2005.3.13「ほどいて、行かせた」
聖書箇所:ヨハネによる福音書11章33~45節
33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
35 イエスは涙を流された。
36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
1.逆説を語る聖書
先日、夜の教理クラスでキルケゴールというデンマークの哲学者の記した「死に至る病」という書物のことについて少し学ぶ機会がありました。私も神学校時代に興味本位に開いて見たことがある本ですが、その内容の難解さに頭を抱えてしまった思い出があります。彼の本が難しいのはいろいろな理由がありますが、その一つには彼がいろいろなところで使う逆説があります。キルケゴールはこの本で絶望について語り、その絶望が罪であるとまで言及します。しかし、私たちに本当の希望が与えられるのはこの絶望から逃げ出すことではなく、むしろこの絶望と向き合うときに真の希望であるイエス・キリストの赦しと愛に出会うことができると言う逆説がここでも成り立つのです。
このキルケゴールの「死に至る病」の一番最初の言葉は「この病気は死で終わるものではない」(11章4節)という今日のラザロの甦りの物語に登場するイエスの言葉が記されています。考えて見るとキルケゴールの語る逆説の根拠はこの聖書にあると言うことができるのかもしれません。なぜなら、聖書は自分の深刻な罪と向き合う者が、神様の赦しを受けることができることを語り。同じように自分の死と真剣に向き合うものが、永遠の命のすばらしさを知ることができると教えているからです。今日の聖書の箇所はそのような意味で「死」と「命」という対極的な事柄がイエス・キリストを通して同時に取り上げられている箇所であると言えるのです。
2.人間の死と向き合うイエス
①死についての言及
今日の箇所は有名なマルタとマリアの兄弟ラザロの病気という出来事から始まっています。マルタとマリアの姉妹はルカによる福音書10章38~42節にこの二人の姉妹の間に起こったいざこざのようなお話が紹介されています。不思議なことにその物語の中にはここに登場するラザロは登場していません。しかし、今日の箇所では「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5節)と語られているようにイエスと彼らがたいへん深い関係で結びつけられていたことが説明されているのです。
この11章全体の随所に「死」に関係する言葉が登場しています。まず、ラザロは死に瀕した病に冒されています。そして彼はその後、実際に死んでしまいます。また、ラザロたちの住むベタニア村にイエスが行かれようとしたときに彼の弟子たちは次のように語ってその出発を思いとどまらせようとします。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」(8節)。このときエルサレムの近くに位置するベタニア村にイエスが行くと言うことは彼を殺そうとするユダヤ人たちの元に行く危険な行為であったことが説明されています。このことに関連して弟子の一人トマスは次のように語っています。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)。トマスはイエス一行のベタニア行きに伴う決死の覚悟をここで語っているのです。
また、ラザロが墓に葬られた4日後に到着したイエスと弟子たちを迎えたのは、ラザロの死を悲しむマルタとマリアの姉妹と、彼女たちを取り囲む人々でした。マリアとマルタは別々に町はずれで待っていたイエスにお会いするのですが、口をそろえたように「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(22、32節)と語っています。この言葉は二人がイエスのすばらしい力を信じていた一方で、人間の死という現実はたとえイエスであっても動かすことのできないものであると考えていたことを表しています。この彼女たちの絶望的な考えはラザロの墓の前に立ったときにマルタがイエスに語った言葉の中にも表現されています。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(39節)。
さて、11章の記事はラザロの甦りによって佳境を迎えるのですが、その後にはこの出来事を通じてユダヤ人たちとくに大祭司カヤファの言葉によってイエス殺害計画が実行に移されていくことが説明されているのです。
②イエスの行動の意味
アラブの昔話にこのようなものがあります。砂漠のオアシスで旅館を営む男がいました。ある日、その旅館で働いている下男が彼のところに血相を変えて駆け込んできます。彼の話では「自分は先ほど、死神に出会った。あれはきっと自分を迎えに来たに違いない。どうか自分を死神から逃がして欲しい」と語るのです。そこで男はその家で一番、早い馬をその下男に貸してやり、彼をバクダットまで逃がすことにしました。この馬の早さなら遅くとも夕方にはバクダットに着けるはずだからです。下男を逃がした後、彼はその宿屋で死神にばったり出会います。男は死神に語りました。「お前の顔を見たと行って、家の下男は大あわてでバクダットに逃げ出したぞ」。すると死神が彼に語ります。「何を言うんだ。あわてたのは俺様のほうさ、今日俺はあいつを迎えに夕方バクダットに行くはずだったのに。あいつがまだ、こんなところでまごまごしていたんだ」。
この物語は、人は誰も自分の死から逃れることができないことを教えています。しかし、人はその一方でこの下男のようにその死の運命から少しでも逃れたいと考えて、必死で行動しているのではないでしょうか。ところが、この箇所でイエスはむしろ、人が逃れたいと願っているその死に向かって歩み出しているのです。
ラザロの死を待つように彼の病気を知ったイエスはその場所になお二日間も留まり続けます。そしてその後、イエスは次のように語ります。
「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(14~15節)。
このイエスの言葉から二つのことを私たちは理解することができます。一つは、イエスはいつも神様の計画に従って行動されていると言う真実です。だからこそ、イエスはラザロが病気で苦しんでいるという知らせを聞いてもすぐには動かれません。イエスのこの態度は一見、冷酷なようにも見えます。しかし、イエスの任務は私たち人間の言葉を鵜呑みにして、それを実現することにあるのではありませんでした。イエスの行動は神の計画を実現させるものであり、むしろこのことによって私たちを愛し、私たちを守り導いてくださるのです。第二に、この行動は私たちがイエスを信じるために行われるものだと語られています。この点に関してはラザロの墓の前で語られたイエスの祈りの言葉の中にも次のように語られています。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」(41~42節)。この出来事はラザロを甦らせるためにだけ起こった出来事ではないとここでイエスは語るのです。むしろ、今、この出来事を学ぶ私たちすべてが「わたしは復活であり、命である」(25節)と語られる方を自分の救い主と信じ、その命に私たちもあずかるためであったことが明らかにされているのです。
3.イエスの涙と激しい怒り
皆さんは聖書の中で最も短い文章で成り立っている節がこの物語の中に存在することをご存知でしょうか。それは35節の「イエスは涙を流された」という言葉です。イエスが涙を流されるという表現も聖書の中ではまれなのですが、ここではさらにイエスの上に起こったはげしい感情も一緒に表現されています。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して…」(33節)と。「心に憤りを覚え、興奮して」という言葉をフランシスコ会訳聖書は「きっとなり、心が張り裂ける思いで…」と訳した上で欄外の脚注につぎのような解説を加えています。「「きっとなる」とは、直訳では「霊において憤慨する」…その基本的な意味は、言葉の調子などによって怒りや感動をあらわすこと、あるいは厳しく命令することである」と説明しています。
それではこのイエスの強い感情、怒りはどこに向けられているのかというのが問題が起こってきます。一番、簡単なのはこの文章の前に登場するラザロの死のために泣いているマリアや一緒に来たユダヤ人たちに怒りを覚えられたという見解です。確かにイエスのこの強い感情はマリアたちの泣く姿を見て起きているように聖書では説明されています。それではどうしてイエスはマリアたちを見て怒られたのでしょうか。この説を採用する人たちはマリアたちがイエスがやってきてもラザロの死という現実はどうにもならないと考えて泣いていたから、その不信仰についてイエスは怒りを覚えられたのだと説明するのです。しかし、この説明ではラザロの甦りが「彼らに信じさせるためです」というイエスの言葉の意味が返って弱くなってしまうような気がします。彼らがすでに強い信仰の持ち主なら、この奇跡の必要性はなくなってしまいます。
そこで宗教改革者カルヴァンなどの見解では、この怒りはむしろマリアたちを絶望的な悲しみに追いやった死という現実、そしてそれを引き起こし、人を支配し続ける罪と悪の呪いに対する怒りだと説明するのです。おそらく、このほうがイエスのこのときの怒りの意味を理解し、彼の行動の一貫性を説明するのにはふさわしいものだと考えることができます。なぜなら、ここでイエスは確かに人を支配する死の現実に立ち向かわれ、その死と戦う戦士のように行動されているからです。
聖書の神は人の死をあたりまえの出来事と考えることはされないのです。むしろ、私たちを死へと追いやった罪の現実に激しい怒りを覚え、それと戦う決意をされる方なのです。そのために神は私たちに救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。そして私たちはこのイエスの戦いによって罪から解放され、死から命へと移されることができるのです。
4.イエスの死とラザロの甦り
①イエスを証しするラザロ
「こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた」(43~44節)。
「ここで手と足を布でぐるぐるにまかれたラザロがどうして墓から出てくることができたか」とう笑い話のような議論が聖書学者たちの間では起こっているのですが、そのことを究明するのはこのお話の本題とはあまり関係ないかもしれません。いずれにしても、このイエスの言葉によって死んだラザロは甦ります。このラザロに関して聖書は次の12章で彼への殺害計画がユダヤ人の間で立てられていたことを報告します。「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである」(9~11節)。
ラザロの存在がイエスのすばらしい力を示す証拠となっていたために、イエスを憎むユダヤ人たちには彼の存在も都合の悪いものになっていたのです。何度も語りますが、このラザロという人物はとても興味深い人物だと言うことができます。彼は有名なマルタとマリアの姉妹の陰でときには忘れられたような存在でした。しかも、この11章の物語でも彼は最初、死に瀕した病人として登場します。病床で彼はもしかしたらがんばったのかもしれません。「せめてイエスが来られるまでは」と、しかし彼はその力も尽きて死んでしまいます。そして、イエスが到着した頃には彼の死体は墓の中で腐り始めていたと言うのです。彼の発した言葉は一言も聖書に記されていません。彼が何かイエスのためにすばらしいこと進んでしたということも紹介されていません。しかし、彼の存在はイエスのすばらしさを表し続けているのです。これこそ、キリストに救われた者の姿ではないのかなと私は思います。私たちには何もできません。しかし、イエスはその私たちを救うことによって、私たちをイエスの立派な証人としてくださるのです。
②イエスの死によって命が与えられる
さて、イエスのこの行動によってユダヤ人たちのイエス殺害計画は実行段階へと移っていきます。ヨハネの福音書はイエスが民衆の前に行われた最後の奇跡としてこのラザロの甦りを紹介しています。この後のヨハネの福音書はイエスの十字架の死に対する準備を語る箇所と言えるのです。この関係を考えるときラザロの甦りはイエスの死と引き替えに起こっているとも考えることができるのです。つまり、イエスが死を決意されたからこそ、ラザロは甦ることができたと考えることもできるのです。
さきほど、この奇跡は私たちが「わたしは復活であり、命である」方を信じるために起こった出来事だということを学びました。それではなぜ私たちはこのイエスを「復活であり、命である」方と信じることができるのでしょうか。それはこのラザロの出来事が示すように、私たちに命を与えられるためにイエスが死んでくださったからです。私たちにとって最も重要なことはここで死んだラザロが一時的に甦ったことではなく、この甦りがイエスの死と引き替えに起こったと言う事実です。そしてこのことは私たちの死がイエスの死と言う現実によって、すでに命に変えられているということを示しているのです。つまり、神の子イエスの死こそが、私たちの復活と命を約束する確かな証拠であることを今日の箇所も私たちに教えていると言えるのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様。
私たちのためにイエスを遣わして、その死と引き替えに、私たちの上にあった罪と死の呪いをとりさってくださったことを感謝いたします。あなたの死によって「この病気は死で終わるものではない」というあなたの言葉が私たちの命の上にも本当のものとなりました。どうか私たちもあなたによって用いられたラザロのように、あなたの栄光とその力を証しする者としてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。