2005.3.6「イエスがその目を開かれた」
聖書箇所:ヨハネによる福音書9章1~9節
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7 そして、「シロアム(『遣わされた者』という意味)の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
1.呪いなのか祝福なのか
①全く違った判断
先日、勉強会で読んでいる米沢の田中信生牧師の説教集に次のようなお話が紹介されていました。ある日、一人の貧しい少年が波止場で荷物運びの仕事をしていました。ところがその作業中に彼は冬の冷たい海に落ち溺れてしまったのです。もうだめかと思われたとき、幸いにも近くにいた労働者たちが彼を見つけて助けてくれたのです。ところが、そこで少年は全く異なった話しをその労働者たちから聞くことになります。彼を助けた一人の労働者はこう語ります。「この海に落ちるなんて、お前は何て運の悪い奴だ。お前はきっと不幸な星の元に生まれて来たに違いない。きっとこれからも大変なことが起こるぞ」。ところがもう一人の労働者は少年に向かって彼とは反対にこう語ったのです。「この海から助けられるなんて、お前は相当、運がいい。お前の人生には強運がついているに違いない。きっと何かこれからすばらしいことが起こるぞ」と。この二人の言葉を聞いた少年は後者の労働者の言葉に耳を傾ける決心をしたと言うのです。この少年こそ後に起業家として名を残した松下幸之助であったと言います。このように私たちの人生に起こる出来事は、このお話と同じように全く違った見方で見ることが可能です。そしてその見方の内、呪いの言葉を選ぶか、祝福の言葉を選ぶかは私たち自身の決断にかかっていると言えるのです。
②不幸で、呪われた人?
今日のヨハネの福音書9章では「生まれつき目の見えない人」が登場しています。まずこの目の見えない人を見てイエスの弟子たちはイエスに次のように問うています。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(2節)。弟子たちは生まれつき目の見えない人を見て、「この人は何て不幸なんだろう。彼の人生は呪われているに違いない。どうして彼はこうなってしまったのだろう」と判断したのです。それがこのとき弟子たちが発したイエスへの質問を生む動機となっていた訳です。なぜなら、当時の人々は病気などの起こる原因をその人が犯した罪によるものだと考えていたからです。もっとも、このような考えは聖書の書かれた時代に限ることではなく、現代の日本で同じ見解をとる人がたくさんいるようです。この点では昔も今も人が考えることはあまり変わりがないようです。ともかく、この考えの背後には障害や病気になるのは不幸である、それは私たちの人生に対する呪いに違いないという見解が存在しているのです。
③苦しむことも恵み
これも先週の祈祷会で使ったテキストに登場するお話ですが。使徒パウロは皆さんもご存知のようにその生涯の間にさまざまな艱難に出会い、苦しみに会った人でもありました。ところが今、学んでいるフィリピの手紙はパウロが獄中から書いた手紙と考えられていますが、そこで彼は喜びと感謝にあふれた信仰生活を送っているのです。祈祷会ではパウロのこの喜びの原因が「苦しむこと」を悪いこと、つまり呪いからくるものではないことを知っていたからだとう言うことを学んだのです。それを証明するようにパウロはこのフィリピの信徒への手紙で次のように語っています。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(1章29節)。パウロはここで苦しむことも神様から与えられている恵みだとここで言っています。私たちは自分たちの人生に出来事を「これは祝福、これは呪い」と明確に区別できると考えます。しかし、パウロはむしろここで私たち信仰者に起こる出来事はすべて神様から与えられる「恵み」と理解できること教えているのです。このため不幸と呪いから解放されていたパウロは獄中にあっても喜ぶことができたと言うのです。
イエスの弟子たちも、そして当時の人々のほとんどすべてが「この人は何と不幸なんだろう」と考えていた生まれつき目の見えない人をご覧になられたイエスは次のように語ります。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。イエスはここで生まれつき目の見えない人の身の上を「彼こそ恵みを受けて生まれてきた人なのだ。彼の人生はこのことを通して神様の大きな御業が現わされる」と語っているのです。
もし私たちが自分の人生に起こる出来事をこのイエスの目を通してではなく、自分で勝手に判断しようとすれば、私たちの人生は不幸の連続、呪われた人生と考えてしまうかもしれません。またそう考えて、自分の人生の可能性を自分で奪ってしまうことになるかもしれません。しかし、私たちがこのイエスの目を通して自分の人生を見るなら、私たちはどこででも神様の準備してくださったすばらしい人生の祝福を見いだすことができるのです。なぜなら、私たちの救い主イエス・キリストは私たちに向けられた呪いのすべてを十字架の上で代わって受けてくださったからです。だからこそ私たちの人生もこの呪いからすべて解放されているのです。
2.見えているのは誰なのか
①見えることの不便さ
一人の剣豪が武者修行の旅に出かけました。その旅の途中のことです。彼はたいへん深い渓谷に渡された橋の前に立ちます。下を見下ろしてみると足をすくむような深い断崖、そんな場所にとても頼りなさそうな一本の木が橋としてかけられています。彼はなんとかその橋を渡ろうとするのですが、その思いとは反対に彼の足は前になかなか進みません。「一歩でも足を滑らしたら命はあるまい」と考えて、足下を見ると恐怖がますます彼を捕らえてどうしようもないのです。ところが、そこに一人の目が見えない旅人がやってきます。彼はその剣豪の見ている前を一本の杖をたよりに、簡単にその橋を渡って行ってしまったのです。そのとき剣豪はつくづく「見えるということは、返って不便なものなのだ」と思い知らされたと言うのです。なまじ見えるからこそ、余計な事柄が私たちを捕らえ、私たちの正しい判断を狂わせてしますことがあるものです。
②見えない者が見えるようになり、見る者は見えなくなる
この箇所で大変興味深いのはここに登場する生まれつき目の見えない人とそのほかの人々、特に当時のイスラエルの人々の宗教生活を指導する立場にあったファリサイ派の人々の「イエスは誰か」という問いに対する判断の違いです。生まれつき目の見えない人はイエスに目を開けていただくという奇跡の体験を通して、イエスが誰であるかを考えます。そして彼はファリサイ派の人々の厳しい尋問を受けながらイエスに対する認識を「あの方」(15節)、「預言者」(17節)、「神のもとから来られた方」(33節)と深めていき、最後には「主よ」(38節)とイエスに対する信仰を告白するまでに至ります。
一方のファリサイ派の人々はこの生まれつき目の見えない人の目をイエスが開いた奇跡が安息日、つまり律法で労働をしてはならないと定められた日に行われた医療行為と判断し、それを行ったイエスを罪人だと断定しています。そして、彼らは自分たちの見解のつじつまを合わせるために、彼らの目の前で「目が見えるようになった」と証言している人は、実は生まれつき目の見えなかった人とは全然違う別人だという愚かな証明をしようと躍起になっているのです(18~23節)。なぜなら、その証言を認めてしまえば、「イエスは罪人」だと言う彼らの判断が覆ってしまう恐れがあったからです。
つまり、目が見えるはずの人々は自分たちが「モーセの弟子」であり、立派な知識と判断力を持っていると言い張って、返って救い主イエスを最後まで理解することができません。そして、人々から「目が見えない。不幸で、呪われた人だ」と思われていた生まれつき目の見えなかった人がイエスを正しく理解し、救い主として受け入れることができたと説明しているのです。
自分の知識や知恵を誇る人は救い主を見いだすことができないことをこの物語は私たちに教えているのです。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(21節)とパウロもコリントの信徒への手紙第一の1章で語っています。生まれつき目が見えなかった人は自分が「見えない」ということを知っていました。だからその目を開かれた人こそ神の元から遣わされた方に違いないと考えたのです。私たちもむしろ自分の知識を頼りにするのではなく、自分は神様の前に何も知らない者であることを悟る必要があります。そして「私の信仰の目を開いてください」と心から願う者の祈りに答えて、神様は聖霊を遣わし私たちの霊的な目を開き、聖書を通して命に至る知恵と知識を豊かに与えてくださるのです。
3.イエスが見つけ出してくださる
①ヨハネの福音書の最初の読者たち
さてこの聖書の箇所にはファリサイ派の人々の「これはあなたたちの息子か」という質問に、恐れを感じてまともに答えられなかった両親たちの姿を紹介されています。ヨハネはこの両親の恐れがどこから来ていたのかを次のように説明しています。「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(22節)。この福音書の説明の言葉について聖書学者たちは歴史的な事実とのずれがあることを説明しています。なぜなら、実際にイエスを信じるキリスト者がユダヤ人の会堂から正式に追放されたのはこのずっと後、紀元85年頃だと考えられているからです。その証拠に使徒言行録ではペトロやヨハネたちがユダヤ人たちと同じように毎日、エルサレムの神殿で礼拝を捧げている様子が紹介されています。つまり、このときにもまだキリスト者は神殿から追放されていなかったことになります。聖書学者たちの見解によれば、この記述はおそらくヨハネの福音書の読者たちに向けて付け加えられた言葉だろうと考えます。なぜなら、彼らは紀元85年以降のキリスト者の会堂からの追放を経験し、ユダヤ人の迫害を受けていた人々だったからです。
ユダヤ人たちは紀元85年に自分たちが毎日祈る、18の祈りの言葉を改訂しています。その祈りの第12番目に次のような文章を付け加えたのです。「ナザレ人らと異端どもはまたたく間に滅び失せ、生命の書から消し去られ、義人とともにその名を記されることのないように。不義を退けたもう主よ、汝に栄光あれ」。毎日このような祈りを捧げ、キリスト者に激しい憎悪を抱くユダヤ人たちに迫害される人々こそ、このヨハネの福音書の読者たちだったと考えられるのです。そこでヨハネは彼らにこの生まれつき目の見えない人に起こった出来事を紹介することで、ヨハネの福音書の読者たちが今まさに経験している出来事にどのように対処すべきかを教えていると言ってよいのです。
②追放された者を見つけ出すイエス
ファリサイ派の人々の脅迫に合いながらもこの生まれつき目が見えなかった人はイエスのすばらしさをユダヤ人たちの前でどうどうと語ります。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」(27節)。この言葉を読むと彼はすでに自分もイエスの弟子であることを告白しているようにも聞こえます。このような彼の発言に対してファリサイ派の人々は実力行使し、彼を「外に追い出します」(34、35節)。この言葉は単に彼が建物の外に追い出されたということを語っているのではなくて、彼がユダヤ人の共同体から追放されたということを意味しているのです。
私たちは日本国民としてさまざまな義務と共に国家から保護を受けて生きています。しかし、もしその国籍が奪われてしまえば、私たちは国民が受ける恩恵をすべて奪われるだけではなく、この日本に住む権利も失ってしまうことになります。彼が受けた追放処分、またキリスト者が紀元85年以降に受けた追放処分はそのように彼らの実際の生活に深刻な支障を与え、生命の危機さえもたらすようなものだったのです。しかし、聖書はこの処分を受けた生まれつき目の見えなかった人がどうなったのかを次のように説明しています。
「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと…」(35節)。ユダヤ人の共同体から追い出された彼の元にイエスがすぐに訪れて、出会ってくださったと聖書は語るのです。行く宛を失って路頭に迷うはずの彼をイエスがすぐに見つけ出してくださったのです。そして、彼はこのイエスによって、自分の信仰を告白する機会を受けています(38節)。
この後のヨハネの10章にはイエスの語った真の羊飼いのお話がつづけて登場しています。今日の箇所から考えるとイエスはこの生まれつき目が見えなかった人を自分の羊として見いだし、その囲いに入れるためにやってこられた羊飼いであることが分かります。この人は偽りの羊飼いの声に耳を貸さず、イエスの声に聞き従って、その囲いに入ることができたのです。
ヨハネはこの物語を通して私たちに「あなたは誰の声に聞き従っていくのか」と問うているのです。私たちの人生に起こる出来事を見て、この世の価値観や、人の言葉は「そんな不幸なことはない、あなたはきっと呪われているに違いない」と語ります。しかし、真の羊飼いであるイエスは私たちの人生をご覧になって「神の業がこの人に現れるためである」と語ってくださいます。そして私たちがこのイエスの言葉に従うなら、私たちはイエスの羊とされ、その天国の囲いに導かれ、神様の準備してくださった真の祝福を受けることができるのです。そのような意味で、私たちもまたこの生まれつき目の見えなかった人にイエスが語られた言葉を、イエスが今私たちに向けて語られた言葉として聞き従っていくべきなのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様。
私たちもまた霊的な目が生まれながらに見えない者の一人でした。しかし、あなたはイエス・キリストを遣わして、その目を癒し、あなたを信じる信仰へと導いてくださったことを感謝いたします。しかし、私たちはこの世の価値観やさまざまな人々の言葉によって、あなたの祝福をすぐに誤解してしまう者たちです。聖霊を遣わして、あなたの恵みを感じ取り、感謝を献げる者としてください。
十字架の贖いを通して私たちの罪と呪いをすべて取り去ってくださった救い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。