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2005.7.3「わたしの軛は負いやすく」

聖書箇所:マタイによる福音書11章25~30節(新P.20)

25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」


1.福音を拒む人々

①祈りと呼びかけ

 とある教会でのことです。礼拝のない普段の日に一人の婦人が教会堂に入ると誰もいないはずの会堂の倚子に見知らぬ人が横になっています。その婦人はおそるおそる横になっている人にここで何をしているかと声をかけました。するとその人は「疲れたので、ここで休ませてもらっている」と言うのです。そう言いながら彼は教会の表の看板を指さしました。そこには大きな字で「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という今日の聖書の箇所に登場するイエスの有名な御言葉が記されていたのです。この言葉は教会の看板や案内書などによく使われるほどとても有名なもののです。しかし、案外、私たちはこのイエスの言葉が語っている本当の意味を知らなかったり、誤解して使っている場合があるのではないでしょうか。今日はイエスの御言葉を含む聖書の箇所から学んでみたいのです。

 この箇所は一見するとイエスがいったい誰に語っているのか理解できない言葉になっています。なぜならこの言葉の前半部分は「父よ」と言う呼びかけから始まっているのに、後半では「あなたがた」という呼びかけで終わってしまうからです。この言葉はイエスの父なる神に対する祈りの言葉でもあるように聞こえるし、またイエスが彼の周りに集まった人々に語った言葉のようにも聞こえます。おそらく、この言葉はその二つの部分が入り交じっていると言っていいのかもしれません。しかし、私たちはここではその内容を理解するために、この言葉を前半の祈りの部分と後半の呼びかけの部分を分けながら考えてみたいと思います。


②拒否は神のみ旨

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(25~27節)。

 ここでは「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言うイエスの言葉が登場します。この言葉は10章から始まるイエスの弟子達とイエスの福音伝道と関係する言葉と考えてよいでしょう。イエスとその弟子達の伝道は当初、イスラエルの人々に限定されて伝えられました(10章5~6節)。ところがそこで何か起こったのでしょうか。聖書に子供のときから親しみ、その内容を一番よく理解しているはずのイスラエルの人々が不思議なことにイエスの語る福音を拒否すると言う出来事が起こったのです。イエスが聖書の約束通り、救い主として神様のもとから遣わされたのに、それを彼らは全く理解できず、受け入れることができないのです。ですからここでイエスによって「知恵ある者や賢い者」と呼ばれているのは彼らイスラエルの人々を指して語っている言葉なのです。彼らはもっている知恵を誇ることで、返ってイエスの語ろうとする福音に耳を傾けようとはしなかったのです。

 先週の新聞にアメリカの有名な伝道者ビリー・グラハムが最後の伝道集会を行ったことが記されていました。ビリー・グラハムはアメリカでは最もよく知られている伝道者で、最近は若かりし日のジョージ・ブッシュ大統領をクリスチャンに回心させた人物としてもよく知られています。私たちの教会の宣教師のヤング先生もこのビリー・グラハムの伝道集会からクリスチャンになったと何度も証しされています。おそらく数え切れない人が彼の影響でクリスチャンになったと考えることができるのではないでしょうか。そのような意味でビリー・グラハムは伝道者として大きな成功をおさめた人物です。

 ここでビリー・グラハムと比較するのは少しおかしいのかもしれませんが、私たちの主イエスの伝道はむしろ成功例の少ないものであったように思えます。イエスの奇跡に驚いた人々も結局はイエスを信じるには至りませんでした。当時、もし新聞があったとしたらイエスの伝道をビリー・グラハムのように報道する人はいなかったかもしれません。

 ふつう、伝道が進展しないとき私たちはその原因をどこに求めるでしょうか。自分たちの伝えている内容に問題があるか、あるいは聞いている人々の心が問題で頑固だから福音が伝わらないと考えるでしょう。そこで次に考えるのは語っている福音の内容を人々が受け入れやすい内容に変えるか、それとも頑固な人は見捨てて、もっと可能性のある他の人々に福音を伝えるように方向転換すると言うことです。ところが、イエスはここで人々の拒否の原因を人間の側の様々な条件ではなく、「父なる神の御心である」と語り、神様を賛美しているのです。


③予定論に立つ者の伝道

「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(26~27節)。

 神戸改革派神学校で伝道学を教えてくださった入船尊先生は私たちによくこんなことを教えてくださいました。「予定論を信じる改革派の信徒は他の誰よりも粘り強く伝道することができる」と。先生はその理由をこう説明しました。私たちはよく伝道して、様々な困難に出会うと人間の側の条件を考えて、そこに原因を見いだそうとする。私の伝え方が悪いか、あるいはそれを聞いている相手が悪い。しかし、その結果は「こんなに伝道しているのにやっぱりだめなのだ」と私たちの伝道を諦めさせる。ところが問題が神様の御心にあるとすればどうだろうか、どんなに人間の側の条件が悪くても、神様の計画がそうならば、私たちの思ってもいないことがそこでえ起こる。「この人だけは駄目」と思っている人が明日、神様に心を変えられて熱心なクリスチャンになるかもしれない。だから、私たちはこの神様の計画に信頼して、どんなに可能性のない人にも最後まで粘り強く伝道し続けることができる。

 予定論を運命論と勘違いして考えてしまう人がいます。目の前の結果を見て「私たちが何をしてもしかたがないのだ」と考えるのです。しかし、忘れてはいけないことはこの神様の計画は私たち罪人の目にはいつも隠されているということです。だから、私たちは勝手にその計画を先取りして、諦めてはいけないのです。それでは予定論は神様を信じない人々を支配している運命論と全く変わらないものになってしまいます。

 イエスは語られます。「幼子のような者にお示しになりました」。幼子とは神様を信頼して、すべてを神様に任せる人のことを言っています。つまり、神様の計画はイエスを信じ、イエスの御言葉に信頼して生きる人々にだけ示されるというのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)。私たちはこの聖書の言葉を信じ、どんなに人間の側の持つ条件が悪くても、福音を伝道し続けることが大切なのです。父なる神を信頼し、賛美したイエスの祈りは、最後まで諦めないでねばり強く伝道し、十字架にかけられるまでその愛を貫いたイエスの力の秘訣を語っています。


2.担い切れない重荷を負わせる人

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。

 自分の知恵を誇り、イエスに信頼しようともしない人々は聖書の福音ではなく、別の方法で自分たちは救いを得ることができると考えました。そのように律法を自分の力で守ることで、救われることは可能だと主張したのが律法主義者たちでした。この箇所の後には、この律法主義者とイエスとの数々の衝突が記されていきます。

 また、そこで明らかになっていくことは律法主義者が人々の重荷を取り去って、彼らを救いに導いているのではなく、返って彼らの重荷を増やして、苦しめているという現実です。ですからここでイエスが「疲れた者、重荷を負う者」と言われているのはこの律法学者たちのために、律法でがんじがらめに縛られて苦しんでいる当時の人々を直接には指し示しているのです。

 ジョン・バイヤンの記した「天路歴程」と言う小説には背中に重くのしかかる罪の重荷に苦しみ、その重荷から解放されたいと願い旅に出る主人公が登場します。彼は家族たちの「お前の悩みは気の迷いにすぎない。ここにとどまれ」という声を聞かないようにと両耳をふさぎながら、「永遠の命、永遠の命」と叫びながら旅に出発します。しばらくすると、親切な「律法氏」という人物が現れて、「それならあの山を目指しなさい、あなたの重荷は必ずなくなる」と諭します。そこで主人公はその言葉に従って律法の山、シナイ山への道をたどります。しかし、最初は登りやすいように見えたその山への道は、行けば行くほど険しくなり、最後には主人公の命まで危うくするような道だったのです。

 律法主義は人の心を簡単に捕らえます。しかし、その捕らえられた者の運命はさらに重荷を増し加えられて、最後には絶望的な死に行き着くしかないのです。この天路歴程では、この後いろいろな出来事を経て、主人公がカルバリ山の十字架の下に立ちます。その十字架を彼が見上げたときにいままでどんなことをしても取り去ることができなかった背中の重荷が、自然ととれて山の下へと転がっていく場面が登場します。このように私たちの罪の重荷を取り去ることの出来る方は私たちの罪のために代わって十字架にかけられた主イエス・キリスト以外にはおられないのです。だから主は私たちに「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけてくださっているのです。


3.イエスの軛は負いやすい

①誤解された恵みによる救い

 この間の水曜日の教理の学びでこんなお話が紹介されていました。このテキストの著者がドイツ留学をされていたときのお話です。神学大学の寮に寝泊まりしていたとき、その寮で働く寮母さんたちと知り合いになりました。著者によればその人達もみなそれぞれそれなりの信仰者だったと言うのです。ところがある日、著者が教会の日曜礼拝から帰ってきたときに、神学校の庭で出会った一人の寮母さんとこんな会話が交わされます。

 「あなた毎日曜日、教会の礼拝に通っているなんて感心ね」。そこで著者は不思議に思って寮母さんに尋ねました。「あなたは行っていないのですか」。すると「私は、イースターとかペンテコステとか、クリスマスの礼拝にしか出席していない」と答えます。「どうして」とその理由を問うと、寮母さんはにこにこしてこう答えたというのです。「私はルター派のクリスチャンですから。カトリックの人たちはよい行いをしないと天国に行けないので毎日曜日、熱心に教会のミサに通うけれど。私はプロテスタントの信仰を持っている。私は神様の恵みによって救われている。その恵みを信じる信仰によって救われているから、毎日曜日教会に行かなくても大丈夫」と答えたと言うのです。著者はこの話しを聞いてびっくりして反論する気も起こらなかったと言っています。


②イエスの軛

 さて私たちが最後に考えるべきイエスの言葉は「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と語られています。ここに登場する「軛」は農作業をする家畜につけられたものです。ですからイエスはここで私たちは救われれば何もしなくてもよくなるとは言っていないのです。私たちには新たな軛がつけられているからです。負うべき荷物は軽くはなっていますが、なくなっているわけではないのです。むしろ、イエスの言葉に従って私たちがその軛を負い、その荷を担うなら「あなたがたは安らぎを得られる」とここでは約束されているのです。

 私たちの信仰生活は自分の力で救いを得ようとする律法主義ではありません。私たちはイエスの十字架の恵みによって救いを受けるのです。しかし、むしろそこで救われた私たちが信仰生活に励むなら「安らぎを得られる」とイエスは約束してくださっているのです。イスラエルで使われる「軛」は二頭の牛を同時につなぐように作られています。熟練した農夫はその軛の一方に農作業に熟練している年老いた牛をつなぎ、もう一方にまだ新米の若い牛をつなぎます。新米の牛は農作業に慣れてはいませんから、どこで力を入れていいのか、抜いていいのかかがわかりません。そこでもう一方の年老いた牛に学びながらその作業を学んでいくというのです。

 イエスが「わたしの軛」とここで言うのはこの軛の一方をイエスご自身が担って下さるからです。そして私たちがこれからどのように生きればよいのか、どこで本当の安らぎを得ることができるのかを教えてくださるからです。もし、信仰生活を自分の力でがんばろうとするなら律法主義に後戻りして、私たちは負いきれない重荷を背負うことになってしまいます。しかし、私たちの軛の一方を担ってくださるイエスにゆだねて歩むなら、私たちの荷は次第に軽くなり、むしろ信仰生活に励むほど今まで私たちが味わうことのできなかった本当の「安らぎを」を得ることができるのです。

 イエスはこの今日の御言葉を通して、私たちを律法主義の重荷から解放し、福音によって生かされる新しい生き方へと導いてくださっているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 私たち人間の頑なな心はあなたを受け入れることができませんが、あなたはご計画に従って私たちに聖霊を送って福音を受け入れ、主イエスを信じる信仰を与えてくださったことを覚えて感謝いたします。天の父なる神の計画を信じ、様々な困難に出会っても最後までその使命を全うしてくださった主イエスのすばらしさを覚えます。私たちにも福音を伝える勇気と力を与えてください。

 主イエスの十字架の身元にしか、私たちの罪の重荷を取り去る場所はありません。自分の知恵と力に頼り、あなたの真理を疑い続ける心には誠の平安は訪れることがありません。どうか、私たちが主イエスに幼子にように信頼し、信仰生活を送ることができるようにしてください。あなたの約束して下さった平安をそこで味わい、あなたに感謝を捧げることのできるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2005.7.3「わたしの軛は負いやすく」