2005.12.18「マリアの受諾」
聖書箇所:ルカによる福音書1章26~38節
26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
37 神にできないことは何一つない。」
38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
1.希望を与えるクリスマスの祝福
今週はアドベントの第4週の礼拝を迎えます。そして来週はいよいよクリスマス礼拝となります。商店ではすでに気が早いことにクリスマスコーナーが片づけられて、お正月用品のほうがたくさん陳列されるようになっています。皆さんの中でも「そろそろ年賀状を書いたり、お正月の準備をそろそろしないと」と思われている方がおられるかもしれません。
しかしキリスト教の影響が強い欧米ではクリスマスはたいへん盛大に祝われますが、お正月、つまり新年は日本のように特別にお祝いすることもないと聞いています。クリスマスの挨拶も「メリー・クリスマス&ハッピーニューイヤー」と一揃いでよく言われますから、クリスマスのついでに新年をお祝いすると言う感じが向こうではあるのでしょうか。
人間というのは本当に不思議なもので世間が華やかに騒ぎ立てれば騒ぎ立てるほど、その騒ぎに加われない人はひときわ自分の孤独や寂しさを感じるものです。ですからクリスマスに久しぶりに家族が集まって楽しいひとときを過ごす、そのような習慣が当たり前の欧米では、家族や友人もいない人びとはとくに孤独感を感じと言います。聞くところによればこの時期に自分の孤独な人生に絶望して自ら命を絶つ人も多いのだと言います。
いくら華やかで賑やかなクリスマスであっても、それだけでは人に本当の希望も喜びも与えることができません。しかし、聖書の語る真のクリスマスの風景は現在の華やかで賑やかなクリスマスとは対照的なもので静かな上に質素、その上それを知る人はごく限られたものでした。しかし、世間のクリスマスと最も違う点は聖書の伝えるクリスマスは人間に真の希望を与え、生きる勇気を与えるところにあります。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)と天使ガブリエルはマリアに語ります。「あなたは恵みを豊かに受けた。主があなたと共におられるからだ」。今日はマリアがどのようにこのガブリエルのメッセージを聞いたのか。彼女にとってこのメッセージはどのような希望を与えるものだったのかを学んでみたいと思います。
2.神のみ業と人間の抱く恐れ
①天使の出現に恐れを抱く人びと
このところこの礼拝の前に行われる教会学校でもクリスマス物語を続けて教えています。今日のマリアの物語も、またヨセフの物語も、そしてザカリヤとエリサベトの話もすでに教会学校ではお話しました。これらの物語に共通しているのは天使が登場するというところです。先日、このお話を子供たちにしていたら「天使はいつも「恐れることはありません」って言うんだね」と言う反応が返ってきました。なるほど、今日の部分でも天使はマリアに「恐れることはない」と言っています。またこの物語の直前のザカリヤの物語でも天使は「恐れることはない」と彼に言うのです(13節)。さらにヨセフの夢の中に出現した天使も彼に対して「恐れないでマリアをあなたの妻にしないさ」と語っています(マタイ福音書1章20節)。おそらく子供たちは自分が天使に会えたらうれしいはずなのにどうして天使は「恐れることはない」と言うのだろうと思ったのでしょう。しかし、聖書の登場人物たちは確かに天使の出現に対して真っ先に恐れを抱いているのです。
それでは彼らが天使の出現に恐れを抱くのはなぜなのでしょうか。第一にそれはやはり普通の人間なら経験することのできない異常な出来事だったからでしょう。人間は自分が経験したことのない事態に遭遇したときにまず恐れを抱きます。なぜならそれにどう対処してよいか分からなくなってしまうからです。また、第二に聖書の物語に親しむイスラエルの人びとにとって神の使いである天使の出現は特別な恐れを抱かざるを得ない存在であったとも考えることができます。なぜなら、彼らは汚れた罪人である自分たちはそのままでは神の前に出ることは出来ないし、もしそのような自分が神を見たのならその途端に自分は神の怒りに触れて滅ぼされてしまうと考えていたからです。そのような意味で彼らはその神の使いである天使の出現にも同様の恐れを抱いたとも考えることができるのです。
②自分の計画を放棄しなければならない恐れ
しかし、彼らの恐れを説明する最も有力な理由は天使が告げるメッセージの内容にあると考えることができます。たとえば今日の聖書箇所に登場するマリアに対する天使のメッセージは「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(31節)と言うものでした。マリアはこのときに同じ村に住む大工のヨセフとすでに結婚の約束をしていました。その約束は当時のことですからもしかしたらマリアやヨセフの両親たちが勝手に決めたものかもしれせん。しかしそうであったとしてもマリアにとってはもうすぐ始まろうとするヨセフとの結婚生活を彼女の胸を期待でふくらませるものであったはずです。彼女は毎日、少しずつこれから始まる結婚生活のための計画を立てそのための準備をしていたのではないでしょうか。
そのときに天使によって、神様のメッセージが彼女に伝えられたのです。「あなたは身ごもって男の子を産む」。そのメッセージの十分な意味を彼女はすぐに理解できなかったかもしれません。しかし、彼女が真っ先に理解できたことは今まで自分が考えてきた計画が、自分がこれからヨセフと一緒に作って行こうとする家庭生活が中断されてしまうかもしれない危険でした。少なくても結婚前のマリアが結婚相手のヨセフの知らないところで子供を身ごもるということはそういうことを意味していました。つまりマリアがこの天使のメッセージに従うためには彼女は自分の計画をまず放棄しなければならなかったのです。「自分の思いも寄らないところに自分の人生は今、行こうとしている」と彼女は不安を抱いたことでしょう。ですからこのときのマリアが強い恐れを抱かざるを得なかったことを私たちも想像できるのではないでしょうか。
私たちは天使の出現の前に恐れを抱く経験をしたことはないかもしれません。しかし、私たちの考え準備していた計画が突然中断され、新しい出来事に遭遇する不安、そして恐れは同様に抱くのではないでしょうか。そのような意味でこの聖書の登場人物たちの抱いた恐れは、私たちも抱き得るものだと考えることができます。
3.マリアとザカリヤ
①しるしを求めるザカリヤ
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)。
まだ、結婚もしていない女性が、しかもそのような関係をまだ誰とも持っていないマリアが子供を産むということは全く常識では考えられない出来事でした。マリアもその点では常識人であったことを彼女のこの言葉は表しています。しかし、このマリアの言葉をこのルカの福音書の少し前の部分に登場するザカリヤの言葉と比べると大変興味深い両者の態度の違いが分かってくるのです。
神殿に使える祭司ザカリヤもこのルカによる福音書の少し前の部分で同じ天使ガブリエルと出会い、常識では考えられないことがらを告げられています(5~25節)。それは年老いたザカリヤとエリサベトの夫婦に子供が与えられると言うみ告げです。そして常識では不可能な老人夫婦に子供が与えらと言うメッセージを耳にしてザカリヤは天使に次のように尋ねています。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。ここでザカリヤは天使が告げたメッセージが真実であるかどうかを見極めるしるしを求めています。彼はそれを自分が信じることができる保証がほしいと願っているのです。言葉を換えて言えば、その保証が与えられない限り、彼はその天使のメッセージを信じることができないと語っていることになります。ですからこのような反応をしたザカリヤは天使に「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われ、事実、彼らの子供であるヨハネが生まれるまで口が利けなくされてしまうのです。
①神に期待するマリア
一方、私たちが読んでいる日本語訳の聖書ではマリアの言葉も「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」というようにザカリヤと同様にマリアも疑いの心を言い表しているように読めてしまいます。それは彼女の言葉が日本語訳では否定的な形で訳されているからです。ところが原文を直訳すると「それはどのようにしてなるのでしょうか」と言うすなおな疑問形になります。つまり彼女の言葉は天使の言葉を否定するのではなく、「その言葉が事実であるとしたら、それはどのようにしてなるのでしょうか」と聞いている言葉なのです。
このザカリヤとマリアの答えの言葉を並べてある人は、ザカリヤの関心は自分がその事実をどう理解できるかということにあるが、それとは違ってマリアの関心は神様が自分を通して何をされようとしているかというところにあったと説明しています。つまり、ザカリヤの最終的関心は自分であり、その一方でマリアの関心は神様にあったと言うのです。私たちの関心はこの二人のどちらに近いと言えるでしょうか。私たちは自分の人生で自分の計画を放棄せざるを得ない、あらたな事態に直面したときなにを求めるでしょうか。あくまで自分を満足させる回答を得ようとするのでしょうか。それともその新たな事態を通して神様が私たちの上になされようとすることに期待をし、耳を傾けようとするのでしょうか。マリアの答えには彼女の抱いた神様への期待が隠されていました。
4.主のはしため
このマリアの質問に天使は次のように語ります。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(35~37節)。
「神にできないことは何一つない」。この天使の説明に対して満足したかのようにマリアは次のように応答します。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。このとき確かに神様は常識を越えたみ業をマリアを通してなされようとしていました。「全能なる神様がされることだ」。彼女に説明されているのはそれだけです。しかし、その説明でマリアは満足したように答え、神の御心を受け入れる態度を示しているのです。
マリアは自分をこのとき「主のはしため」と表現しています。「はしため」と言う言葉は私たちにはなじみのない言葉です。「下女」とか「女奴隷」と言う意味の言葉なのでしょうか。そう訳してもやはり縁遠い言葉です。いずれにしても主人に対して絶対的な従属関係にある者をさしている言葉になります。しかし、「はしため」をそのような意味にだけ解釈するとマリアの言葉は「わたしは主のはしためですから、何の文句も言うことができません。あなたのお言葉通りにいたします」と読むことになります。そうなると「どうせ私には何もできない。神様に従うしかない」というような運命論的なあきらめを語る言葉に誤解してしまう可能性があります。
ですからここでの「はしため」という言葉を理解するために私たちは聖書がこの言葉を他ではどのように使っているかを知る必要があるのです。旧約聖書の詩編123編2節には次のような文章が登場します。
「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます」。
詩編はここで神と信仰者との関係を主人とはしための関係でたとえています。この場合、なぜはしためが主人に目を注ぐかと言えば、単に自分への指図がどのようにでるかかと言うことではなく、彼女に対する「憐れみ」がどのように実現するかを待ちこがれていると言う意味が表されています。つまり、主人に対するはしための関係は神が自分を憐れみ、どのような配慮を持って私に応じてくれるかを待つ、強い信頼関係を意味しているのです。ですから、マリアはここでその強い信頼関係を示して「神様が自分を憐れんでくださることを確信します」と応答したと言うことになるわけです。
マリアの人生に突然、神様の計画が介入し、マリアが自分で立てた人生の計画はそこで中断してしまいます。その恐れにマリアは直面しながらも、天使によってそれは神様のみ業であると知らされた彼女はそのみ業に期待を抱きます。私たちに大切なのは神様のみ業を自分の限られた知識で確かめることではなく、そのみ業に委ねていくことであることをマリアの物語は教えているのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様。
クリスマスを間近に控えて、私たちはマリアの姿にひととき目を向けました。自分の生涯に起ころうとする変化を神のみ業と確信し、その神のみ業であるならば、神の憐れみが豊かに自分に降り注がれることを信じたマリアの姿を確認しました。私たちにも聖なる御霊を使わしてマリアと同じ信仰を与えてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。