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2005.6.26「あなたがたを受け入れる人は」

聖書箇所:マタイによる福音書10章37~42節

37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」


1.剣と平和

①御子を受け入れない世

 今日の箇所の直前にはイエスの語られた次のようなショッキングとも言える言葉が登場します。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」(34~36節)。

 私たちは決して家族やその他の人々と争うために福音を受け入れたのではありません。むしろ、私たちはこの争いの多い世にあって本当の平和を得るために福音を受け入れ、それを信じたのです。ところが、イエスはここで私たちの信仰生活に起こる争いについて述べているのです。そしてそれは避けることのできない問題だと語っているのです。

 私の場合にはそれまでの素行があまりにも悪かったためでしょうか、教会に行き始め、クリスチャンになったときも家族から大きな抵抗を受けた経験はありません。しかし、強いて言えば、親類とのつきあいの中で私が「クリスチャンであるから積極的に仏事に参加することができない」ことを告げると「どうしてもっと、家族や親戚のつきあいを大切にしないのか」と責められたことがたびたびあります。おそらく、皆さんの中でも信仰の故に家族や親戚との間でいろいろな軋轢が生じたという経験を持っておられる方は結構多いと思うのです。

 どうして信仰生活を送ろうとするとき私たちはこのような様々な人と対立することになってしまうのでしょうか。その多くは決して私たちが望んでそうなったわけではありません。それらの争いが生じる根本的な原因はどこにあるのか。ヨハネの福音書の冒頭には次のような言葉が記されています。

「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1章10~11節)。

 この部分には神の御子であるイエスが人間となって私たちの世界に来られたことが語られています。その上で私たちを救い、私たちに永遠の命を与えるためにやってきた救い主イエス・キリストを私たちの世界は受け入れることができなかったと語っているのです。ここには私たち人間の世界がイエスを本来、受け入れることができない、罪と悪に支配された世界であることが明らかにされています。このような事実の上に立って、今日のマタイの福音書でも次のようなイエスの言葉が記されています。「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」」(25節)。イエスは敵対するユダヤ人から悪魔の頭である「ベルゼブル」だと罵られ、迫害されました。そして、今、このイエスによって神の子とされた私たちもまた、彼と同じようにひどい言葉で罵られることになると預言されているのです。

 ですから、私たちが信仰の故に世の様々な抵抗や迫害に出会ったとき、それは既に私たちがイエスによって神の子、その家族とされている証拠であることを知る必要があります。どうして、神様を信じたのにこんな争いを体験しなければならないのかと考えるのではなく。このことを通して私たちは確かに神の子とされていると確信することができるのです。


②神の奇跡を体験する

 さらに、世は本質的に神の御子をイエスを受け入れることができないという事実は、それとは全く反対に私たちが今、イエスを受け入れ、信仰者とされているという事実がどんなに素晴らしいことであるかを教え、そこに驚くべき神様の奇跡が起こったことを知らせるのです。

 有名な使徒パウロは最初、キリスト教徒を熱心に迫害する人物でしたが、やがて復活されたイエスに出会い、彼にその人生を180度変えられるという奇跡を経験しました。私は高校生のときから共産主義運動に参加して、神を信じるのではなく、マルクスやレーニンを信じていました。そのためクリスチャンの同級生の信仰を非難したり、迫害したことがありました。今でも思い出すのは、私のクラスの一人の友人はお昼になってお弁当を開こうとすると、必ず目を閉じてお祈りをするのです。彼の一家は高校の近くにあった「キリスト兄弟団」という教会の熱心な信者だったからです。ところが私は彼が目を閉じあれから30年以上の歳月が流れました。私は今になって、彼の祈りが決して無力ではなかったことに気づかされました。なぜなら、私もまた今、イエス・キリストを信じ、そればかりではなくその福音を告げ知らせる伝道者にまでされているからです。私が今、こうして福音を受け入れるのは決して、あたりまえのことではありません。私の非難に対して、反論する換わりに、黙って祈った友人の祈りがあったからです。そのような友人を与えてくださった神様が起こしてくださった奇跡によって私は今、キリストを受け入れる者に変えられたのオを持っています。天秤の片方にイエスを乗せ、もう片方に両親や家族を乗せて、そのとき私たちの家族のほうが重くなってしまってはいけないと教えているのです。重要なのは私たちにとってこのイエスがどんなに大切な方であるかを教えていることです。それはこの10章でイエスの福音を携えて、人々にその福音を宣べ伝えるために派遣される弟子達の問題が取り上げられているからです。イエスは弟子達にこの世に救いを実現させる権能をお与えになりました(1節)。その権能とは神の子に敵対し、福音を受け入れないこの世に奇跡を起こさせる神の力であると言えます。そのすばらしい権能を授かった弟子達が、行く先々でどのように行動すべきかをイエスが教えたのがこの10章の内容なのです。

 ですから、ここで語られているのはあくまでもこの福音が伝えるときに、私たちはどのような判断をし、行動するかが問われているのです。イエスと家族を天秤にかけて家族が重くなってしまうのは、基本的に自分たちが授かっているキリストの権能のすばらしさ、またそれを授けられて送り出された私たちの使命の大切さが十分に理解されていないからです。

 私たちにとって家族はどんなに大切な存在でしょうか。しかし、キリストはその家族以上に私たちにとって大切な方なのです。そして、このキリストを信じて、彼の福音を語り続けるものは、その家族をも救うことができる。そのような奇跡を起こす力を今、私たちはイエスによって与えられていることを教え、その事実のすばらしさに目を向けさせることがこのイエスの言葉の目的なのです。


2.十字架を担う

「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(38節)。

 「自分の命を得ようとするもの」という言葉は「自分の命を見つけ出そうとするもの」と読み替えることのできる言葉です。誰もが自分の命、そして人生の本当の価値を見いだそうと努力しています。自分は何のために生きているのだろうかと言う深刻な疑問を人間は心の片隅に抱いて生きています。しかし、もし探すとしたら、それを見いだすために私たちはそれをなくした場所に行ってそれを探す必要があるはずです。私たちが失ってしまったものは正しい神様との関係です。ですから、私たちはその命の価値を失われた神様との関係を回復することによって見いだすことができるのです。イエスはその神様と私たちとの関係を回復させるためにこの地上に来て下さった救い主です。しかも、イエスはその私たちはさらに神様との親しい交わりに招待するために、私たちをご自身の弟子として生きるようにとここで招待してくださっているのです。ですから、私たちがこのイエスの弟子として生きるとき、それは十字架を担うような困難な出来事であったとしても、私たちの命の価値をますます明らかにし、私たちの疑問を解き明かして、私たちに満足を与えるような回答を得ることができるのです。十字架を担う道は、私たちの命の本当の価値を見いだすことのできる喜びの道でもあるのです。


3.神に受け入れられている存在

①拒否の悪循環

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(40~42節)。

 この箇所に登場するイエスの言葉をマルコによる福音書は別の前後関係の中で紹介しています(9章38~41節)。この箇所によれば、イエスの弟子のヨハネはあるところでイエスの名前によって悪霊を追い出している人に出会います。その人はイエスの弟子団とは全く関係のない人物であったようです。そこでヨハネは「もし、そのような行為を続けたいのなら、私たちの仲間に入って正式に許可を受けるように」と説得するのですが、その人はそれに応じず、ヨハネを拒否します。そのためヨハネ「イエスの名前を使って悪霊を追い出すことをやめなさい」とその人に言ったと言うのです。ヨハネにとってキリストが与えてくださった救いの権能は自分たちにだけに許された専売特許のようなものだと考えられたのでしょう。ところが彼は自分たちとは関係のない人々がその特許を自由に使っている姿を見て、腹を立てたのです。彼らは自分を受け入れなかった。だから私もあの人たちを決して受け入れたくないとヨハネはイエスに語ります。

 ここでイエスはヨハネに「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言う言葉を語られたのです(39~41節)。


②神によって打ち砕かれた悪循環

 相手が私を受け入れないから、私も決してあの人を受け入れない。お互いがお互いを拒否する関係は悪循環のスパイラルに私たちを陥れ、解決のない泥沼へと導きます。しかし、イエスはここで私たちの目を私たちを拒む相手を見つめ続けることから解放し、別の場所へと導きます。それは私たちがキリストの弟子とされているという事実です。イエスから救いの権能を与えられているという素晴らしい出来事です。この事実は私たちに何を教えているのでしょう。それは私たちがまず神様から受け入れられているということ素晴らしい事実を教えるのです。

 イエスはこのことをヨハネに気づかせようとしました。ヨハネは自分たちとは関係のない人々がイエスの名によって悪霊を追い出す姿を見て、「神様はあの人たちにも救いの権能を与えてくださっているのか」と驚き、それを喜ぶべきだったのです。自分と同じように神様に受け入れられている人たちがここにも存在しているということに喜びを持って気づくべきであったのです。

 不思議なことに先ほどの「十字架を担う」とここでの「報いを受ける」という言葉に登場する「担う」と「受ける」という単語はギリシャ語では同じ動詞が使われています。キリストの救いの権能を受け、イエスの弟子として生きようとするとき、それはある意味で十字架を担う苦しい道でもあると言えます。しかし、それは逆に言えば私たちが既に「神様に受け入れられている」という素晴らしい報いを受けている事実を知る道でもあるのです。

 私たちもヨハネと同じように、「どうしてあの人は私を受け入れてくれないのか」と悩み苦しみます。どうしてもそのような人を受け入れたくないと考えてしまいます。しかし、その悪循環のスパイラルを神様は打ち破られるのです。神様がイエス・キリストによって罪人である私たちを受け入れてくださったからです。この素晴らしい奇跡を私たちは今、体験しています。そしてその奇跡を私たちが自覚するためには、何よりも私たち人生でキリストとの関係を最優先させることが必要とされるのです。今日の一見ショッキングとも聞こえるイエスの言葉は私たちにそのことを教えていると言えるのです。


…………… 祈り ……………

 天の父なる神様。

 あなたと御子イエス・キリストに敵対するこの世にあって、私たちに救いの奇跡を体験させ、あなたを受け入れ、信じる者とされたことを感謝致します。その上で、あなたは私たちに福音と救いの権能を授けてくださいました。私たちはその素晴らしい出来事を忘れ、その大切な使命を忘れてしまうことがありますが、どうか聖霊によってそのことを覚えさせてください。あなたに従って十字架を担う道は、命を得ることのできる素晴らしい道でもあります。私たちがイエス様との関係を最も大切なものとすることができるように助けてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2005.6.26「あなたがたを受け入れる人は」