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2005.7.17「刈り入れまで、育つままに」

聖書箇所:マタイによる福音書13章24~30節

24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。

25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。

26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。

27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、

29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」


1.たとえで語るわけ

 今日学ぶマタイによる福音書13章にはイエスの語られた神の国についてのたとえがいくつか納められています。まず、この章の最初には有名な種まきのたとえ(1~9節)が登場します。イエスとイエスが福音伝道のために派遣された弟子たちからメッセージを聞く人々はたくさんいました。ところが同じ福音を聞いているのに、その福音に対する反応が様々に異なる現実を前にして、イエスはその理由をこの種まきのたとえを通して弟子たちに説明されたのです。

 この際、イエスは自分がたとえを語る理由を弟子たちの「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言う質問に答える形で次ぎのように説明しています。

「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(11節)。

 有名なイギリスの説教家であったチャールズ・スポルジョンはたとえ話のない説教は窓のない家のようなものだと語っています。この場合、たとえ話は説教で語られるメッセージの内容を聴衆により一層身近に、またわかり安く伝えるために用いられるものです。ところがイエスのたとえ話の用い方はこれと違うのです。イエスのこの説明によれば、自分がたとえで語るのはわからない人にはわからないようにするためだと言っているのです。なぜなら、このたとえ話を理解するのは神様によってそれを理解する力が与えられた人のみが可能だからです。ですからイエスはその恵みを与えられた人は「幸いだ」(16節)と語っているのです。

 つまりイエスの語られるたとえ話をもし私たちが理解できるとしたら、私たちが聖霊の力によって信仰を与えられ、神様を信頼することができているからなのです。なぜなら、今日、学ぶたとえ話も結局は神様を信頼することができなければ本当のところで理解することは困難な事柄が取り扱われているからです。


2.畑に蒔かれた毒麦

①神の支配への疑問

 さて今日のたとえ話は「天の国は次のようにたとえられる…」と言うイエスの言葉で始められています。ふつう、天国と言うと多くの人は羽の生えた天使が飛び交い、何やら楽しげなところ、あるいは死んだ人が行くところと考えがちです。しかし、聖書の語る「天の国」はそれと大きく違います。ここで言う「神の国」は言葉を換えれば「神の支配する国」、あるいは「神の支配するところ」と言っていいものです。つまり、このたとえ話ではこの神様の支配がどのようなものであるかが語られていると考えてよいのです。そして聖書はこの世界で神様が支配されていないところは一つもないと私たちに教えているのです。つまり、聖書によれば私たちが今、生きているこの世界も神様の支配の中にあると考えることができるのです。そのように考えるとき私たちの脳裏には大きな疑問が浮かび上がるのではないでしょうか。争いや戦争が絶えることがなく、たくさんの問題が渦巻いている、矛盾に満ちたこの世界がどうして神の支配するところ、神の国と呼べるのだろうかと…。おそらく神の支配について真剣に考えようとする者はそのような疑問を誰でも抱くはずです。実は今日のイエスのたとえ話はそのような疑問をもつ者への一つの答えを提示していると考えてよいのです。


②神は悪の創始者ではない

「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」(24~26節)。

 この地上を神が支配してくださっているのなら、そこには良い種ばかりが蒔かれているはずなのに、どうしてこんなにたくさんの問題が後から後から生じてくるのか。このたとえはそのような疑問に答える形で始まっています。この世界にはびこる悪はどうして存在するのでしょうか。たとえ話の中では農園で働く僕たちはこの事態に驚いて主人の次のように質問します。

「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう』」(27節)。

 僕たちは毒麦の生えた原因を全く理解していません。ことは彼らの知らない間に起こっていたからです。ところが、主人だけはこのことを知っています。ですから僕たちにこう答えるのです。「主人は、『敵の仕業だ』と言った」(28節前半)。

 人間は勝手な者で、一度問題が起こると「どうして神様はこのようなことを許しておられるのか」とその責任を神様に負わせようとするのです。ところがその原因のほとんどは、私たち人間が自ら作り出したものと言えるのです。そこでこのたとえ話は神様がこの世の悪を創造された方ではないことを最初にはっきりと教えています。それは「敵の仕業」、つまり、神の支配がこの世界に実現することをよしとしない者の働きの結果であると教えています。ですから、私たちは悪の存在の責任を神様に求めてはいけないのです。むしろ私たちはどのような問題の中でも「良い種」だけを蒔く神に信頼していくことが大切であるとこのたとえ話はまず私たちに教えるのです。


3.すぐに決着をつけたがる僕

①間違って刈り取らないように

 たとえ話は続けてこの敵の仕業に驚く僕たちの反応をつぎのように紹介しています。

「僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと…」(28節)。

 毒麦はそれを食べた人にめまいや嘔吐を引き起こさせる毒性を持っています。ですから、それは大変危険な植物でした。そこでこの僕たちは収穫物の中にそんなものが混じってはたいへんだとすぐにその毒麦を取り去ってしまおうと考えたのです。ところが主人はこの僕たちの考えを次のように否定します。

「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない』」(29節)。

 私が神学生だった頃、ある時神学校の庭に誰が植えた訳でもないのですが、不思議なことにバラの木が生えて、とてもきれいな小さな花を咲かせたことがありました。ところが、せっかく生えたそのバラを一人の神学生が草刈り機でほかの雑草と一緒に見事に刈ってしまったのです。当時、神学校にすんでいた入船先生の奥さんが「せっかく、かわいらしい花を咲かせたのに、あのバラまでで刈ってしまうなんて…」とバラを雑草と同じ感覚で刈り込んでしまったその神学生の感覚が理解できないと言っていたことを思い出します。ふつうの人ならきれいな花を咲かせているバラを雑草と勘違いすることはまずないと思います。しかし、このたとえに登場する毒麦の場合にはそう簡単にはいかないと言うのです。毒麦はほとんどふつうの麦と同じ姿をしています。ですからそれがはっきりと判別がつくのはその実を実らせるときだと言うのです。そこで当時の農夫たちはこの毒麦を刈り入れのときまでそのままにしたのです。その理由はこの主人が説明しているように毒麦を抜き取ろうとして、他の良い麦まで抜いてしまう恐れがあったからです。そんなことをしたら、せっかく主人が種を蒔いて育てた苦労が水の泡になってしまいます。だから、収穫のときまでそのままにしなさいと主人は僕たちに語り、彼らの申し出がいまはふさわしくないことをここで指摘しているのです。


②人には見分けがつかない

 最近、テレビのどのチャンネルでも韓国で作られたドラマが放送されています。ドラマ『冬のソナタ』以来の韓流ブームは止まるところを知りません。私もよくこのようなドラマを見るのですが、韓国ドラマの特徴の一つは登場人物のキャラクターがはっきりと分かれている点ではないでしょうか。薄幸な主人公を助ける人たち良い人たちと、その主人公を徹底的にいじめる悪役がはっきりと最初からはっきりと分かれているのです。そしてお話が展開し、最後には主人公が幸せになり、主人公をいじめた人々は奈落の底へと落とされるという仕組みです。私たちはこのようなストーリー展開の中ではらはらしながら、しかし、最後には主人公がハッピーエンドで終わる姿を見ながら心地よい感覚を味わうことができるのです。

 この毒麦のたとえ話についてイエスは少し後のところで解説を加えています。

「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい」(36~43節)。

 確かにこの解説にも世の終わりにはすべてのものがはっきりすることが語られています。しかし、誤解してはならないことはこの世の終わりのときまで、テレビのドラマとは違って私たちには誰が御国の子であるかあるいは悪い者の子であるかはっきりとわからないのです。このことを理解していないと私たちは自分の身勝手な判断で、自分と意見を異にしたり、争っている人を悪者の子、悪魔の手下と断定して、お互いにお互いを傷つけることになってしまうのです。もし、そうなら私たちは悪魔が毒麦の種を蒔いた策力に見事に引っかかってしまったことになります。なぜなら、悪魔は良い麦を引き抜かせて、神様の収穫を台無しにしようとしているからです。このようにこのたとえ話に登場する主人は、私たちが今、軽率な判断を控えて、神の正しい裁きにすべてをゆだねることを求めていると言ってよいのです。


4.私たちは今をどのように生きるのか

①救いのすばらしさを知る

 世の終わりの日まで誰が御国の子で、誰が悪い者の子であるか判別がつかないと語るとき、それでは私たち自身はどうなのかと不安を感じる方がおられるかもしれません。しかし、私たちはこのたとえ話をそのように自分に適応する必要はありません。またそれは不可能なのです。なぜなら、私たちはイエス・キリストによって既に救いに入れられており、この厳しい裁きから免れているからです。そしてその証拠として、今、そのイエスから聖霊を送っていただき、イエスの語られるこのたとえ話を神様に信頼して理解し、受け入れることができるようにされているからです。ですから私たちはこのことで不安を感じる必要はありません。

 それでは私たち既にイエス・キリストによって赦しを受け、神様の厳しい裁きから逃れることができた者たちはこのイエスのお話をどのように読むべきなのでしょうか。その第一は私たちが受けた神様の救いがどんなに素晴らしいものであるかを知り、神様に心からの感謝を捧げて信仰生活を送るためにです。聖書が語る厳しい裁きはもし、キリストがいなければ私たちが本来、受けるべきものでした。もしキリストの救いがなければ、私たちの最後はこのような悲惨な運命にあったのです。しかし、イエス・キリストの十字架によって救い出された私たちは、今この運命から完全に解放されて神の子として生きることができるようにされているのです。ですから、私たちは聖書を通して神様の罪人に対する厳しい裁きを知れば知るほど、そこから自分を救い出してくださった神様の救いのすばらしさを心に刻み、その神様への感謝に満たされながら信仰生活を送ることができるようにされるのです。


②神の忍耐を知り、伝道に励む

 このお話から私たちが学ぶ第二の点は、私たちがここで語られている神様の厳しい裁き知ることで、私たちが一層の熱心を持ってキリストの福音を世界に伝えるためであると言えるのです。現在私たち改革派教会は来年に行われる60周年信徒大会に向けて「終末についての宣言」を作成しています。先日、この文章を検討する大会の席上で次のような議論がありました。「未信者に対する神様の裁きを詳しく宣言に書き留めるのは、求道者の心をいたずらに不安にさせ、躓きを覚えさせるので伝道的ではないのではないか」と質問する人がいました。しかし、次にその質問に答える形で別の発言者はこう答えたのです。「聖書が語っている厳しい裁きを真剣に受け取めることができるからこそ、私たちは一層熱心に福音伝道に励まなければならないと思うのではないか」と…。確かに聖書の言葉いつも、今の自分が何をすべきなのかを教えていると言ってよいですし、そう読んでいくのがふさわしいのです。

 おそらくこの毒麦のたとえから私たちが読み取るべき大切な部分は良い麦が一本でも無駄になってしまうことがないようにと、その裁きのときを引き延ばされる神様の忍耐のすばらしさではないでしょうか。聖書の前後関係から考えるならば、このたとえ話はイエス・キリストのもっておられる救いの権能を委ねられた弟子たち、つまり、私たちキリスト教会の群れに語られていると考えることができます。ですからここには神の国の支配を教会の福音伝道を通してこの地上に実現させようとする神様の計画が語られていると考えてよいのです。

 このたとえを読む私たちはそのような意味で、既にイエスに救われた者としての、喜びと感謝を持って福音を証しすることができるようにされます。また、このときを忍耐して待っておられる神様の御心に従って福音をすべての人々に伝えることが今の私たちに与えられている大切な使命であることを確信することができるようにされるのです。


…………… 祈り ……………

 天の父なる神様。

 この問題多き世にあっても農園の主人として私たちを守り、育ててくださるあなたのみ業に感謝いたします。何よりも私たちをイエスの救いによって良い実を実らせる御国の子と替えてくださった恵みに感謝いたします。そしてあなたは私たちが福音によってこの救いを受けたように、さらに多くの人々が救いを受けて御国の子となることを望んでおられます。どうか、私たちが福音を熱心に伝えることができるようにしてください。何よりも、私たちが救われた者の喜びと感謝をもってその福音を飾り、人々に証しすることができる者としてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2005.7.17「刈り入れまで、育つままに」