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2005.3.27「イエスは必ず復活される」

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章1~9節

1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。

4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子が

5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。

6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。

8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。

9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。


1.復活から始まったキリスト教

①日曜日の礼拝

 今日は復活祭の礼拝です。この復活祭、あるいはイースターは十字架上で死なれたイエス・キリストが三日後に墓から甦られた出来事を記念する日です。昔から、宗教の教祖や歴史上の有名な人物の伝記には不思議な出来事が共に伝えられています。たとえばお釈迦様は生まれたばかりなのに、立ち上がって、右手と左手で天と地を指さしながら「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられているようなものがそれです。しかし、その多くは後になってその人物を神格化するために作られた後代の人々が作った創作である場合が多いのです。しかし、今日、私たちが祝っているキリストの復活は後代の人間が作った創作ではありません。むしろこの復活という出来事こそキリスト教の原点と言っていいものなのです。

 私たちは毎週、日曜日の朝に礼拝を捧げます。ところが旧約聖書の律法には安息日、つまり神様を礼拝する日は週の終わりの土曜日と決められています。なぜ私たちのキリスト教会はこの律法の教えに反して、週の初めの日曜日に礼拝を守っているのでしょうか。それはこのキリストの復活が日曜日に起こった出来事だからです。そして私たちのキリスト教会の礼拝はキリストの復活に驚いて集まった弟子たちの集会から始まり、2000年の間、ずっとこの日曜日の朝に守られているのです。つまり、私たちがこのように日曜日に礼拝を捧げているのはキリストの復活という出来事が事実であることをそのまま証明していることにもなるのです。


②生存していたたくさんの証人たち

 キリストの復活の出来事からわずか20年後に記されているパウロのコリントの信徒への手紙一にはこの復活についての重要な証言が残されています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています」(15章3~6節)。パウロによればこの手紙が書かれたときにもまだ、キリストの復活を目撃したたくさんの証人たちが生存していたと言うのです。つまり、パウロがこの手紙の中で人の作ったいい加減な創作を書いたとしたら、それはすぐに分かってしまうはずなのです。結局この手紙が聖書の一部として大切に残されているのは、この多くの人々の証言によってパウロのこの言葉が真実であることが証明された結果だとも言えるでしょう。

 このようにキリストの復活は人間の作り出した創作ではなく、歴史上に起こった事実であることをキリスト教会の日曜日の礼拝と、また聖書の言葉は私たちに教えているのです。


2.ヨハネの視点

①資料と著者の意図

 私たち牧師が日曜日にこのように説教をする際には、あらかじめ何冊もの聖書についての参考書を読み、これからお話しする聖書の箇所について予習をします。そのとき私たちは同じ聖書の箇所をいろいろな角度から解説する資料をいくつも読んで準備するわけです。まだ説教をするのになれていない神学生時代に私は事前に準備したものを全部お話しようとがんばって、長い時間をかけて説教をした結果、聴衆のすべてを深い眠りに導いてしまった苦い経験を持っています。ですから、説教者は準備した全部語るのではなく、自分で資料を整理して、ポイントを絞り、どの部分を聴衆に語るべきかを選んでお話をします。つまり、このようにして語られる説教の背後には採用されなかったたくさんの資料が存在しているのです。

 実はこの福音書を書いた著者ヨハネも私たちのような説教者たちと同じ手順を踏んでいると考えることができます。ヨハネはイエスの弟子としてもちろん自分で経験した重要な証言を持っていましたが、それだけではなくイエスについて語られている重要な証言の資料をたくさん用いてこの福音書を記しているのです。そして、彼はおそらくその資料を自分の意図に沿って選択し、また採用しながらこの福音書に書いたと考えることができます。ですから同じイエスの生涯を伝える福音書の間にも微妙な相違があるのは、それぞれの福音書記者の編集の意図がそこに反映されて、それに沿って資料が選択されているからです。


②墓に向かったのは何人?

 今日の聖書の箇所でもヨハネは日曜日の朝、最初にイエスの墓に向かった人物を「マグダラのマリア」一人と記しています。ところが他の福音書ではマグダラのマリアを含めた数人の女性が墓に向かったことが記されているのです。ですから実際にはこのとき数人の女性が伴ってイエスの墓に向かったと考えることができます。ところがヨハネは自分の編集の意図に従って他の女性の存在を取り除き、マグダラのマリアの名前だけを自分の福音書に書き記したのです。おもしろいことに、ヨハネもまたこの福音書の中で実際に墓に向かった女性は複数であったことを、2節に登場するマリアの言葉の中に匂わせています。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」。ここでマリアは「わたしたちは分かりません」と語っています。ヨハネはおそらくこの後のイエスとマグダラのマリアの出会いの出来事を際だたせるねらいで他の女性の存在をこの福音書から取り去ってしまったのでしょう(20章11~18節)。


③どうしたら復活を信じることができるか

 ですから、ここで福音書を読む私たちが注意する必要があるのは、この福音書の著者ヨハネがどのような意図でイエスについての証言を編集し、この福音書の読者に何を伝えようとしているかと言うことを理解することにあります。ヨハネの福音書はおそらく、新約聖書の中ではずっと後の時代に記されたものと考えられています。先ほど引用したパウロの手紙が書かれたときにはまだイエスの復活を証言する人がたくさん生存していた訳ですが、そのような証人たちも数少なくなります。おそらくこの福音書を記したヨハネの周りには復活されたイエスを実際に知る人物はこのヨハネ以外にいなくなっていたのでしょう。そのような時代に彼はこの福音書を記しました。ですから、この福音書は自分の目でイエスの復活を確認することができない信仰者たちに、どうしたらこの出来事を信じることができるか。また、実際に私たち自身がどのようにしたら復活イエスに出会うことができるのかを教えようとする意図が貫かれているのです。

 たとえばこの後の20章にはイエスの十二弟子の一人ディディモと呼ばれるトマスについての有名な物語が登場します(24~29節)。彼はイエスの復活という事実を前に、自分が目で見て、実際にイエスに触って見なければそれを信じることができないと主張します。現代科学は人間の経験を土台に作り出されているものですから、このトマスは現代の科学者のようなことを言っているわけです。ところが彼が実際に復活のイエスを信じることができたのは、彼がイエスを見て、触ったからではなく、復活されたイエスの方が彼の前に現れて、彼の頑なな心を開いてくださったからなのです。その際に重要になるのはトマスが科学実験室で復活のイエスに出会ったのではなく、キリストの復活を証言し、またその出来事を讃美する弟子たちの交わりの中で起こったこと言うことです。つまり、ヨハネはキリストの復活を信じたいなら、キリスト教会の礼拝に、そしてそれを証言する信者の交わりに入ることがまず必要であることをここで教えているのです。


3.復活を信じたヨハネ

①映画『ベン・ハー』と原作者

 アメリカの名作映画「ベン・ハー」の原作者ルー・ウォーレスは元々、キリストの復活について懐疑的な疑問を抱いていた人物であったそうです。彼はキリストの復活が人間の作った創作で事実ではないと言うことを証明するために様々な資料を研究し、実際に聖地にも赴いて調査をしたと言います。しかし、彼はその課程で自分の意図とは反対にキリストの復活が事実であることを確信し、その結果、あの「ベン・ハー」の物語を作り出したと言うのです。しかしだからと言って、もし私たちが「ベン・ハー」を見て、そこからキリストの復活の科学的証明を求めようとするならその期待は大きく裏切られることでしょう。この映画にはそのような題材は一つも取り上げられていないからです。むしろこの映画で大切になってくるのは、憎しみと復讐心だけで生き続ける主人公ベン・ハーが最後にキリストの赦しと愛を体験して、その心が癒されていくところにあるのではないでしょうか。おそらく、このストーリーからこの原作者がキリストの復活を信じることができたのも、科学的な証明からではなく、このキリストの愛と赦しを体験し、その心が変えられたからではないでしょうか。おそらく彼はその経験の結果、復活の事実性を確信するようになったのです。


②もう一人の弟子は何を信じたか?

 今日の箇所でとても重要になってくるのは8節の言葉です。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」と記されています。実はこの後の9節では「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と言う言葉から、ここに登場するもう一人の弟子は結局、何を「信じた」のかと言う疑問が生まれてくるのです。この信じたと言う言葉にははっきりとその対象を示す目的語がありません。そこで一番、自然な理解はマグダラのマリアの「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」という言葉を受けて、イエスの遺体が何者かによって運び出されたと言うことを「信じた」と言うことになります。

 しかし、このマリアの証言についてある説教者は大変興味深い解説をしています。まず7節にはこのときのイエスの墓の内部の状態が詳しく説明されています。「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」。ここで「イエスの頭を包んでいた覆いが…丸めてあった」と言うときの「丸めてある」は、ギリシャ語言語では中身がすっぽり抜けた後のそのままの形を表すか、丁寧に畳んであったかいずれかの意味を表していると言うのです。そしてふつう何らかの理由でイエスの遺体を誰かが運び出すなら、その周りに巻かれたものと一緒に運び出すはずなのに、その中身だけがまるで消えたように覆いが残されていたと説明します。この状態を見るなら、「誰かが運び出した」というマリアの証言は事実に反していることが分かると言うのです。ですから、マリアの証言をもう一人の弟子が「信じた」という説明はこの聖書の描写からはむしろ自然ではなくなってしまうのです。


③もう一人の弟子は何を見たのか?

 そもそも、ヨハネはこの福音書の中でこの「信じる」という言葉をそのように簡単には用いていないのです。たとえば彼はこの20章の最後の部分で次のように語ります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(31節)。この文章から言えば、墓に入ったもう一人の弟子は、そこで「イエスは神の子メシアであると信じるため」の何らかの出来事を「見て、信じた」ことになります。

 そこで今度は彼が何を「見た」のかと言うことが問題になります。実は今日の聖書の箇所でヨハネは四回、「見る」という言葉を使っています。最初は1節のマグダラのマリアが「墓から石が取りのけてあるのを見た」というところ、次に5節でもう一人の弟子が「身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった」というところの「のぞく」はギリシャ語では1節と同じ単語が用いられています。この単語は本来「その光景が目に入った」というような意味を持った言葉です。

 次に6節のペトロが「亜麻布が置いてあるのを見た」というときの「見た」は最初の二つの言葉とは違う単語が原語では用いられています。この場合はむしろ「詳細に観察した」という意味がある言葉です。ところがさらにこの8節の「見る」は、また違う単語が原語では用いられているのです。そして、この場合の「見る」は外面的な目に見えるものを見たと言うよりも、その内側に隠された真実な意味を「見た」と訳すべき言葉だと言えるのです。つまり、もう一人の弟子は空になった墓の出来事の本当の意味を理解した。イエスの復活をここで理解したと考えることができるのです。


④愛の関係から見る

 それでは彼はどうしてイエスの復活の事実をここで「見る」こと、理解することができたのでしょうか。その鍵はこの最初に登場するもう一人の弟子につけられた説明です。「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と説明されています。イエスが弟子たちをえこひいきしていたとはあまり考えることができませんが、この場合、彼は「イエスの自分に対する愛を一番、理解していた弟子」と言ったほうがいいのかもしれません。この弟子は、この福音書を書いたヨハネ自身だという説が有力です。ヨハネは福音書を読むと元々、「雷の子」と呼ばれて、短気で簡単に人を裁き、また優越感と劣等感の間で苦しんだ人物であったようです。しかし、彼はそのような自分をどこまでも愛し、赦してくださった主イエス・キリストによってあの映画の主人公ベン・ハーのようにその心が癒され、変えられた人物です。彼はこの福音書やいくつかの手紙の中で熱心に「愛」を語り、「愛の使徒」と言われるようになったのです。

 この説明から彼はここで何らかの科学的証明を見出したのではなく、キリストの愛と赦しからこの復活の事実を信じるに至ったと考えることができるのです。キリストの愛を心から確信する彼にとって、空になった墓の情景はそこにおられたキリストが復活されたこと、またそのイエスが自分を今も限りない愛をもって愛し抜かれていることを知ったのです。

 他の説明によればここでこの人物が「もう一人の弟子」と呼ばれ、特定な名前が記されていないのは、この福音書の読者たちに「あなたがここに記されている「もう一人の弟子」になってほしい」という著者の願いがあったからだと言われています。つまり、ヨハネはこの福音書を読む私たちにもまずキリストの愛と赦しを知って欲しい、そうすればこの復活が事実であることをあなたは信じることができると教えていると考えることができるのです。

 もし、このイースターの日に復活された方が私たちと何の関係もない方なら、私たちはどうしてこの復活を心から喜ぶことができるでしょうか。しかし、この日に甦られた主イエスは私たちを限りない愛で赦し、生かしてくださる救い主なのです。私たちはこのキリストの愛を知っているからこそ、この復活が事実であることを今確信し、喜ぶことができるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 私たちのためにイエス・キリストをこの日に復活させられた驚くべきみ業に心から感謝いたします。空になった墓の姿からその背後に隠された復活の真実を確信し、信じたもう一人の弟子に私たちもなることができるようにしてください。み言葉と御霊を通して私たちに対するキリストの愛と赦しを確信させてくださり、私たちの頑なな心を開き、このすばらしいキリストの復活をますます確信し、喜ぶ者と変えてくださいますように。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2005.3.27「イエスは必ず復活される」