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2005.5.15「霊が語らせるままに」

聖書箇所:使徒言行録2章1~11節

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア

10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


1.信仰生活と聖霊の働き

①私たちに与えられた神

 今日は「聖霊降臨日」、「ペンテコステ」の出来事をお祝いする礼拝です。そこで、今日はこのペンテコステの日に起った出来事の一部を紹介する聖書の箇所から学びます。そこから、この日に起った出来事が私たちキリスト教会にとってなぜ特別に記念すべき出来事なのかについて考えてみたいのです。

 このペンテコステの日にエルサレムに集うイエスの弟子たちの集団に聖霊が降りました。聖霊の働きはこれ以前にもたびたびあったことが聖書には記されています。たとえばイエスを荒れ野の誘惑に導き、ヨルダン川での洗礼の際には鳩のような姿でイエスの上に降ったのも聖霊でした。それなのになぜ、教会はペンテコステの日に聖霊が降った出来事をとても特別大切に扱うのでしょうか。それは主イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった救いの出来事とこの日の出来事が大きな関係があるからです。

 私たちが教会でたびたび学んでいるハイデルベルク信仰問答の問53には「『聖霊』について、あなたは何を信じていますか」という問いに答えて、次のような説明が記されています。「第一に、この方は御父と御子と同様に永遠の神であられる、ということ。第二に、この方は私たちに与えられたお方でもあり、まことの信仰によってキリストとすべての恵みにわたしたちをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです」。この答えは第一の部分で聖霊が三位一体の神秘的な姿を持つ神ご自身であることを証言しています。そしてその後で、その聖霊なる神が私たちに与えられ、キリストとそのすべての恵みに私たちをあずからせてくださる働きをするのだと説明しているのです。

 つまり、この聖霊がいないなら、私たちとイエス・キリストは何の関係もなくなってしまうと言うのです。キリストがその命を通して十字架上で勝ち取ってくださった救いの恵みのすべてをこの聖霊が私たちのものにしてくださるからです。また復活されたキリストは私たちといつまでも共にいてくださると約束されています(マタイ28章20節)。その約束もこの聖霊の存在を通して私たちの上に実現するものなのです。ですからこの聖霊がいなければ、私たちの信仰生活は成り立ちません。もし、聖霊のおられない信仰生活があるとしたら、それこそその信仰は独りよがりの、虚しい生活でしかあり得ないのです。


②聖霊なされる奇跡

 先日のフレンドシップアワーで「あなたが体験した奇跡を分かち合ってください」という問いが出て、私たちは奇跡について少し考えることができました。ふつう、奇跡と言うと私たちは聖書に登場するモーセの物語や、特に福音書に記されたキリストのなされた超自然的な御業を想像します。しかし、奇跡はこのような御業に止まらず、私たちの世界に現わされる神の御業全体を語るものと言っていいのです。ですから神様が実際に私の人生に介入されて、私の人生を導いてくださる出来事も「奇跡」と言っていいのです。それならば、私たちが今、神様を信じて、信仰生活を送ることできること、今朝もこのように礼拝に出席できることはすべてこの神様のなされている奇跡と言えるのではないでしょか。聖霊は私たちの人生に働いてこの奇跡を起こし、私たちの信仰生活を導いてくださるのです。また、私たちの教会の存在もこの聖霊の働きによって成り立っているのです。だからこそ、この聖霊が弟子たちのところのところに与えられたペンテコステの出来事をキリスト教会は大切な出来事として記念し、祝い続けてきたのです。


2.キリストの恵みを私たちのために収穫する聖霊

①ユダヤ人たちの収穫感謝祭

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(1~4節)。

 ユダヤ人たちの祭り「五旬祭」つまり「ペンテコステ」の日にこの出来事は起りました。この五旬祭はもともとユダヤ人たちの守っていた大切な祭りの一つだったのです。「過越の祭り」、「仮庵の祭り」、そしてこの「五旬祭」の三つの祭りをユダヤ人は最も大切なものとして守っていました。その中でもこの「五旬祭」は元々ユダヤ人たちが収穫を神様に感謝して祝った祭であった言います。

 アメリカではサンクスギビングという祭りがとても大切にされています。「感謝祭」ですねこのお祭りはアメリカ大陸に渡った最初の人々がその入植地で得た作物を記念した出来事から始まります。感謝祭は11月ですから、日にちは違うのですが、その意味はこの聖書の五旬祭と同じだと言えます。収穫を感謝する。何に感謝をするのか、それはその収穫を与えてくださった神様に感謝を捧げる日です。豊かな実りを与えてくださった神様に感謝を捧げる日がこの「五旬祭」でした。


②聖霊が与えてくださった収穫

 この五旬祭の日、つまりユダヤ人たちの収穫感謝祭の日に聖霊が弟子たちの群れに降ったということは大変に大きな意義があると思います。それはどうしてかと言えば、聖霊もまた私たちに大きな収穫をもたらしてくださる方だからです。それでは聖霊が私たちに与えてくださる収穫とはいったい何でしょうか。それはキリストが十字架の御業を通して勝ち取ってくださったすべての祝福です。キリストの十字架は私たちの救いのために十分で完全な実りをもたらしました。そしてその実りを収穫して私たち一人一人に分け与えてくださるのがこの聖霊の大切な働きなのです。ですから、私たちが今、信仰生活で分かち合うことのできるすべての恵みはキリストの十字架を通して聖霊が与えてくださるものなのです。

 私たちの信仰生活は私たち自身の努力によって成り立つものではありません。ただ、神様がイエス・キリストの十字架を通して実現し、聖霊によって与えてくださるこの恵みによって成り立っているのです。このことを知る私たちは五旬祭を祝う人々や感謝祭を祝う人々のようにその収穫、キリストの十字架の恵みを与えてくださった神様に感謝を捧げることができるのです。つまり、それがこのペンテコステを祝う意味であり、私たちがこの礼拝で取るべき大切な姿勢なのです。


3.神の偉大な御業を語らせる聖霊

①理解できる言葉

 さて、エルサレムに集うイエスの弟子たちはこの日、彼らの上に降った聖霊によって「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と聖書は記しています。この箇所の最後のところではこの出来事を身近で目撃し、体験した人々が「…彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(11節)と証言しています。

 この証言によれば弟子たちがこのときにしゃべり始めた言葉は「ほかの国々の言葉」でしたが、「神の偉大な業を語っている」とそこに居合わせた人によく分かるような言葉であったと言っているのです。初代教会では特に「異言」という特殊な賜物が神様から信徒たちに与えられていたことが聖書の記述から分かります(コリントの信徒への手紙一14章)。ところがこの異言の場合は神を讃美する言葉ではありましたが、それを解き明かす特別な賜物を持った人がいないと、それは何をしゃべっているのかわからない不思議な言葉であったと言うのです。この異言に対して、この日にイエスの弟子たちが語った言葉は様々な国々の言葉ではありましたが、それぞれ神の御業を語る、その内容を理解できる言葉であったことが分かります。このような意味ではこの日、弟子たちが語った言葉は「異言」ではなく、神の御業を語る「預言」であったとも考えることができるのです。


②信じる者を通して福音を証しする聖霊

 この聖霊を受けた弟子たちの一人ペトロはこの後、直ちにイエス・キリストの救いの出来事を人々に大胆に語りはじめています(14~42節)。この出来事から分かるのは、聖霊は私たち信徒の内に働きて、私たち一人一人を「神の偉大な業を語る」者としてくださると言うことです。ですから私たちはこのペンテコステの出来事を教会に一時的に起った不思議な出来事と理解してはいけないのです。なぜなら、「神の偉大な御業」を語る出来事は教会を通して今も同じように続いているからです。つまりこのペンテコステの出来事はこの日からキリスト教会の上に起り続けて、終わってはいないと言えるのです。私たちは自分たちの信仰生活を通して、キリストの福音を証しし、神の偉大な御業を宣べ伝えています。それはこのペンテコステの日に起った出来事と同じ聖霊の御業によるものなのです。

 また、キリスト教会はこのペンテコステの日を教会の誕生日として祝いました。それはこの日に降った聖霊がイエスの弟子たちを通して、福音を大胆に宣べ伝える業を始められたからです。ペトロはその聖霊によってキリストの福音を説教をしたのです。そしてこの福音の宣教によってキリスト教会は誕生したのです。


4.聖霊によって一つにされる世界

①人間の罪を抑止する異なった言葉

 今日の礼拝の最初に読まれた旧約聖書の箇所は「バベルの塔」という不思議なお話を記しています。今でもイラクに行くと、ここが「バベルの塔」であったらしいというところが残されていると言います。この出来事が起る以前、人類はみな同一の言葉を話して、意思疎通をしていたと言うのです。ですから私たちのように必死になって難しい外国語を学ばなくてもよかったわけです。難しい言葉を習うことなくいろいろな国々の人々とお話ができたら、どんなにすばらしいだろうと私たちはいつも思っています。しかし、神に背を向けて歩もうとする人間は誰もが意思疎通可能な言葉を使って返って悪用してしまったことをこの聖書は教えているのです。

「彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った」(創世記11章4節)。

 この「天まで届く塔」は人間自身が神に代わろうとすること、自分たちには神は必要がないと言う人間の思いを象徴するものでした。ですから、この人間の過ちをご覧になった神は「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」(11章6~7節)と決断され、それを実行されたのです。つまり、聖書によれば世界に様々な言葉が入り交じって存在するのは、私たちに人間が犯す過ち、罪を抑止するためだと言うのです。


②聖霊によって一つのことを語る

 このペンテコステの日にエルサレムに集まっていた人々が使っていた言葉はこの世界に存在する言語の中ではわずかな国の言葉でしかなかったかもしれません。しかし聖書はここで「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」(5節)と語るように、彼らは世界のあらゆる国々の人々を象徴して登場する存在であったと考えることができるのです。そこで聖書を読む人々はこのペンテコステの出来事が創世記のバベルの塔の出来事と対比できる人類史上に起った大きな出来事と考えてきたのです。

 かつて神は人間が過ちを犯し続け、自分から離れ去って行くことを恐れ、それを防ぐために人類の言葉を乱し、世界に様々な言語を生み出しました。しかし、その神はこのペンテコステの日に聖霊を遣わして、人類の言葉は確かに様々な言語のままでしたけれども、皆同じことを語ることができるようにとされたのです。それは「神の偉大な業」を語るために。自分たちの考えや、行動では神様に背き続け、どんどん離れて行ってしまうような、私たち人間に神様は聖霊を遣わしてくださり、私たちをご自身の元に導いてくださろうとされたのです。

 神に背を向け、神から遠ざかろうとする人類の歴史がこの日を境に方向転換するようになった。そんな出来事がこの五旬祭の日にエルサレムに集まったイエスの弟子たちの元で起ったのです。そしてその聖霊の業は今も私たちを通して働きつづけ、全世界の人々を今も神の元に導こうとしているのです。これがペンテコステの日に起った出来事の意味なのです。だからこそ私たちはこの日を祝い、神様に感謝を捧げことができるのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 キリストが約束してくださった聖霊をペンテコステの日に私たちの元に遣わしてくださり、今もその聖霊によって私たちを導いてくださるあなたの御業に心から感謝します。私たちの信仰生活に日々、奇跡を起こしてくださる聖霊なる神の働きに私たちの心を向けさせてください。そして感動を持ってその働きに感謝をささげ、これからも聖霊の働きに信頼して生きていくことができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2005.5.15「霊が語らせるままに」