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2005.4.3「イエスは生きておられる」

聖書箇所:ルカによる福音書24章13~32節

13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

14 この一切の出来事について話し合っていた。

15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。


1.本当に知っているのか

①自分の知識を悟る

 禅の教えを伝えるために作られた古い本の中に次のような逸話が紹介されています。

 一人の博学な僧がいました。彼は自分が様々な経文を読破し、誰よりもたくさんの知識を持っていることを誇りとしていました。彼は常日頃、経文も録に読むことなく、ただ座っているだけの禅僧たちに大変批判的な見解を持っていました。「そんなことで大切な悟りが得られるはずがない。私が彼らの化け皮をはがしてみせよう」とある日、彼は一人の禅僧のところに赴き、経文についての論争を仕掛けようとしたのです。ところが、その禅僧は彼の話しにただ耳を傾けて聞いているだけで、何の意見を語りません。「きっと、私の知識に恐れをなして、何も言えないのだな」と彼は思いました。そこで彼は「きっとこの禅僧もこれで自分の無知をさとり少しは経文を勉強し始めるだろ」と自分の使命は終えることができたとばかりに、その場を立ち去ろうとしました。気づいて見るとあたりは日が暮れて薄暗くなりつつありました。禅僧はろうそくの火をともして彼を玄関まで見送ります。その火をたよりに彼が自分の草履のひもを結ぼうとしたときです。禅僧は突然、持って来たろうそくに息を吹きかけてその炎を消してしまったのです。光を失った彼はどうやって草履を結んだらよいか困ってしまいます。「どうしてこんな意地悪なことをするのか」と思いながらも、彼はすぐに次のことに気づいたと言うのです。「光がなければ自分は草履も履くことができない。いままで、自分はあらゆる経文の知識に通じているということを誇り、そこで安心していたが。肝心なときにその知識は本当に自分のためになるのだろうか…」。彼は暗闇の中で自分の知識の無力さに気づき、その場でその禅僧に入門を申し入れたと言います。


②危機の中で崩壊する価値観

 難し禅問答の解説をしなくても私たちもまたその人生で同じような体験をすることがあるはずです。思ってもいなかったような重大な人生の危機に遭遇したとき、私たちは今まで自分の持っていた人生観や、価値観が肝心なときにまったく役に立たないことに気づくときがあります。光の下であったらそのような知識でも十分に通用したのに、まさに光のまったく見えない、闇の中で私たちのその知識は無力さを知ることになるのです。

 今日の聖書の箇所に登場する二人の弟子たちもきっとそのような危機的な状況に追い込まれていたのかもしれません。彼らは確かにここで自分ではどうしてよいのか分からないような状態に追い込まれていたのです。

 彼らはほんの数日前に主イエス・キリストの十字架の死を経験していました。自分たちの望みをかけていたイエスが無惨な形で世を去ってしまったのです。そして不思議なことに、今度は墓に葬られたイエスの遺体がなくなっていたというのです。その上で彼らは「主イエスが復活した」と言う知らせを聞くことになったのです。しかし、この二人が確認できたのは確かにイエスの遺体が墓からなくなっていたと言う事実だけで、彼らはますます混乱してしまっていたのです。

 そこでこの二人の弟子はエルサレムからエマオという町に向かって旅立ちます。「エルサレムに留まっていても何の希望もない」と思ったのかもしれません。おそらくエマオは彼らの出身地で二人はそこに帰って、イエスの弟子となる前の生活に戻ろうとしたのかもしれません。混乱する彼らに考えることができることは今はそのようなことだけしかなかったのです。


2.何で見えなかったのか

①自分たちの期待

 今日の箇所ではこの二人のところに復活されたイエスが現れるという話しが紹介されます。ところが彼らは16節で説明されているように「目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と言うのです。聖書は彼らが復活されたイエスを見ることができなかった理由は、イエスの姿が彼らに分からないように変わってしまったからではなく、彼ら自身の目が遮られていたからだとここで説明しているのです。ですから問題はイエスの側ではなく彼ら自身の側にあったことになります。

 それでは彼らはどうして復活したイエスに出会いながら、その方をイエスだと理解することができなかったのでしょう。どうして彼らの目は遮られていたのでしょうか。それは彼らが復活されたイエスを見つけるために全く見当違いのところを捜していたからです。

 まず、聖書はこの彼らの見当違いを次のように示しています。

「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(19~21節)。

 彼らはイエスが「行いにも言葉にも力ある預言者」だと言うことは知っていました。しかし、彼らはイエスが預言者以上の方であり、また神の御子であったことをここでは認めるまでに至っていません。また、その神の御子が何のためにこの地上に来られたのかも十分には理解していなかったのです。それに反して彼らはイエスがイスラエルを異邦人の手から解放するために来られた地上的な指導者であると考えています。つまり、彼らは目の前のイエスを自分たちの期待を通してだけ見つめ、理解しようとしていたのです。それでは本当のイエスが現れても、それを理解することはできなくなってしまうはずです。

 このように二人の弟子は、自分たちが今まで抱いていた期待、つまりイスラエル王国の再建をイエスが実現してくれると信じて来ました。ところが、イエスはその期待に反して、十字架で死んでしまったのです。そこで彼らが復活されたイエスを理解するためには彼らの持っていたイエスに対する期待が間違いであり、本当のイエスは何をされるためにこの地上に来られたのかを知る必要があったのです。ところが彼らはそれをすることなく、あくまで自分たちの期待を通してだけイエスを捜そうとしていましたから、復活の主が現れても、その方をイエスだと理解することはできなかったのです。


②人間の経験

 彼らがイエスを分からなかったもう一つの理由があります。それは次のような聖書の箇所に登場する彼らの証言から推測することができます。「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」(24節)。この彼らの言葉から分かるように彼らがイエスの復活を聞いたときに、彼らはその復活されたイエスを捜しに墓に向かっています。しかし、ルカによる福音書はこのすぐ前の箇所でイエスの墓に訪れた何人かの婦人たちに語った次のような天使の言葉を記しています。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5~6節)。天使はここで生きているイエスを捜しに墓にやってくるのは無意味だとはっきりと教えています。ところが弟子たちはその言葉にもかかわらず、イエスの墓にやって来て、イエスを捜そうとしたのですから復活されたイエスに会うことはできいはずです。

 科学的に考えてみても死んだ者が甦るはずがないと私たちは考えます。人間の科学は何度も言うように私たち人間の経験を土台にして作られているものです。ですから、この科学では人間の経験を超えるものを理解することは到底できないのです。しかし、彼らはこのときイエスの復活を科学的に証明しようとする人と同じように、自分たちの経験の範囲の内で捜そうとしていました。だから彼らはイエスの墓に向かって死者の中にイエスを見つけ出そうとする愚かな行為を行ったのです。これでは、彼らの前に復活されたイエスが現れても、彼らはそれを理解することができないはずです。

 つまり、彼らは自分たちの期待と人間の経験というものを通して復活されたイエスを捜そうとしたのです。彼らは全く見当違いのところを捜しています。だから彼らの目は遮られて、彼らの前におられる方がイエスだと理解することができくなってしまったのです。


3.復活のイエスとどこで出会うのか

①追いかけてくるイエス

 イエスを見失って絶望し、自分の元の居場所に帰ろうとする二人、エルサレムから離れる二人の旅は、むしろ希望からどんどんと遠ざかっていくようなものでした。ところが、ここでは復活されたイエスが彼らを追いかけて来られるのです。

 金曜日のフレンドシップアワーで「自分を信仰に導いた人は誰か」と言うことを話し合う機会がありました。不思議なことに参加者のほとんどは誰か特定な人ではなく、直接的、あるいは間接的な何人もの人々との関わりのなかで自分が信仰に導かれたことを語り合いました。

 かつて、私たちもまたこの二人の弟子と同じように本当の希望に背を向けて、人生の旅路を歩んでいました。そこで何人かの人に出会いキリストの福音を聞くことによって、今、キリストを信じる者とされたのです。その何人かの人は私たちの家族であったり、友人であったりするかもしれません。しかし、私たちがこの物語を読むとき、実はその人たちを通して復活されたイエス自身が私たちを導いてくさったと言うことに気づかされることがあるのではないでしょうか。


②御言葉を通して

 さて、この二人の弟子は今までお話したように、まったく見当違いのところで復活されたイエスを捜そうとしていまいた。ですから、せっかく目の前に復活されたイエスが現れてもそれを理解することができなかったのです。そこで復活されたイエスはこの二人の遮られた目を開くために二つの重要なことをされています。つまりイエスはここで「生きている自分を見つけ出すためにはこうすればよいのだ」と言うことを二人に教えているのです。

「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(25~27節)。ここでイエスは二人が驚いて、その眠っている心の目を覚ますような驚くべき御業を行っているわけではありません。むしろ丁寧に聖書についての解き明かしを、特にメシアについて聖書はどのように教えているかを彼らに語って聞かせているのです。そして、このイエスの聖書の解き明かしにより彼らの閉ざされた心に光が少しずつ差し込んでいきます。彼らはこのときのことについて最後のところでこう語っています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。

 奇跡は確かに起こっていました。しかし、それは聖書の言葉の解き明かしによって起こった彼らの心の変化でした。今もイエスは私たちの頑なで石のようになっている心を、聖書の言葉の解き明かしを通して変化させてくださるのです。イエスの遣わされる聖霊はこの聖書の解き明かしを通して今も私たちの心に奇跡を起こしてくださいます。ですから私たちもまた聖書の解き明かしを通して、この二人の弟子のように「わたしたちの心は燃えていたではないか」という経験し、復活されたイエスと出会うことができると聖書は教えているのです。


③聖餐式にあずかる

 さてこの二人の弟子たちが最後に復活されたイエスをはっきりと理解することができたのは次のようなことを通してだったと聖書は教えます。

「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった…」(30~31節)。

 イエスは十字架にかかられる前の夜に弟子たちを集めて最後の食事をされました(22章14~20節)。このときのイエスの仕草と同じ行動がこの食事の席で示されたときに二人の弟子の目は開かれて、目の前におられる方がイエスであるとはっきりと分かったというのです。最後の食事にあずかることができたのは聖書によれば「使徒」たち、つまり十二人の弟子と記されていますから、この二人の弟子がその場所に一緒にいたとは考えられません。ですから、彼らが最後の晩餐のイエスの仕草を思い出して目の前の人物がイエスだと分かったのだとは言えないかもしれません。ですから、むしろここではイエスが最後の食事の席で制定された聖餐式という儀式に参加する者は、使徒たちのように最後の食事の席にいなかった者でも復活されたイエスを見出すことができるようにされることを教えているのです。

 聖餐式は十二使徒のような特別な人物たちだけに与えられたものでなく、キリストを信じ、復活されたイエスに出会いたい、その姿を信仰の目を通してはっきりと理解したいと言う人のために設けられたものです。ですから、私たちは今でも聖餐式を通して復活されたイエスに信仰の目を通してお目にかかることができるのです。

 このように福音記者ルカはこのエマオに向かう二人の弟子と復活されたイエスとの出会いの物語を通して、私たちに復活されたイエスを見つけ出す方法を教えています。それは特別なことではありません。聖書の解き明かしに耳を傾け、キリストの定めてくださった聖餐式に加わること、つまり教会の礼拝に参加することなのです。そして私たちの遮られた目は、この礼拝の中でイエスの遣わされる聖霊によって奇跡を体験し、復活されたイエスが私たちと共に今も生きておられることを確信することができるようにされるのだと教えているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 天地万物を創られ、すべての生ける者に命を与えられたあなたは、死者の中からイエス・キリストを復活させる力をお持ちの方です。それなのに私たちは自分たちの期待と経験を通して、あなたの御業を判断し、むしろあなたの私たちと同じ存在のように引き下げてしまう愚かな者たちです。しかし、エマオに引き返そうとした弟子たちと同じように希望から離れ去ろうとする私たちに、あなたはキリストを遣わして、この信仰を与えてくださいました。どうか、あなたの尊い礼拝を通して、復活されたイエスに巡り会い、その方と生きる人生のすばらしさを味わうことができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2005.4.3「イエスは生きておられる」