2005.2.27「永遠の命に至る水」
聖書箇所:ヨハネによる福音書4章5~15節
5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
1.魂を探し求める名医
①ヨハネの説明
四旬節の第三週の礼拝を迎えました。今日も福音書に登場するサマリアという地方に住んでいた一人の女性とイエスとの出会いの物語を通して、私たちとイエス・キリストとの関係を探っていきたいと思います。
先週、ミッションの教会で働く宣教師と牧師の一泊修養会が東京の小金井にあるカトリックの修道院で行われました。修養会の今回のテーマは「人種差別について」というもので、南アフリカから日本にやって来ている一人の宣教師のお話を通して南アフリカのアパルトヘイト(人種分離政策)に関するキリスト教会の問題や、ご自分の信仰上での問題を聞くことができました。その席で、ミッションのアメリカ人宣教師がこんな思い出話をされました。子供のころお父さんの車に乗っていると、彼は町の中の黒人の地域を自動車で通過するときに必ず車の窓を閉めて、ドアロックをするようにと運転をしていたお父さんから命じられたと言うのです。子供であった自分はそんなことから、「この地域に住んでいる人はとても危険で、怖い人たち」という差別意識を知らず知らずに教え込まれてしまったと言うのです。
今日の聖書箇所には福音記者ヨハネが記した次のような説明が付け加えられています。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」(9節後半)。この物語では旅の疲れを覚えられて井戸の傍らで休んでいるイエスのところに、その地域に住んでいた一人の婦人が水をくみにやって来ます。イエスはこの婦人に「水を飲ませてください」と願っています。おそらくイエスはこのときご自分では水をくむ道具を持っていなかったのでしょう。それに対してこの婦人はわざわざこの井戸に水を汲みに来たのですから当然、それを持っていたに違いありません。「水を少しわけてほしい」。こうイエスが話しかけたのは一見、事情を知らない私たちには日常生活で起こるふつうの出来事のように思われるかもしれません。ところがこの婦人は怪訝そうな顔をしてイエスに訪ねるのです。「ユダヤ人のあなたが、どうしてサマリア人の私にそんなことを言うのか」。そこでこの女性の言葉を理解させるために福音記者ヨハネはさきほどの説明を付け加えているのです。
②ユダヤとサマリアの対立関係
サマリアは聖書の巻末に印刷されている地図をご覧になると分かりますが。ユダヤの北、イエスが活動されていたガリラヤから見れば南に位置する、ちょうどその中間にある地域の名称です。実はこのサマリアとユダヤとの関係は歴史を遡ればもともとは同じ仲間、同じ国民であったのですが。その後に起こった様々な出来事によって両者は複雑な関係を持つようになりました。
まず、このサマリアはソロモンの死後に起こった王国の分裂によって、南ユダヤ王国と対立する北イスラエル王国の本拠地となりました。そしてこの北イスラエル王国はやがて侵入するアッシリア帝国の軍隊によって滅ぼされます。その上でこの地域の多くの住民は遠い国々連れて行かれ、代わって他の国々からこの地域に外国人が移住させられて来たのです。このためサマリアの人々はユダヤ人から見て、自分たちの同胞ではなく、外国人の血が混じった人々と考えられ、そこに民族的差別が生まれたのです。
問題はそれだけではありません。この北イスラエル王国は政治的にだけではなく、宗教的にもエルサレムの神殿に対抗して、このヨハネの福音書にも登場しますが(20節)。ゲリジム山というところに神殿を建て、民衆にこここそが正しい礼拝の場所だと教えたのです。実はこのイエスの活動された150年ほど前にもユダヤの人々がこのゲリジム山に攻め上り、その神殿を破壊するという出来事が起こっていました。つまり、サマリア人とユダヤ人との間には民族的対立だけではなく、その上で宗教的な激しい対立があり、両者の間には争いはあっても、親しい交わりは存在していなかったのです。ですから「水を飲ませてください」とサマリア人の女性に丁寧に願いでたイエスの姿はおそらく彼女から見れば、ユダヤ人だとはっきりと分かる身なりをしていたのでしょう。そのユダヤ人が彼女に話しかけてきたのですからこのような質問となったのです。
③偶然ではない出会い
聖書の解説書によれば当時のユダヤ人はガリラヤとユダヤを往復する場合、わざわざこのサマリア地方を通過するのを避けて、ヨルダン川の東の方に迂回するコースを選んだと説明されています。ヨハネはその事実をふまえてイエスは「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」(3~4節)と説明しています。こんな複雑な問題があるサマリアをイエスはわざわざ通るコースを選ばれたのです。実はその行動には理由があったと説明しているのです。
この箇所で起こっている一見して偶然のようなイエスとサマリアの女性との出会いは、実は偶然ではなくイエスが最初から計画していたものなのだとこの「サマリアを通らねばならなかった」という短い言葉は私たちに教えています。イエスはこのサマリアで一人の女性に出会うためにこのコースを選ばれたのです。
このように私たちにとって偶然と見える出来事でも、それは神様の側から見れば決して偶然ではなく、神様の計画に従って起こった出来事なのだと言うのです。ですから私たちがこの礼拝に今日出席して、神様のみ言葉を聞いているのも決して偶然の出来事ではありあせん。神様が私たちの人生のために準備された計画に従って起こっているのです。つまり私たちは確かにこのサマリアの女性と同じように、今、イエスの計画に従って、ここで神様を礼拝し、その恵みにあずかっていると考えることができるのです。
2.本当の姿を示すこと
①私たちのところにやって来た名医
デンマークのキリスト教哲学者キルケゴールの著作の中に、確か次のような言葉が記されていたことを私は思い出します。「イエスは私たちの魂を救うことのできるただ一人の医者である。そしてこのイエスには癒すことのできない病はない。だから彼はすばらしい『名医』と言っていいだろう。そして名医のもとには黙っていてもたくさんの患者が治療を求めてやってくる。名医はわざわざ、患者を集める必要はない。ところがイエスは違う、「私の元に来なさい」と病んでいる人々に謙遜になって呼びかける。これはとても驚くべきことだ」。
確かに魂の名医イエスは福音を通して「お願いだから、自分のところに来てほしい。あなたを癒してあげたい」と私たちを招いてくださっているのです。このすばらしいイエスの招きを今聞いているのです。しかも、この場面では魂の名医イエスが一人の婦人の魂を癒すためにわざわざユダヤ人には危険は敵地にまで入って、彼女に出会おうとされたのです。
イエスがこの地上に私たちのために来てくださったということは、まさにこのことと同じではないでしょうか。私たちの魂を癒すためにイエスは神のみ子であられるのに、危険な地上に赴き、私たちと同じ人間となった上でご自身の命をかけて私たちを救われようとされたのです。
②隠すことなく病状を明らかにする
もし、イエスが私たちにとってその魂の病を癒すことができる名医であるとするなら、私たちはこの方の前でいったい何をすべきなのでしょうか。私たちはお医者さんにかかったときに、「具合はどうですか」と言われたら、どう答えるでしょうか。本当のことを言うのは恥ずかしいから「はい、元気です」と元気なふりをするでしょうか。たぶんそんなことはされないでしょう。それでは私たちはお医者さんの診察を受けた意味がなくなってしまいますし、到底、私たちは適切な治療を受けることができません。そこで私たちは「実は、こんなことで苦しんでいます」と丁寧に自分の症状をお医者さんに述べるはずです。
今日のイエスとサマリアの女性との会話の物語の転換点と思われる場面でイエスはこんなことをその女性に語っています。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)。「家に戻ってあなたの夫、ご主人を呼んできなさい」とイエスは言っています。ふつうの人との会話ならこの言葉にはあまり深い意味があるとは言えないかも知れません。しかし、このサマリアの女性にとって「彼女の夫」のことを問うこのイエスの言葉は特別な意味を持っていました。彼女にとってはその事情は恥ずかしくて、隠しておかなければならない事実であったようです。その理由はこの後のイエスの言葉から分かります。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節)。なぜ、わざわざイエスはここで彼女が隠したいと思っていたような事情を明らかにしようとしたのでしょうか。それはイエスが、彼女の病の症状をよく知っており、その病を癒そうとされているからです。そしてその癒しのために彼女はその自分の症状とまず向き合う必要があったのです。
私たちもまた、神様との交わりの中で彼女と同じような出来事を経験することがあるかもしれません。自分では隠したいこと、触れたくないことを、神様はむしろ明らかにしようとされるときがあります。しかし、それは私たちを苦しめるためではなく、私たちを癒し、本当の命を与えるためであることを私たちはこのヨハネの物語を通しても確認することができるのです。それは私たちを癒そうとされるイエスの御業のあらわれなのです。そしてだからこそ私たちはむしろ、大胆に自分のありのままの姿をこの魂の名医であるイエスに打ち明ける必要があるのです。
3.私たちの乾きを癒す命の水
①モンローの隠された信念
私がよく読んでいるカウンセリングの本にアメリカの女優マリリン・モンローという人のことが書いてあります。大変昔の映画俳優で若い人はその名前すら聞いたことがないという方もいると思いますが。彼女はさまざまな伝説を生んだ女優でしたから、その名前だけは聞いたことがあると言われる方もたくさんおられると思います。特によく取り上げられるのは彼女とジョン・F・ケネディーという当時のアメリカ大統領との関係です。彼女の睡眠薬事故による不思議な死にはその大統領との関係が影響しているのではないかと今でもたびたび推測されています。
ところで彼女はその私生活で結婚と離婚を繰り返したことでも有名です。そのカウンセリングの本は彼女のそのような人生を取り上げています。彼女の夫になった人々は彼女を本当に愛していますしたし、実際そのような愛で彼女に接しました。ところが不思議なことに彼女はその夫の愛に答える代わりに、彼らが困ってしまうような問題行動をひき起こします。それは誰もがたいへんびっくりするような行動で、マスコミにも取り上げられるような大問題になります。そのため夫になった人たちはその問題で苦しみ、病気になってしまうこともあり、とうとう最後には彼女と離婚せざるを得ない状況に追い込まれてしまいます。
この本では彼女がどうしてこのような問題行動を繰り返し起こして、自分で自分の首を絞めるような人生を送ったのかを心理学の面から解説しています。おそらく、彼女は心の中に「自分を本当に愛してくれる人はいない」という隠された信念を持って生きていました。ですから、彼女の激しい問題行動はその事実を確かめるために彼女が無意識に繰り返すものなのだと言うのです。そして彼女の問題行動の結果、結婚相手は病気になるほど苦しんだあげく、彼女の元を去って行きます。ここで彼女の「私を本当に愛してくれる人はいない」という隠された信念は確かめられ、さらに強化されていったのだと言うのです。
ところでそれでは彼女のその隠された信念はどこから生まれてきたのでしょうか。それは彼女の幼い頃受けた体験に基づくものと考えるのです。マリリン・モンローのお母さんは彼女が幼い頃、心の病のために入院し、彼女は母親の元を離れ、親戚や知人の家で育てられました。さまざまな理由から、彼女は親戚や知人の家をたらい回しにされていきます。そして母の愛情を受けることなく、それに代わる愛情を示す家族も与えられなかった彼女の心にあの隠された信念が植え込まれます。彼女はこの信念のために自分のことを愛そうとしてくれる人が現れると、喜んでそれを受け入れるのではなく、むしろ本当なのだろうかと相手の心を疑い、あるいは不安を感じて問題行動を引き起こすことになって行くのです。このようにマリリン・モンローの病んだ心の背後には、自分が愛してほしい人に愛されなかった深刻な体験があったと言うのです。
もし私たちが彼女のような人生をたどったとしたら、私たちは何を考えるでしょうか。自分を置き去りにしていった母親を責めるでしょうか。それとも自分を最後まで面倒見ようとしないで放り出した人々の責任を問うでしょうか。それとも、自分を去っていった配偶者を責めるでしょうか。それとも救いようのない自分自身の心に絶望し、自暴自棄になるでしょうか。
②生きた水と死んだ水
魂の名医イエス・キリストはサマリアの女性に対して「あなたをそのように取り扱った人は問題だ」とも言わず。「あなたを捨てていった男たちは酷い」とも言いません。ましてやこの女性に対して「そんな不道徳な生活から早く離れて、まともない生き方ができるように」とも言わないのです。その代わりにイエスは語ります。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13~14節)。この前の箇所でイエスは自分が与えることのできる水を「生きた水」とも語っています(10節)。ユダヤ人は水たまりの水のように汲めばいつかはなくなってしまう水を「死んだ水」と言い、それに対して川や泉のように汲んでも次々と供給され、尽きることのない水を「生きた水」と言いした。「私が与える水はその人の内で泉となる」というのですから、まさにそれは「生きた水」です。このイエス以外に私たちに「生きた水」を提供することができるものはいません。彼以外のものは「死んだ水」しか与えることがでないのです。その水では一時的にしか魂の乾きを癒すことができないのです。サマリアの女性は今まで「死んだ水」を頼りに生きていました。だから、彼女は自分の人生で深刻な乾きを覚えながら生きて来たのです。「あなたの乾きを癒すために、私がやってきた」イエスはこのことを伝えるために、この女性の元を訪れているのです。
イエス・キリストの救いは「死んだ水」だけを頼りに生きて、それに裏切られ、自らも絶望していた私たちを命の泉に導きます。ですから命の泉とはこのイエス・キリストご自身のことを言っているのです。私たちの魂を癒すためにこのイエスは私たちの元に来てくださいました。そして私たちはその計画に従って、今、イエスのこのみ言葉を聞き、その祝福に預かることができるようにされているのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様。
生ける水ではなく死んだ水を追い求め、その水を見つけたと思ったとたんに激しい乾きを覚える、そんな繰り返しのような私たちの人生にイエスを遣わしてくださったことを感謝いたします。私たちをイエスの命によって贖い、ますますあなたの命に潤いながら、この地上の生活を送ることができるようにしてください。
主イエスのみ名によってお祈りいたします。アーメン。