2005.11.6「花婿を迎えに出て」
聖書箇所:マタイによる福音書25章1~13節
1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
1.神殿崩壊の預言と終末
私たちは今までエルサレムに入城されたイエスがそこでユダヤ教指導者たちと激しく対立した出来事を学んできました。イエスはこの対立の末に彼らによって十字架にかけられることになります。聖書に約束されていた救い主として来られたイエスを、その聖書を一番よく学んで知っていたと思われるユダヤ人たちが激しく拒むという出来事がこのとき起りました。その大きな理由は彼らの信仰がいつの間にか真の神にではなく、自分たちが作った制度や権威に向けられ、そこに拠り所を求めるようなものに変わってしまったからでした。その意味で本来神の家であるはずのエルサレムの神殿がイエスを拒むユダヤ教指導者たちの誤りの象徴のようになっていたのです。
そこでイエスは24章の冒頭、このエルサレムの神殿が完全に破壊されてしまう日がやってくるという預言を語られます。実際にはこの後、エルサレム神殿はユダヤ人の反乱を鎮めるためにやってきたローマ軍の手によって紀元70年頃に徹底的に破壊されてしまいます。この意味でイエスの預言は、その通り実現したことになります。しかし、イエスの弟子たちは「神の神殿が破壊される」と聞いたときに、そんな大変なことが起こるのは「世の終わり」を意味するに違いないと考えたようです。そこで彼らは世の終わりがいつやってくるのかをイエスに質問しています(24章3節)。そしてマタイによる福音書24~25章はその弟子たちの質問に答える形でイエスが語られた世の終わり、終末の出来事についての預言とそれに関係するたとえ話が記されているのです。
私たちはもちろんエルサレム神殿を頼りにしているユダヤ人と全く同じではありませんが、この箇所を読む際に自分は今、何を拠り所にして生きているのかを考える必要があります。そして聖書はその私たちにも真の神を拠り所にして生きていることを薦めているのです。
2.神様の解決のときはわからない
①遅れる花婿とそれを待つ十人のおとめ
今日の箇所では「十人のおとめ」のたとえ話を通して世の終わりについてのイエスの教えが記されています。結婚式の婚宴の前に花婿の行列を迎えるために待っている十人のおとめたち、しかし、彼女たちの運命はある出来事を通して全く違ったものになってしまいます。
ヨハネの福音書に記される「カナの婚礼」のお話でも分かるように、当時のユダヤ人の婚礼はたいへん大がかりなものでそこには町中からたくさんのゲストが招待されています。その上で婚宴は何日も続けられるものであったようです。この結婚式の最初は花婿が花嫁の家に花嫁を迎えに行って、自分の家に連れ帰ることから始まりました。花婿が花嫁を自分の家に連れ帰った時点で結婚式の祝宴が盛大に始められることになるのです。
このたとえは花嫁の家に花婿が迎えに行ったまま、その帰りが大幅におくれてしまいます。そしてその花婿の到着を待ちくたびれている十人のおとめがたとえ話の主人公になっています。解説書によれば当時、花婿は花嫁の家でその家族と花嫁を迎えるにあたっての相談をしたようです。この際に花嫁の親族は花嫁になる自分たちの娘がどれだけ大切であるかを示すために、さまざまな条件を花婿に求めます。そこでこれらの条件を巡って話し合いがもたれ、花嫁の親族はわざとこの話し合いの時間を引き延ばす習慣があっと言うのです。話が延びればのびるほどその花嫁の価値の大きいことを示すためでした。この話に登場する花婿もそのような理由からか家に帰るのが大幅に遅れてしまうのです。
②私たちのできないこと。できること。
皆さんはたぶんテレビドラマの「水戸黄門」を何度かご覧になられたことがあると思います。何十年も経って、登場人物の配役が変わっても新シリーズが何度も制作され、ドラマが終わることがありません。その上、今でも夕方になると昔のシリーズが何度も何度も再放送されています。それほどまでにこのドラマが放送されているのは多くの日本人に愛され続けている証拠なのでしょう。私も昔はあまりこのドラマ好きではありませんでしたが、最近は時々見ることがあります。なぜならこのドラマ、他のドラマと違って、見ているととてもストレス無く最後まで見通すことができるからです。その理由はおそらく、ドラマの後半、8時45分頃になると必ず水戸黄門が「角さん。そろそろ良いでしょう」という合図すると、角さんが「葵のご紋」が入った印籠を出すシーンが始まり、いままで好き放題に暴れまわっていた悪人たちが一網打尽に退治されてしまうからです。見ている方はどんなに問題が複雑そうに見えても、いつこの問題が解決するかがある程度予想することができるのです。だからストレスなく、むしろ気分良くこのドラマを最後まで見ることができるのです。
イエスのたとえに語られる花婿の到着のときとは、最初にお話したように「世の終わり」のときを指し示していると言ってよいでしょう。そのとき神様はもう一度、イエス・キリストをこの地上に遣わされ、救いみ業の最終仕上げをされるのです。しかし、この出来事が水戸黄門のドラマと大きく違う点はその時を私たちは決して知ることができないと言うことなのです。花婿が何時に帰ってくるか分からないように、神様の解決のときは私たちには分からないのです。
私たちはそれぞれの人生の中で「神様ここがあなたの出番です。ここで登場してください」と期待することがあります。しかし、神様の助けは私たちのコントロールの届かない向こう側にあることをこのたとえ話はまず私たちに教えているのです。
それでは私たちは「どうせ自分には何もできない」と諦めてしまなければならないのでしょうか。そうではありません。このお話はむしろその神様の解決のときを知り得ない私たちが、むしろ自分の計画ではなく、神様の計画に合わせて生きること、神様の解決のときを希望を持って生きることを教えているのです。ですから問題なのは終わりの時、神様の解決のときがいつくるかではなく、そのときを私たちはどのようにして待つかと言うことなのです。
3.なくなってしまった油
①油を準備しなかった愚かなおとめ
このたとえ話に登場する十人のおとめは「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」(2節)と二つのグループにはっきりと分類されています。しかし、彼女たちがはっきりとその違いを表すのは花婿が到着したとき、つまり終末のときであって、それまで外面的にはその違いを見分けることができません。そして5節では花婿の到着が遅れたために「皆眠気がさして眠り込んでしまった」と賢いおとめたちもまた、愚かなおとめたちと同様に人間的な弱さをもって生きていることがわかります。彼女たちの賢さを示す証拠はともし火ために必要な油を準備していたかどうかにかかっています(3節)。先ほどの話に戻れば、油を準備しなかった愚かなおとめたちは花婿の到着が自分たちの期待した時間になると勝手に思いこんでいた人と言えるでしょう。しかし、もう一方の賢いおとめたちはそのときを自分たちはコントロールできないことを知っていました。その上で、いつでもそのときがやってきても大丈夫のように準備した人たちと言うことができるのです。
②油は自分でしか準備できない
花婿の到着が告げ知らされたとき(6節)、愚かなおとめたちはそこで初めて自分たちの準備したともし火は油がもう少なくなっていて燃え尽きそうなことに気づきます(8節)。そこで彼女たちは油を準備していたもう一方の賢いおとめたちに「油を分けてください」と願いでます。しかし、賢いおとめたちの答えは「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」(9節)と言うものでした。この話を読んで、心の優しい皆さんは「どうして賢いおとめたちは自分の油をわけてあげないのか。それは不親切ではないか」と思われるかもしれません。しかしこの話の目的から考えると彼女たちは分けてあげたくても、それができなかったと読む方が正しいと思われます。つまり、自分のともし火に使う油は自分が準備すべきものであり、誰かが代わってそれをしてあげることができないものであることを教えているのです。
それではこの油とはいったい何を意味しているのでしょうか。かつて日本の無教会のリーダーの一人であった矢内原忠雄はマタイによる福音書の解説の中で、「ここに登場するともし火は信仰であり、油は聖霊のことを意味している」と説明しています。確かに神様の解決を待つときに私たちに求められるものは信仰であり、その信仰は聖霊によって私たちに与えられるものですから、この解釈はこのたとえ話を読み解く鍵を与えるものと言ってよいでしょう。
4.神の解決ときを信仰を持って待つ
①信仰を持って待つ
私たちはこのような観点から終末を待つ者にとっての信仰と聖霊の関係をもう少し考えてみましょう。私たちが終末のとき、神様の解決のときを待つために一番、重要な姿勢は信仰を持ってそのときを待つということです。あるいは信仰がなければ、そのときを私たちは待つことができないと言うこともできるでしょう。
ヘブライ人への手紙は信仰についての有名な定義を記しています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11章1節)。私たちの信仰は神の約束に基づくものです。私たちが神様の約束が実現されることを待ち望むことができるのは、それを約束してくださった神様が真実な方であり、それを必ず実現してくださることを信じることができるからです。
そしてその信仰は私たちがどのような状況に立たされても、ますます神様の約束が真実であることを私たちに教えてくれるのです。私たちはそれぞれ様々な人生設計をします。それは私たちの人生にとって大切なことです。働いてお金を貯め、家族を養い、家を建てます。私たちは将来の自分の生活を考え、そのために少しずつその条件を整えて行こうとします。しかし、信仰はむしろ私たちの人生設計とは全く違った性格を持っています。たとえば伝道者パウロはその人生の中でさまざまな苦難に遭遇しました。しかしそのような状況の中でパウロは次のような確信を抱いたと証言しているのです。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(コリント第二1章8~9節)。パウロはここで自分の命を保証するものをすべて失ってしまうような苦難に遭遇します。しかし、そこでこそ彼は自分を頼りにするのではなく、「死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」と告白しているのです。つまり、彼のキリストへの信仰はこの世の様々な条件が彼から奪われるのに反比例して強まり、確かなものとされたと言うのです。なぜならば、死者を復活させる力を持っている神は、私たちがどのような状況に立たされても、その状況に関係なくそのみ力を発揮し、私たちを救うことができるからです。このたとえ話で賢いおとめたちが持っていたともし火はこの信仰を意味しています。だからこそ彼女たちは花婿の到着がどんなに遅れても、その到着を喜びを持って、迎えることができたのです。
②聖霊によって信じる
それでは賢いおとめたちのように神に信頼し、神の解決のときを待つことができる信仰はいったいどのようにして私たちに与えられるのでしょうか。ここで賢いおとめたちは油のなくなった愚かなおとめたちに「自分の分をお店に行って買ってきないさい」と勧めています。ですからともし火をともす油はほっておいても自分の内側から自然とわき出してくるものではなく、自分以外の他のところからそれを得なければならないということがここでは教えられています。私たちの信仰を確かなものにさせるのは私たち自身の努力や修行ではありません。神様が私たちのために遣わしてくださる聖霊の力によるのです。ですからこの油は聖霊を表しているのです。元々私たちは目に見えるものだけを頼ろうとする傾向があります。しかし聖霊は私たちに働いて目に見えない神様の約束こそが確かであり、真実であることを教え、私たちの信仰を確かなものとしてくださる方なのです。
それではこの聖霊を私たちはどこで買い求めることができるのでしょうか。それは私たちの救い主である主イエス・キリストのところでです。しかも、私たち無償でその聖霊を受けることができます。なぜならキリストは私たちのために十字架にかかることによって、この聖霊を私たちが受けることができるようにその十分な代金をすでに払ってくださっているからです。その上で今、天におられるイエスは私たちに豊かに聖霊を送り続けてくださるのです。
ヨーロッパの古い教会堂の玄関にはこの十人のおとめの彫刻が刻まれている会堂がいくつもあると言うことです。このように昔からこの物語はキリストを信じる者にとって大切なものとして取り扱われてきたのです。この会堂に集まる者は何よりもキリストに望みを置き、その訪れを待っているということをその彫刻は証しているのでしょう。
私たちは目に見える神殿を魂の拠り所にしたユダヤ人とは違って、主イエスを拠り所として生きています。神殿と同様にこの世の様々な権威はイエスの預言のようにいつかはなくなってしまいます。ですからそれらは私たちを助けることができないのです。しかし、主イエスはすでに始められた救いのみ業を完全に成就されるために必ず、私たちのところにもう一度来てくださるのです。そのときを待つために私たちに聖霊を送ってくださるのです。ですから私たちは主イエスにますますこの聖霊を願い求め、私たちの信仰を確かなものにしてくださるように祈ることが大切であることを今日のたとえ話は私たちに教えているのです。
…………… 祈り ……………
天の神様。
すべてのものが崩れ去ってしまうような世の終わりの出来事を前にしても、何事にも揺るぐことなく、むしろそこにおいて私たちのための救いの計画を実現してくださるあなたを信じることできることを感謝いたします。その日そのときを私たちは知ることができませんが、だからこそますます私たちはあなたに信頼して、その日を待ち望みます。その日まで私たちにさらに豊かに聖霊を送ってください。私たちの信仰を強めて、成長させてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。