2005.5.1「みなしごにはしておかない」
聖書箇所:ヨハネによる福音書14章15~21節
15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
1.みなしごにはしない
私は数年前に親しい友人を肺ガンで天に送りました。病状の進行は思ったより早かったのですが、彼はそれでも最後まで苦しい治療を受けながら生還の望みを捨てることがありませんでした。なぜなら、彼には当時5歳になる娘さんがおられたからです。「自分も幼いときに母親を病気で失った。あのつらい気持ちを娘にさせたくない」。そう言いながら、賢明に病気と闘いました。この友人の気持ちは誰でも幼い子を持ったことのある親であるなら、理解できるものではないでしょうか。
先週に引き続きイエスの語られた「別れの説教」から学びます。イエスはユダヤ人にたちに逮捕され、十字架刑にされる前の晩に親しい弟子たちを一室に集めて、このお話をされました。そこでイエスは自分が十字架にかけられるのは何のためなのか。この出来事は弟子たちを不幸にするものではなく、むしろ祝福を与えるものであることを説明されました。だからこのとき「心を騒がしてはならない」とイエスは弟子たちに語られたのです。
今日の部分ではイエスがこの地上からいなくなった後、そこに残された弟子たちはどうなってしまうのか。そのような不安に答える内容がイエスの口から語られています。イエスの目から見れば、自分がいなければ何もすることができない幼子のような弟子たちでした。また、前回にも学びましたように、このヨハネの福音書はイエスの地上の生涯を知らない、新しい世代のクリスチャンのために記された書物であると考えられています。ですからこのメッセージは今、イエスを信じている私たち自身に向けられたものであると考えてよいのです。そのような意味で、私たちもまたイエスにとって幼子のようなものたちです。しかし、イエスはここで私たちに「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束されています。それではイエスはこの約束をどのように実現してくださるのでしょうか。イエスがいなければ何もできない私たちをどのようにして、天に昇られたイエスは助けてくださると言うのでしょうか。今日はそのことについて少し学んでみたいと思います。
2.イエスを愛し、その掟を守る
まずいエスはここで「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(15節)と語っています。そして今日の朗読箇所の最後の部分でも「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」(21節)と原因と結果が逆になりますが、同じ言葉を繰り返して語られています。つまり、「イエスを愛する」ことと「イエスの掟を守る」ことはコインの裏と表のように切っても切り離せない関係にあることが示されているのです。
イエスが復活された後にガリラヤ湖で弟子のペトロと再会されたときに、イエスがペトロに問うたのは「あなたはわたしを愛するか」という質問でした(21章15~19節)。今日の箇所からこの質問はペトロにだけではなく、イエスを信じる者すべてに向けられた質問であることがわかります。イエスはこの質問に「はい」と答えたペトロに「わたしの羊を飼いなさい」という指示を与えられています。ペトロにとってその指示はイエスに代わって、信仰者の群れを導く重要な使命を受けたことを意味していました。今日の箇所では「わたしの掟を守る」と言う言葉がその替わりに語られています。ユダヤ人にとって「掟」と言えば、モーセの十戒に代表される律法でしたが、ここでの「掟」はわざわざ「わたし…」という言葉がつけられていますから、モーセの律法ではないことがわかります。ヨハネはその手紙の中でこの掟について次のように解説しています。
「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(ヨハネ一3章23節)。
この言葉から分かるように、イエスの掟とは私たちがイエスを信じ、互いに愛し合うこと。つまり、信仰者の交わりを続けることを意味しています。おそらく、それはイエスを中心に今まで維持されてきた弟子たちの交わりが同じように続けられること、またそれがさらに強まることを意味しています。しかし、中心であるイエスがいなくなってしまうのに、どうしてその交わりこれからも可能だとイエスは語るのでしょうか。その理由をイエスは自分が天から送る「弁護者」、「真理の霊」つまり私たちの聖霊なる神にあることを続けて説明されるのです。
3.聖霊なる神の働き
①別の弁護者
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(16~17節)。
ここではイエスが私たちのために天から遣わしてくださる聖霊が「別の弁護者」と呼ばれています。「別の弁護者」ということは聖霊の他にも私たちを弁護してくださる方がいるということになります。重要な裁判が行われるときに大勢の弁護士が弁護団を作って、被告の弁護にあたるように、私たちのためにも弁護団が作られているということがイエスのこの言葉から分かるのです。もちろん、この弁護団のリーダーはイエス・キリストご自身です。天に昇られたイエスはそこでいつも私たちのために「とりなし」、つまり私たちを父なる神の前で弁護してくださるのです。しかも、イエスはその私たちがいつも困ることがないように「別の弁護者」である聖霊を私たちの元に派遣してくださるのです。しかも、この弁護者はイエスと同じように私たちを最後まで見捨てることがありません。いつまでも私たちと共にいてくださる方だと言うのです。
②私たち自らがその存在を証明する
イエスは次にその弁護者の存在をこの世は見ようともしないし、受入れることもできないと語った上で、あなたがたはその霊を知っていると語ります。なぜなら、その霊はイエスを信じる私たち一人一人の内に共にいてくださるからだと言うのです。
聖霊の存在は科学的な証明ではなく、私たちの信仰を通して確認することができるものだと言うのです。どうして、イエスの十字架を前にして逃亡してしまった弟子たちが、イエスを信じるためにもう一度集まり、今度は命がけでイエスの福音を地の果てまで伝えようとしたのでしょうか。その変化を説明するのはこの聖霊の働き以外にありません。イエスなしには何もすることのできない幼子のような人々を、聖霊は導き、イエスの福音の証人として生きることができるようにしてくださったのです。これは私たちの場合も同じです。私たちがイエスを信じることができるのはどうしてか、信仰生活を、教会生活を続けることができるのはどうしてなのでしょうか。それは私たちが他の人にくらべて能力があるからでも、力があるからでもありません。聖霊が私たちをそのようにしてくださるのです。ですから、イエスを信じ続けることができる私たちは、自らの内にこの別の弁護者が生きて働いていてくださることを知ることができるのです。
4.私たちの存在の根拠
①イエスの再臨
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(18~19節)。
イエスは私たちのことを「みなしごにはしない」と約束されています。そのために別の弁護者である聖霊を私たちに送ってくださると約束された上で、ここではさらにイエス自身が「あなたがたのところに戻って来る」と約束してくださっています。イエスは私たちのために再びこの地上に来てくださるのです。イエスの再臨、世の終わりの出来事を多くの人々は興味本位に取り上げ、聖書の言葉を勝手に解釈して人々を惑わします。その多くは私たちの心を不安にさせ、恐怖を与えています。しかし、イエスを信じる者にとって実際のイエスの再臨はそのようなものではないことがこの聖書の言葉からわかります。イエスは私たちがさみしがることがないようにともう一度戻って来てくださると言うのです。
子供の頃に家で留守番をしながら両親の帰りを待った思い出のある方もおられると思います。いつもは親に甘えてばかりいる子供がひとりぼっちで心細くなるとき、「はやくお母さん帰ってこないからな…」と心待ちにするように、私たちもそのような気持ちでイエスを待つことができると言うのです。やっと帰ってきた母親の顔を見てほっとするように、私たちもイエスに再びお目にかかることができるとき豊かな喜びを味わうことができるのです。そのように、私たちは私たちのために帰って来てくださるイエスを心からの喜びを持って待つことができるようにされているのです。
②信仰生活の主人公は神
次にイエスは、これからは世は彼を見ることができないが、信じる私たちはイエスを見ることができると語ります。これはイエスの存在を私たちはいつも信仰の目を通して確信することができると語っているのです。そしてその根拠となるような言葉が次に語られています。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。この言葉が興味深いのは、「わたしが生きている」つまり、「イエスが生きている」と言う言葉が現在形で表記された、その上で「あなたがたも生きることになる」と私たちの生が未来形で表記される点です。私たちの生の根拠はイエスが生きておられるという事実の上にあると言うことが語られているのです。
私たちは信仰生活の中でときどき大きな勘違いをすることがあります。信仰生活において主人公は私であり、その対象が神様であると考えてしまうことがあるのです。ですから、私たちの心が変化して、信仰心が小さくなってしまったかのように感じると、神様まで小さくなり、どこかに行ってしまったのではないかと思ってしまうのです。しかし、事実はそうではありません。信仰生活の主人公は神様であり、その対象が私たちなのです。神様が信仰を与えてくださるからこそ、私たちは神様を信ずることができるのです。つまり、イエスが生きておられるからこそ、私たちは信仰者として生きることができるのです。
先日、夜の教理の学びでルカによる福音書に紹介されている徴税人ザアカイとイエスとの出会いについて学びました(19章1~10節)。エリコの町にやってこられるイエスを徴税人ザアカイは一目でいいから見ようと考えます。ところが彼は群衆に遮られて、イエスを見ることが出来ません。それでイチジク桑の木に上ってイエスの姿を見ようと考えたのです。ところがそこで驚くべきことが起ります。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」」(5節)。
このイエスの「ぜひあなたの家に泊まりたい」という言葉は、「あなたの家に泊まることに決めていた」という意味の言葉です。ザアカイにはこのイエスとの出会いがあたかも偶然のように思えたかも知れませんが、イエスの側から見れば、それは最初から計画された出会いだったということがこの言葉から分かるのです。
信仰生活はいつも私たち人間の側から見るなら不確かな、頼りのない者になってしまいます。しかし、それを神様の側から見るなら、天地を創造される前から決められた計画に従って実現している、確かなものと言えるのです。私たちはその確かさを、私たちの人生の主人公とその根拠が神様であることを認めるときに自分のものにすることができるのです。
「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」(21節)。
ここで最後にイエスが語られている「その人にわたし自身を現わす」という言葉は「その人にわたし自身をはっきりと見えるようにする」という大変強い意味を持った言葉になっています。誰も疑うことができないほどに、はっきりとご自身を示してくださるとイエスは私たちに約束してくださるのです。イエスの復活を疑ったトマスが、イエスの姿を見て「わたしの主、わたしの神よ」(20章28節)と告白せざるを得なかったように、私たちの信仰を確かなものにしてくださるとイエスは言ってくださっているのです。
このように信仰生活は孤独な旅ではありません。ですから私たちはみなしごではないのです。なぜなら私たちを助けるために聖霊がいつも私たちを導いてくださるからです。私たちのためにイエスがもう一度、この地上に戻って来てくださるからです。私たちがこの大弁護団に囲まれて、信仰生活を送ることができるのはなんと幸いなことでしょうか。その幸いをイエスはここで私たちに約束されているのです。
…………… 祈祷 ……………
天の神様。
私たちのためを弁護するためにイエスは今、天におられます。そこから私たちのために別の弁護者聖霊を遣わして私たちを助けてくださいます。世はその真実を知ることができませんが、あなたは信じる私たちにそのことを日々明らかにしてくさいます。私たちはみなしごではありません。あなたによって守られ、導かれることを感謝いたします。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。