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2005.8.7「主よ、お助けください」

聖書箇所:マタイによる福音書14章22~33節(新P.28)

22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。

25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。

27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。


1.逆風に悩まされる

①村人の心を励まし続けた教会壁画

 私はテレビで最近何度か、世界遺産の一つに選ばれているルーマニアの教会壁画群を紹介する番組を見たことがあります。キリスト教会は長い歴史の中で聖書に記されている物語をたくさん描き続けました。ときにはそれを偶像礼拝の道具にしてしまうと言った愚かな過ちを犯すこともありましたが、それらの絵画の中には人類の遺産と呼べる芸術作品が多数存在します。ルーマニアの教会壁画群もその一つで世界の貴重な文化遺産として登録されているのです。

 ところでこのルーマニアの教会壁画群の特徴は、その絵画が教会堂の内部ではなく、教会堂の外壁に描かれているという点です。多くの教会ではシンプルな外形とは対照的に内部では極彩色の絵画が並ぶ光景が見られますが、このルーマニアの教会では極彩色の絵画が内側ではなく、外側の壁に描かれているのです。番組ではなぜ、教会は外壁にこれらの絵画を描き出したのかと言う理由も取り上げられていました。その大きな理由はイスラム教徒であったオスマントルコの強大な軍隊の侵入に原因があったのだと言うのです。ルーマニアのキリスト教会は異教徒である巨大な軍隊に何度も取り囲まれ、存続の危機に瀕していました。そのときにこの壁画は村人の心を励まし、勇気を持って異教徒の軍隊と戦い続けることを目的に描かれたと言うのです。教会堂の外壁に描かれたこれらの絵画はいつでも、目に入り、遠くからでも見ることができます。そのために、これらの壁画の描き出す聖書の物語は自然と村人の記憶の中に残り、彼らの心を励まし続けたと言うのです。


②戦いの中にある教会

 今日の箇所にはガリラヤ湖で「舟」に乗り、逆風のために悩まされ、一歩も進むことができないイエスの弟子たちの姿が登場します。おそらく、この物語にはマタイの福音書の読者たちが当時、現実の中で経験している出来事が重ねて表現されていると考えることできるのです。

 「舟」は教会の歴史の中で長い間、「教会」を象徴するシンボルとして描かれてきました。またそれとは対照的に荒れ狂う海は神様の力に敵対し、神様の創造の御業が働く以前の混沌(カオス)の世界に私たちを戻そうとする悪の力を象徴するシンボルとして考えられて来たのです。つまり、ここで描かれている弟子たちの姿は、困難の中で前進を拒まれ一歩も進むことができない教会の姿を表わしていると考えてよいのです。

 このマタイの福音書の読者に限らず、キリスト教会はいつもその前進を拒もうとする悪の力と戦い続けてきました。イエスの弟子たちと同じように一歩も前に進みゆくことのできない激しい抵抗に遭って苦しむことがたびたびあったのです。そこで今日取り上げる物語は、そのような困難の中で信仰の戦いを続ける教会の人びとにあのルーマニアの教会壁画群と同じように励ましと勇気を与えるために記された出来事だと考えることができるのです。


2.イエスの存在

①イエスがいない舟

 五つのパンと二匹の魚からたくさんの人びとの飢えを癒されたイエスの奇跡の出来事を先日、私たちは学びました。これに続く出来事として今日のお話はマタイの福音書に記されています。イエスはパンの奇跡を通して、ご自身が人びとに霊的な命を与えることのできる救い主であることを教えようとされました。ところがその意味を群衆は理解できずに、イエスを都合よく自分たちの王としようと考え始めます。ですから、このことを知ったイエスは群衆を解散させて、一人で山に登り、祈りを捧げられたと言うのです。ここで初めてイエスは「人里離れたところ」(13節)に行こうとする当初の目的を果たすことができたとも言えるのです。

 ところがイエスはその前に一つのことをここでされています。弟子たちを舟に乗せて、向こう岸に行かせようとしたのです。これはイエスが弟子たちと離れて一人になりたかったからと言うよりは、むしろ、この弟子たちを訓練するためであったことが今日の物語を通して分かってくるのです。

 つまり、ここで師であるイエスが存在せず、弟子たちだけが乗っている舟という場面がイエスの演出によってここで作り出されているのです。それはどうしてでしょうか。それはイエスがいない教会、イエスがいない信仰生活は逆風の中で一歩も進むことができないことを弟子たちに、またこの福音書の読者たちに教えるためでした。


②イエスの訓練の目的

 ここで私たちはイエスの私たちに対する訓練と、世の親や教師たちが私たちに施す訓練は根本的な違いがあることを覚える必要があります。なぜなら、世の親や教師は子供がいつか自分たちの手元を離れて、立派に独り立ちできるためにその子供たちに訓練を施すからです。それでは彼らはどうしてそのような訓練を子供たちに施す必要を感じるのでしょうか。それはいつしか自分たちが子供たちから離れなければならない日がやってくることを知っているからです。ですから彼らは初めから自分がいなくなった日を想定して、その日に子供たちが自分の力で問題に対処して、困ることのないように訓練を施すのです。

 しかし、イエスの訓練はそれとは大きく違います。なぜなら、イエスは世の終わりまで、いや、永遠まで私たちと共にいることができる方だからです。ですから、彼の訓練はいつも、私たちがイエスを離れては何もすることができないことを知り、いつでもイエスの助けを求めることができるようにするために行われるものなのです。ですからこのときの弟子たちもこのような訓練を受けるためにイエスによって舟に乗せられたと考えることができるのです。


③安心しなさい。わたしだ

 イエスが祈るために山に登られたのは夕方でした(23節)。そしてイエスが湖の上を歩いて弟子たちのところに近寄ってきたのは「明け方」(25節)と記されています。ですから、弟子たちが湖上で逆風に遭い、進むことも戻ることもできなくなったのはちょうど、夜の出来事であったことが分かります。真っ暗な湖の中で荒れ狂う風と波に苦しめられる弟子たち姿が想像されます。弟子たちの内の何人かはこのガリラヤ湖で子供の時から漁をしていた漁師でした。しかし、彼らの長い経験によって培われた漁師としての知識も大自然の力には全く無力でしかなかったのです。

 明け方近くになって、荒れ狂う湖の上を歩いてイエスが弟子たちのもとに近づいて来られます。ところが、弟子たちはその姿をみて「幽霊だ」と言って、恐怖のあまり叫び声を上げたというのです。

 人は問題の中で苦しむとき、神様が助けを与えるために近づいて来てくださっていてもそれを容易に理解することはできません。イエスの姿を良くしていた弟子たちもそれは同じでした。しかし、彼らは嵐の中で「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言うイエスの御声を聞いたときに、その方がイエスであり、自分たちを助けるために近づいて来られていることを悟ります。私たちも問題の中で考え込んでいるだけでは、イエスが近づいて来てくださっていることを悟ることができません。むしろ、このようなときこそ聖書の言葉に耳を傾けるなら、そのみ言葉を通して私たちも私たちに近づいて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださるイエスの姿を確認することができるのです。

 ここで語られている「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言うイエスの言葉は、聖書の中で神が自分を自己紹介するときにだけ使われる「わたしだ」と言う言葉が使われています。また人の力が及ばない自然の力を象徴する荒れ狂う波の上を歩き、またそれを静められるイエスの姿も、彼が大自然を支配される神の子であることを示しているのです。つまり、ここでは私たちの舟、つまり教会は、私たちの力が及ぶことのない大自然の力、すべての力を支配する神の子であるイエス・キリストが共にいてくださる場所なのだと言うことを私たちに教えているのです。だからこそ、この舟は決して沈むことがありません。そしてどんな力もこの舟の前進を妨げることができないことをこのイエスの存在は私たちに教えているのです。


3.二つの心

①水の上を歩いてイエスに近づくペトロ

 さて、このマタイの福音書はここでもう一つの話を挿入して、さらに私たちとイエスの関係を読者である私たちに考えさせようとしています。それはペトロが湖上を歩き、風を見て恐怖に捕らわれ溺れそうになるという出来事です。

 イエスの弟子にはいろいろなタイプの人間が集まっています。ペトロはどちらかと言うと後先を考えずに行動してしまい、手痛い失敗を経験した上で、後悔するタイプの人間のようです。もしかすると皆さんの中にもペトロに親近感を感じる方がおられるかもしれません。彼は湖の上を歩いて近寄って来られる方がイエスだと分かると「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28節)と願います。この言葉は「主よ、幽霊だと思ってしまいましたが。あなたでしたか。それなら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と訳した方がふさわしい言葉です。なぜならペトロは湖上をあるく方がイエスだと確認するためにこの願いを出したと言うよりは、イエスだと分かったからこそ、湖上を歩いてイエスの元に近づきたいと言う願いが彼に生じたと考えることができるからです。

 イエスの「来なさい」と言う言葉に応じて、ペトロは湖の上に足を踏み入れます。すると彼もまた湖の上を歩き出したと福音書は語ります。ところが、次の瞬間、ペトロは激しい風に気づいて怖くなり、湖に沈んで行ったと言うのです。おそらく、イエスの言葉に応じて湖を歩き出したペトロは最初、イエスの方を見つめながら歩んだのだと思います。ところが、激しい風に気づいたペトロはその瞬間に風に心奪われ、イエスから目を離してしまって溺れ始めてしまうのです。このペトロの失敗は私たちの信仰生活の姿をよく表わしているのではないでしょうか。私たちがイエスを見つめて歩み続けるとき、私たちの信仰生活には今までの自分の生活では考えられないような不思議な力が与えられ、その力によって歩むことができますが。一度、自分の目の前の問題に目を奪われて、イエスを見失ってしまうとき、私たちは問題の中にぶくぶくと沈んでいくような恐ろしい体験をするのです。ペトロもそれと同じような失敗をここで犯しています。


②二番目の考えが生じても、イエスに近づく

 湖に沈みかけるペトロはそこで「主よ、助けてください」と叫びます。するとすぐにイエスの手が彼の手にさしのべられ、ペトロは湖の中から引き上げられたと言うのです。イエスはここでペトロに語っています。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)。ここで「疑う」と言われるときに使われているギリシャ語の言葉はとても興味深い意味を持っています。このギリシャ語の「ディスタゾー」、つまり「疑う」と言う言葉には「あることに関して二番目の(別の)考えを持つ」と言う意味があるのです。具体的にここでペトロは湖上の上を歩かれるイエスの姿を見て「自分も水の上を歩いてイエスのところに行きたい」という願いを抱きます。しかし、彼はその一方で「強い風に気づいて、怖くなる」という別の考えを抱き始めて、湖の中へと沈んで行ってしまったのです。

 どうしてペトロはイエスと同じように湖の上を歩きたいと言うような無鉄砲な願いを抱いたのでしょうか。おとなしく、イエスが舟に乗り込むまでまっていたら、彼はこんな失敗をすることはなかったのにと私たちは考えるかもしれません。しかし、イエスはここで決してこの無鉄砲なペトロの願いを非難してはいないのです。むしろ、イエスはそのペトロの願いをそのまま聞き入れてくださっているのです。

 あるいは、風の音を聞いて恐怖に捕らわれ、水の中に沈んでしまったペトロの姿を見て、私たちは「ペトロは私たちにとって反面教師であり、彼のような失敗を犯さないようにしよう」と考えるかもしれません。しかし、聖書はむしろもっと大きな観点からこの出来事を見ており、この出来事を通して私たちには素晴らしいイエスの恵みが働いていることを教えようとしていることを忘れてはならないのです。なぜなら、このペトロの失敗を通しても、「本当に、あなたは神の子です」(33節)という信仰の告白が弟子たちの間で生まれているからです。

 「水の上を歩いてイエスの元に行きたい」と願いながらも、「強い風に気づいて、怖くなった」ペトロと同じように、私たちもまた、信仰生活を送るとき二番目の別の思いを抱き、苦しみ悩むことがたびたびあるのではないでしょうか。「イエスを信じたい。でも、この私に本当に信じられるのか」。「イエスの十字架を信じたい。でも、本当にこの私の罪はそれで解決するのだろうか」。異なった思い、対立した考えが私たちの心に起こり、あたかも湖に沈んでいくような体験をするのがわたしたちのいつもの姿ではないでしょうか。しかし、この物語はそれでも失敗を恐れて舟に止まるのではなく、イエスに近づいていくことが大切だと言うことを私たちに教えているのです。たとえ私たちの内側に二番目の思いが生じてもそれでいいのだと教えているのです。なぜなら、問題の中で溺れている私たちの叫びを聞いて、私たちを水の中から引き出してくださる救い主イエス・キリストが私たちには与えられているからです。

 自分では解決のつかない問題を抱きながらも、イエスを信じ続けることが私たちの信仰生活ではないでしょうか。それでもイエスに近づいていくのが私たちの信仰生活です。なぜなら、その問題を解決するのは私ではなく、私たちに手をさしのべてくださるイエスご自身だからです。だからこそペトロの失敗がここに記されているのです。私たちもペトロと同じようにイエスに向かって歩み出そう、もし問題の中で沈みかけても、イエスが手を指し伸べて私たちを助けてくださる。その素晴らしい恵みを教会の中で、信仰の中で私たちは今頂いているとマタイの福音書は私たちに教えているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 私たちの教会に頭であるイエス・キリストを与えてくださりありがとうございます。あなたは私たちの弱さや、不完全さをご存じの上でこの教会に一人一人を召してくださいました。そして、さらに私たちを身元近くへと招いてくださいます。私たちはいろいろな失敗を犯します。ときにはあなたを見失って、問題の中に沈み込んで行ってしまうことがあります。しかし、そのときにもあなたは私たちの叫びにすぐに手をさしのべてくださる方であることを信じます。その主イエスをさらに信頼して、信仰生活を歩んで行くことができるように導いてください。

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


2005.8.7「主よ、お助けください」