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2005.12.4「聖霊で洗礼をお授けになる」

聖書箇所:マルコによる福音書1章1~8節

1 神の子イエス・キリストの福音の初め。

2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。

3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、

4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。

8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


1.エルサレムに導く神のみ業

①まず荒れ野に

 アドベントの第二週の礼拝を迎えました。すでに町中ではクリスマスの華やかな装飾が目立っています。最近は一般の家庭でも外壁に色とりどりの天球をつけたクリスマスのイルミネーションを飾り付けていますので、夜など車で町を運転すると「わあ、この家すごいね」と思わせるようなところが増えてきました。日本ではこのようにクリスマスと言えば何か華やかな上に、賑やかなシーズンというイメージが定着しているようです。ところが、本当のクリスマスを祝うべきキリスト教会の教会暦はこのアドベントの第二週に、聖書の中のバプテスマのヨハネに関する記事を選びだし、華やかさとは全く対照的な荒れ野に私たちを導こうとしています。真のクリスマスを待ち望み、準備する私たちが今、まず行くべき場所は華やかなパーティーの場ではなく、何もない荒れ野であり、生命を維持することも困難な厳しい場所だと教えているのです。それではどうして真のクリスマスを祝おうとする私たちは、聖書によってまずこの荒れ野に導かれ、バプテスマのヨハネのメッセージに耳を傾けなければならないのでしょうか。今日はそのことについて少し考えて見たいと思うのです。


②自分の居場所

 さて、私たちにとって自分の居場所を確保すると言うことはとても大切です。この居場所が定まらない人間はいつも不安であり、不安定な人生を送らなければなりません。たとえば皆さんが普段の生活とはかけ離れた、場違いなところに行くことになったらどうでしょうか。普段は駅前の立ち食いそばでお昼ご飯を食べるお父さんが、高級フランス料理店の席に座ったとしたらどうでしょうか。皆さんならもしかしたら、そういうところに慣れているかもしれませんが。私だったら落ち着きがなくなって、出てくる食事も満足にのどを通らない、味なんか何だか分からないというふうになるのが落ちです。しかし、そういう人でも何度も同じ場所に通えば、だんだんと落ち着いて来て、料理の味も分かるようになります。初めは何が何だか分からない具合でしたが、何度もその店に通う内にメニューの内容も分かってきて、料理を運んで来てくれる人とも顔なじみになります。そこで始めて私たちは「ここにいていいのだ」という確信を得て、安心して料理を堪能できるのです。もっとも支払わなければならない料金を心配していたなら、いつまでたってもそこは居心地のいい場所にはなりません。

 私たちは「自分はここにいてもいい」と言う居場所を探していますし、その居場所を獲得するためにがんばっているのではないでしょうか。家庭を守るために家族を置いて単身赴任に赴くお父さんが、何年かぶりで本社勤務になって自宅での生活に戻ることになりました。しかし、何年かぶりで家での生活を始めるとどうも居所が悪い、何か自分が邪魔者のように思われているという気がする。そんな悲しい話を実際に聞いたことがあります。一生懸命守ろうとした家庭の中で、肝心の自分の居場所がなくなってしまうと言う悲劇が起こるのです。

 神様の救いは私たちが本来あるべき場所に私たちを導くものであると言ってもいいかもしれません。どうも毎日の生活の中で不安でならない。自分は本当にここにいてよいのだろうか。私たちの誰もがそんな気持ちに襲われることがあるのではないでしょうか。それは私たちが本来あるべき場所に居ないからです。ですから罪の故にほんとうの故郷を喪失した私たち人間は神の救いを受けない限り、いつまでもそのような感覚から解放されることはないと言えるのです。


2.荒れ野に導くバプテスマのヨハネ

①主の道を整えよ

「預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ』」(2~3節)。

 イエス・キリストの誕生の次第を記したマタイ、ルカの福音書に対して、最も簡潔な福音書であるこのマルコは降誕物語を省略して、バプテスマのヨハネの登場からその福音書を書き始めています。マルコは最初に旧約聖書のイザヤ書のメッセージを記した上で、このバプテスマのヨハネの活動を紹介しようとするのです。ところが、マルコはここで「預言者イザヤの書」と言っていますが、該当するイザヤ書40章3節には、これと全く同じ文章は記されていません。正確にはこの言葉に出エジプト記23章20節とマラキ書3章1節の言葉が付け加えられているのです。その上でさらに複雑なのは、マルコは当時一般的に使われていた旧約聖書のギリシャ語訳である「70人訳聖書」を引用しているので私たちの旧約聖書の言葉と言い回しがさらに違ってくるのです。しかしマルコにとって旧約聖書の預言のすべてはイエス・キリストを指し示すこという目的に置いて一つであり、そのような考えから大胆に聖書を読み解く姿勢がここに示されていると言ってよいでしょう。

 さて、ここに引用されているイザヤ書の元々のメッセージの意味は何であったのでしょうか。このメッセージは神の裁きの結果として、国を失い、遠い異国に連れていかれたイスラエルの民に対して語られたものだと考えられています。国を失い、自分たちの本来居るべき場所を喪失したイスラエルの民は遠い異国の地で100年近くの歳月を送らなければなりませんでした。そのような人びとにこのイザヤ書のメッセージは語られ、彼らが神の導きによってイスラエルの故郷に帰ることができるという預言が語られているのです。

 本来、バビロニアからエルサレムのあるイスラエルに帰還するにはユーフラテス川を一端北上して、上流まで行った後、こんどはイスラエルに南下するコースが最も安全であり、通常人びとが選んだコースでした。なぜならバビロンとエルサレムを直線で結ぶ最短距離のコースは広大な荒れ野を通過しなければならない、過酷な道だったからです。ですから『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ』と言う言葉は、この荒れ野に向かって神様が、ご自分が通れるような相応しい道になりなさいと命じる言葉になっているのです。そしてイスラエルの民はこの神様に先導されて、最短距離でエルさえレムに帰ることができるという喜びのメッセージがここには語られているのです。


②バプテスマのヨハネの使命

「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(3~4節)。

 バプテスマのヨハネの活動はこのイザヤ書の預言が成就して、イスラエルの民が祖国に帰還してから500年ほど後に起こった出来事です。それではマルコに言う通りそのヨハネの活動がこのイザヤ書の預言に記された通りのものだと言うことはどのような意味があるのでしょうか。確かにイスラエルの民は500年前に故郷に帰還することができました。しかし、このイザヤの預言は実はもっと重要なメッセージを私たちに伝えていたのです。このイザヤの預言は私たち人間の先祖が罪を犯して喪失してしまった本当の故郷、神と共に生きることのできる場所に私たちを再び連れ戻すというメッセージが含まれていたのです。イザヤが言いたかったのは本当はむしろそちらの出来事であったのです。

 イザヤの預言に従って登場したヨハネのメッセージは単純です。まず第一に人びとに悔い改めを要求し、その証拠として水による洗礼を受けることを勧めました。その上で彼は自分の後から来られる方が、つまり、イエス・キリストこそが私たちを本当に救ってくださる方であり、私たちを本当の故郷に連れ戻すためにやって来られた方だと紹介するのです。

 バプテスマのヨハネはそのことを人びとに伝えるためにまず彼らを荒れ野に導きました。荒れ野は人間が本来生活することのできない場所です。荒れ野には私たちの命を支えることのできる何の手段も用意されていません。現在、私たちはキリスト教を伝道するのに、人びとがたくさん集まって居住する都市部をその候補地として選ぶ傾向があります。そのほうがたくさんの人が教会に集まることのできる可能性を秘めているからです。それに反して荒れ野は伝道地には向いていません。ですからヨハネが荒れ野に人びとを導いたのには何か別の意味があると考えてよいでしょう。それは人びとを荒れ野に導いて、自分が今、いる場所を悟らせるためでした。多くの人びとは現在の生活の中で、自分は富んでいる。自分は素晴らしいところに居ると思い違いをしていました。ですからヨハネは、それは幻想に過ぎない、あなたが頼ろうとしているもの、あなたが大切にしているものはあなたに取って何の訳にも立たない。あなたは本当はこの荒れ野のような場所に住んでいるのだと教えようとしたのです。

 マタイによる福音書はこのバプテスマのヨハネの言葉を次のように紹介しています。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(3章7~9節)。

 当時のユダヤ人たちは「自分はアブラハムの家系に属しているから、割礼を受けているから、律法を忠実に守っているから、自分たちは特別な存在だ」と思っていました。そこで安心して、彼らは神がイエス・キリストを通して本当の故郷に導こうしておられることに関心をしめさなかったのです。だから、ヨハネは神の約束された祝福と比べて、彼らが満足しているものは何の価値もないばかりか、帰って彼らを滅ぼす原因になろうとしていると指摘したのです。ですから、彼らはまず、本当の故郷を喪失していて、自分の居場所を失って居ることを荒れ野に彼らを導くことで教え、本当の故郷に連れ戻そうとする神の救いのみ業を受け入れることを彼らに勧めたのです。


3.イエスの救い

①円谷選手の失敗

 先日、青年会で学んでいるテキストの中で東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取った円谷幸吉選手の話が紹介されていました。円谷選手はオリンピックのマラソン競技の華やかな舞台で全力をかけて走り抜き、見事にメダルを獲得することあできました。当時の日本国民はこぞってこの円谷の健闘を讃えたと言います。そして国民は円谷は次の舞台で必ず金メダルを取るはずだと期待したと言うのです。ところが、その国民の期待に応えるべく無理して練習に励んだ円谷選手はそこで身体も心もバランスを崩していきます。そして最後に両親に「父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい」と言う遺書を残して自ら命を絶ってしまったのです。彼は人びとの期待に応えて、そこが自分があるべき場所だと考え、その場所に留まれるように、またそこに到達できるようにと努力しました。しかし、そこに彼の人生の無理があったのです。なぜなら人びとの期待と彼が本来居るべき場所は違っていたからです。

 このテキストでは同じオリンピックのマラソン競技の際に人びとが席を立って、もう帰ろうとしたときに会場に入ってきたアフリカの一人の選手の話も紹介しています。すでに会場の人びとは彼の存在さえ忘れていました。彼を期待して待つ人はだれもいなかったのです。しかし、自分に与えられたマラソンのコースを最後まで走り抜き、その会場に入ってきたのです。彼は人びとの期待に応えるためではなく、別の目的を持ってこの競技場に入って来たのです。


②私の人生が本当の居場所に変えられる

 私たちは今、どこに自分の居場所を定めて生きているでしょうか。どんな場所を自分の居場所にするために努力しているでしょうか。キリストの救いは私たちを本来、あるべき本当の居場所に導くものです。ですから、この救いにあずかるものは、それ以外の場所に私たちを導こうとする地上の不当な要求から私たちを解放することができるのです。たとえ誰もが私たちの存在を忘れていたとしても、神は私たちの存在を知っておられます。そして私たちのためにイエス・キリストを遣わして、私たちをご自分の元へと召してくださるのです。それではそのとき、私たちの人生の何が変わるのでしょうか。実は私が生きているその人生そのものが、本当の居場所になるのです。なぜなら、そこに神が共にいてくださるからです。だからこそ、私たちはこの人生を忠実に、喜びを持って歩むことができるようにされるのです。居場所の定まらなかった私たちの人生が、このキリストの救いによって本当の居場所に変えられるのです。

 そしてバプテスマのヨハネはこの神の福音の素晴らしさを私たちに伝え、キリストの救いにあずかるように私たちに今もなお語り続けているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 このアドベントの第二週の礼拝で私たちは荒れ野のバプテスマのヨハネの声に耳を傾けます。故郷を失い苦しんでいたイスラエルの民があなたの力によってイスラエルに帰還したように、あなたはイエス・キリストによって私たちをあなたの元に導いてくださいます。その救いによって私たちはこの地上の生涯においても真の平安を受けることができることを感謝します。どうか私たちが心からの喜びを持ってクリスマスを迎えることができるように導いてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2005.12.4「聖霊で洗礼をお授けになる」