くして挑みかかろうとすると言うのです。ここに私たちの信仰生活に起こる様々な問題の根本的な原因が隠されているのです。しかし、ペトロの手紙はこのような悪魔の力に抵抗するために目覚めている必要があると私たちに教えながらも、この戦いがどのような結末を迎えるかを続けて語ります。
「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(10節)。
この戦いの中で私たちを悪魔の力に将来させてくださるのは神様御自身の力であることをペトロは語ります。私だけの力ではこの悪魔の力に対向することはできません。しかし神様は私たちをこの戦いで勝利できるようにしてくださるのです、その上でこの戦いを通して私たちは「完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにして」いただくことができると聖書は宣言しているのです。
②キリストの十字架と復活の恵みが私たちを目覚めさせる
マルコによる福音書はこのイエスの終末についての預言を記した後、いよいよイエスの十字架の死と復活の出来事を語り始めます。そのようにしてマルコはこの終末の出来事とイエスの十字架と復活が深い関係を持って結ばれていることを私たちに教えるのです。それではどうして、多くの人を恐怖に陥れるような終末の出来事が私たちにとっては慰めと希望のときに変わるのでしょうか。その終わりのときに真っ先に裁かれるべき罪人であった私たちが、むしろこのとき完全な者とされる希望をどうして確信することができるのでしょうか。そのすべてはイエスが私たちのために十字架にかかり、復活してくださったことにかかっているのです。イエスがそこで私たちのために得てくださったすべての特権を私たちは信仰を通して受けることが出来るのです。だからそのすべて特権が完全に私たちのものとされる最後のとき、イエスの再臨のときを目覚めて、希望を持って生きることができると私たちは確信することができるのです。
…………… 祈り ……………
天の父なる神様。
今年も主イエスの誕生と、さらにその再臨を覚える待降節のときを与えてくださりありがとうございます。問題に満ち、暗闇にとざされているかのように見えるこの時代にあっても、私たちはあなたの救いを信じ、その救いが全世界に完全な形で表れる終りのときを、希望を持って待っています。私たちの信仰を、聖霊を通してさらに強めてください。毎日の信仰生活で主の再臨のときを信頼をもって、待ち焦がれつつ生きることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。