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2005.8.14「娘の病気はいやされ」

聖書箇所:マタイによる福音書15章21~28節

21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。

22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。

23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」

24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。

25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。

26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、

27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。


1.言い伝えだけを大切にして、神を忘れる人々

①習慣の本当の意味は

 毎朝、食事を作るときにハムの四隅を必ず切り落としてからフライパンでそれを炒める夫人がいました。ある日、この夫人はいままで疑問に思っていなかったその行為についてあらためて考えてみました。「どうして私、こんな風に料理するのだろう…」。彼女はその料理法を自分の母から学んでそのまま守り続けてきたのです。そこで彼女はその料理法の訳を自分の母に尋ねてみることにしました。すると母親は意外な答えを語りました。「どうしてだろうね。私もわからないは。確かあなたのおばあちゃんがそういう風に料理していたから、それを私もまねをしたのだと思うわ」。この夫人はことの真相を探るべく、今度は祖母のところに行ってその調理法の秘密を尋ねました。祖母ははじめ「どうしてかね…」と首をひねっていたのですが、しばらくして思い出したようにこう説明したのです。「そうそう、私結婚したときに最初に買ったフライパンがとても小さかったの、だからハムの四隅を切らないと料理ができなかったのね。あのフライパンだいぶ長い間使ってたから、すっかりそれが習慣になっちゃたみたい。あなたのお母さんはその私の習慣をまねしたのよ…」。


②言い伝えだけを守ろうとする人々

 マタイの福音書の15章の最初の部分には昔の人々からの言い伝えを頑固に守ろうとする人々とイエスとの間に起こった論争が記されています。律法に従うことに熱心なファイリサイ派の人々はイエスの弟子たちが昔の人々の言い伝えを破っているとイエスを非難したのです。この論争で明らかになってくるのは、イエスは決して昔の人々の言い伝えを無視しようとしたのではないと言うことです。むしろ、イエスはその言い伝えの最初に戻って、そもそもその律法を神様は何のために人に与えられたのかを明らかにしようとしたのです。

 古い習慣だけを守ればそれでいいと思っているファリサイ派の人々にイエスは次のような言葉を語ります。「こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」(6節)。ファリサイ派の人々は昔の人々からの言い伝えを守ることには熱心でしたが。肝心のその言い伝えの源である神様の律法と神様の御心を無意味にしてしまっているとイエスは語っているのです。なぜなら、彼らがそこで真剣に律法に向き合っていたなら、その律法を守ることができない自分たちを悟り、その彼らを助けるために神様が遣わしてくださった救い主イエス・キリストを受け入れることができたからです。しかし、彼らは昔の人々の言い伝えだけを気にして、救い主を遣わしてくださった神の御心を知ることができなかったのです。

 今日の聖書箇所ではこのような外面的な宗教生活で満足する人々とは対照的に、真剣になって神様の助けを請い求めた一人の女性とイエスとの出会いが紹介されています。


2.真剣さを問うイエス

①カナンの女

 今日の箇所で登場する女性は「カナンの女」と言う呼び名で紹介されています。彼女は先祖の言い伝えを守るイスラエルの人々とは対局にある、異邦人としてここに紹介されているのです。

「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ」(21~22節)。

 「ティルスとシドンの地方」は聖書地図で見るとイスラエル北方の地中海沿岸地域にあった町であることが分かります。現在で言えばレバノンに位置する町々と言ったほうがいいのでしょうか。マタイはわざわざこの女性をここで「カナンの女」と呼んでいます。マルコによる福音書は彼女がギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれと紹介しています(7章26節)。しかし、この場合の「ギリシャ人」はギリシャ語文化圏に属する人と言う広い意味を持っているもので、彼女がこの地方で生まれた異邦人であることには変わりがありません。

 かつて、エジプトの奴隷状態を脱出したイスラエルの民は神様の約束の地カナンを目指して旅をしました。そして目的地カナンでは彼らとそこに住む先住民族との間で激しい戦いが起こります。神様はその際に偶像崇拝に陥っているカナンの先住民族をすべて滅ぼし尽くすようにとイスラエルの民に命じました。この「カナンの女」と言う言葉の意味は、彼女が本来神様に滅ぼされるべき人々の残党だったという意味を持っているのです。


②うるさい女性

 この「カナンの女」は悪霊に苦しむ自分の娘をイエスに何とかしていただきたいとやってきます。ところが意外にもこの女性に対するイエスの態度はたいへんに冷淡なものでした。イエスははじめ、この彼女の真剣な願いに何も答えることをせず、無視の態度を貫かれるのです(23節)。しかし、それでも彼女は簡単にはあきらめずに何度も叫び続けたのだと思います。この女性の態度に根負けしたかのように弟子たちが次にイエスに願い出ています。

「そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」」(23節後半)。

 この弟子たちの発言の意図は女性の立場を心から同情して語られていないことがすぐにわかります。「うるさくて仕方がない。イエス様なんとかしてください」というように彼らの発言の目的はこの女性をここからすぐに追い払うことにあったのです。そのために彼らはイエスに「適当にあしらってほしい」と願いでたのです。ポーズだけでも、表面的でもいいから彼女に応対してほしいと願ったのです。「それはたいへんだね。私が祈ってあげますよ。娘さんは必ず直りますよ」そう言えばこの場はすぐに収まりがつきます。弟子たちはイエスが悪霊にとりつかれた人々を癒した現場を何度も目撃していますから。イエスにとってそんなことは簡単ではないかと思っていたのかもしれません。そうすれば早々にこの女性は引き上げて行って、自分たちとの関係はなくなります。その程度の応対をこの女性にしてほしいと弟子たちはこのときにイエスに願ったのです。


③冷淡だからこそ真剣

 しかし、そのように簡単に終わるべきこの女性とのつきあいをイエスはかえって複雑にしてしまいます。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)。

 イエスはここで「私はイスラエルの人々のために働いているのであって、異邦人であるあなたを助けるためにやってきたのではない」とカナンの女性を冷たくあしらわれるのです。そしてこの言葉を聞いてもまだあきらめがつかずに「主よ、どうかお助けください」と叫び続ける彼女にとどめをさすようにイエスは次のように語ります。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。当時のユダヤ人は真の神様を信じずに、偶像崇拝を続ける異邦人たちを「犬」と呼んで、蔑みました。ここにはそのような言葉までがイエスの口から登場して、彼女の願いを冷たく拒否しているように見えるのです。ある聖書注解にはこの部分の解説をこのように記されています。「〈子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくない〉(26)という言葉は,冷たく突き放す偏狭な言葉ではなく,ほほえみつつユーモラスに語ったものであろう」。この注解者によればこのやりとりを「ほほえみつつユーモラスに語ったもの」と言うのです。しかし私はどうしてもそうは思えないのです。ここではやはりイエスとカナンの女との間に真剣なやりとりがなされているのではないでしょうか。

 通常では見られないイエスの冷たい態度に対して、娘の癒しを求めるカナンの女性の態度はどこまでも真剣です。彼女はそのようにイエスに拒否されても、イエスにしか解決の道は残されていないかのように、さらにイエスにしがみつくようにこう語るのです。

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。

 「確かに私はあなたに救っていただけるような資格を持ってはいません。しかし、あなたの力はイスラエルを救うには十分すぎるほどのすばらしいものです。私はその余った力におすがりしたいのです」と彼女はイエスに語るのです。

 ここには不思議な出来事が起こっています。イエスの態度が冷淡であるからこそ、彼女は真剣になってイエスに必死でしがみつこうとしているのです。旧約聖書に登場する義人ヨブは原因の明らかでない苦しみを受けて悩み続けた人でした。しかし、彼はその苦しみのために、かえって真剣になって神様にその答えを求めていき、神様の元に近づいて行ったのです。ここではヨブと似たいような出来事が起こっているのです。イエスの態度が冷淡であればあるほど、彼女は必死になってイエスにしがみついてその助けを求めているのです。

 おそらくここにイエスの態度の意味が隠されていると思います。イエスはこの女性を適当にあしらって家に帰らせるということをされないのです。そうではなく、むしろ真剣になって自分に頼るべきことを彼女に求めておられるのです。私たちもまた、信仰生活の中で様々な問題に出会います。ときにはこのカナンの女性のように「神様に拒否されているのではないか」と思うような出来事が起こるかもしれません。しかし、神様はそのことを通して尚、いっそう私たちを自分に近づくように、そして自分に頼るようにされるのです。


3.神の計画に信頼する信仰

①土台を据える働き

 さてここで私たちが忘れてはならないのは神様が私たち人間を救うためにお建てになった救いの計画です。他の言葉で言えば、神様が私たち人間を救うための歴史、「救済史」についてです。このことを理解するなら今日のイエスの言葉の意味を私たちはもう一つ別の観点から理解することができるのです。

 たとえば家を建てるとき、建築業者はまずその土台を据えた上で、そこに柱を立て、その上に屋根を作って家を建てていきます。もし土台がまだ満足に完成していないのに、先に柱を立てり、屋根を作り始めたらどうなるでしょうか。その家は今、世間でよく騒がれている欠陥住宅になってしまいます。神様の救いの計画もそれと同じように順序があるのです。神様はイスラエルの先祖であったアブラハムを選び、彼と約束を結ばれました。その約束は彼を通じてイスラエルの民の中から救い主が生まれるというものだったのです。そしてイエスはこの約束に従って、アブラハム、ダビデの家系につながるヨセフとマリアの子供として誕生したのです。しかし、この神様の救いの計画はここで完成したわけではありません。まだ、この計画には続きがあるのです。イエスはやがてこのイスラエルの民に拒否され、十字架につけられます。ここで神様の救いの計画の土台が完成します。そしてこの後で、神様の福音は全世界に広がっていくと言うことになるのです。


②この計画は私たちのためにある

 神の救いの計画はまだその途中にありました。だからイエスはここで、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)と語られたのです。確かにイエスの地上での活動はイスラエルに限定されるものでしたが、その働きは救いの土台を据えるようなもので、この土台の上に立って全世界のすべての人々の救いが実現されていくのです。

 ここで私たちが学ぶべき点は、このカナンの女性がそのような神様の計画を無視したり、あるいは曲げて自分を助けてくださいとイエスに願ったのではないことです。むしろ彼女はその神様の計画の中から異邦人である自分たちもその恩恵にあずかることができると考えたのです。言葉を換えれば、今はイスラエルに限定されるイエスのみ業は異邦人である自分をも救うためのものであると彼女は理解したのです。このようにカナンの女性は神様の救いの計画に文句を言うのではなく、それに全面的に信頼して、イエスに頼ろうとしたのです。

 私たちは神様の救いの計画と自分との関係をどう考えているでしょうか。私たちも本来、カナンの女と同じように神様の裁きによって滅ぼされるべき者たちでした。私たちは本来、神様の救いにあずかる資格を何一つ持っていないものです。しかし、今日の物語はそのような私たちを救うために神はイスラエルを選び、イスラエルを通して救い主イエス・キリストを遣わされ、救いの土台を据えられたことを教えます。

 イエスはこの神の計画に従って今、その救いの家を完全に完成されました。だからこそ、私たちは今、神様の救いにあずかることができるのです。キリスト教会はこのような意味で、このカナンの女を異邦人の救いが実現した象徴として大切に語り伝えてきたのです。


…………… 祈り ……………

 天の父なる神様。

 イエス・キリストを私たちのために遣わしてくださり、私たちを救いへと導いてくださったことを感謝いたします。あなたの立てられた救いの計画は私たちにとっては不思議なものですが、その救いは私たちにとって一番ふさわしく、完璧なものであることを信じます。そのことをおびえて、ますますイエスに信頼していくことができるようにしてください。

 さまざまな出来事が起こる中で、その真意を理解できない私たちは心を乱すことがありますが、どうか聖霊を遣わして、私たちをますますイエスのもとに近づかせてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2005.8.14「娘の病気はいやされ」