2005.9.18「あなたたちもぶどう園に行きなさい」
聖書箇所:マタイによる福音書20章1~16節
1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
1.神の国の常識
今日も皆さんと一緒にイエスが語られた「天の国」についてのたとえから学んでみたいと思います。私たちもときどき日常会話の中で「たとえてみれば…」と話し相手に自分の伝えたい事柄を理解してもらうために、たとえ話を用いることがあります。ところが、かえってそのたとえ話がピンとくるものではないために、相手を余計混乱させてしまったということがあります。その点で言えば、イエスはすぐれた説教家としていつも適切なたとえ話を用います。先日の特別礼拝でもイエスの語られたぶどうの木のたとえから私たちとイエスとの関係を学ぶことができました。あのお話でも分かるようにイエスは当時の人々が日常体験する大変身近な出来事から神の国の秘密を解き明かすことに長けていたと言えます。ところが、今日取り上げる話はと言えば、そこで言っていることはかろうじてわかるのですが、果たしてここに語られている物語がそれを聞いている人を納得させことができるかどうかには大いに疑問な点があります。なぜなら、このたとえ話では世の常識とは大きくかけ離れた内容が語られているからです。
ぶどう園の主人とそこで働く労働者の関係は当時の人々から見てもとても身近な存在であったと思います。しかし、ここに登場するぶどう園の主人はそこで常識をはるかに超えた行動をするのです。朝から、熱心にぶどう園で働いた労働者にも、最後にやって来てほんの一時間くらいしか働くことのできなかった労働者にもこの主人は同額の賃金を払います。これでは一生懸命働いた労働者から不満が起こるのは当たり前です。「どうしてこんなことをするのか」という彼らの抗議に、この主人はしかし、開き直ったように「自分のものを自分がしたいようにしては、いけないのか」と答えるのです。世の常識から言えば大変に身勝手なように見える主人の姿です。しかし、イエスはこれが「天の国」における常識だと私たちに語っているのです。神様は私たちに対してもこのような取り扱い方をされるとイエスは教えているのです。
いったい、このたとえ話を通してイエスは天の国について、あるいは神様と私たちの関係について何を教えようとされるのでしょうか。聖書の言葉に耳を傾けながら、このことについてもう少し詳しく考えてみたいと思います。
2.ペトロの願い
①共通する結論
今日のたとえ話の結論は16節に記されています。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。イエスはこの結論を言いたいがためにこのぶどう園の主人と労働者のお話をされたと考えてよいでしょう。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。この言葉はいったいどのようなことを私たちに教えるのでしょうか。何事も後の方に、最後に近い方に行ったほうが得である。「残り物には福がある」と私たちも言います。功を急いで、焦ってみても結局、失敗してしまったら元も子もないと言うことを私たちも教えられて来ました。しかし、イエスはそんなことを私たちに教えるためにこのようなお話をわざわざされたのでしょうか。
実はここに登場する「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という言葉は、この直前の段落の最後にも同じように登場しているのです。それは19章30節のイエスの言葉です。ここではイエスがペトロの出した質問に答える言葉の最後に「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と語られています。この部分から考えるとどうやら今日のたとえ話はこの直前にイエスの言葉を聞いたペトロが、その言葉をさらによく理解することができるようにとイエスが「たとえてみれば、こんなことだよ」と教えられていると考えることができるのです。
②ペトロの質問の意味
それではこの直前でイエスとペトロの間にはどのような問答がなされていたのでしょうか。ペトロは19章27節でイエスに「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と質問しています。そしてこの質問に答えてイエスは「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(28~29節)と答えられているのです。イエスはここでペトロの期待した通り神様は立派な報いを彼に与えてくださると語ります。ところがその後でイエスは「しかし」という言葉を語った後でペトロに「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と教えておられるのです。
ここでペトロがどうしてこのような質問をすることになったかについてもう少し聖書を遡って調べてみましょう。19章16~22節には「金持ちの青年」と呼ばれる人物が登場しています。彼は永遠の命を求めるまじめな青年でした。そのために彼は今まで難しい神様の律法を熱心に守ってきたのです。ところが彼はイエスに「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)とここで薦められますが、それに従うことができずに悲しみながらイエスの前を去っていくことになったのです。聖書は皮肉のようにその理由を彼が「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と説明しています。イエスに従うために彼はあまりにもたくさんのものを失う必要があったために、それができなかったと言っているのです。
さて、ペトロはこの会話を引き継ぐ形でイエスに先ほどの質問をします。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」。確かにペトロはこの青年に比べて、貧しかったかもしれません。しかし、ペトロはそれでも自分はあの青年ができなかったことをした。精一杯の犠牲を払ってイエスに従って来たと胸を張って語っているのです。その上でこの自分が払った努力に対する報酬はどのようなものかとイエスに尋ねているのです。
3.報いの根拠
①自分は誰よりも多く働いた
ここまで来るとこのペトロの質問の背後に隠された彼の気持ちと、今日のぶどう園の主人と労働者のお話にはある共通点があることに皆さんも気づかれるかもしれません。20章の12節でどの労働者にも同一の賃金を支払う主人の態度に、最初に雇われて一日中このぶどう園で働いていた労働者が文句を言っています。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。この言葉です。彼らは主人から約束通り1デナリオンを受け取ることができました。この賃金の額は当時の労働者がもらっていた正当な一日分の賃金の額であったと言えます。ところが、彼らは後からやって来て少しの時間かしか働かなかった人々が1デナリオンを受け取るのを見て、自分たちはぶどう園の主人から不当に取り扱われていると文句を言い出したのです。それではペトロはどうでしょうか。イエスに何もかも捨てて「ついて来なさい」言われながらも、財産が多いためにそれができなかった青年がいました。イエスの前を悲しんで立ち去るその青年の後姿を見ながら、ペトロはここで胸を張ってイエスに語るのです。「私は彼ができなかったことをしてきました。私の努力に神様はどんな形で報いてくださるのでしょうか」。この考えは朝から熱心にぶどう園で働いた労働者の不満の言葉と同一の意味を持っています。なぜならペトロは誰よりも自分は大きな報いを受けることができるはずだと考えていたからです。
イエスはこの質問に答えてペトロに語ります。「あなたには天においてすばらしい報いが与えられる。しかし、その報いはあなたの払った犠牲に対して払われるものではない」と。神様は確かに信仰者である私たちに対して豊かな祝福を与えてくださいます。しかし、その祝福は私たちが信仰生活で払った犠牲に対して、また私たちの努力に対して支払われるものなのでしょうか。
②イエスの犠牲の報いを受け取る
「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(15節)とぶどう園の主人は語ります。これはまさに神様と私たちとの関係を語るものだと考えることができます。なぜならば私たちが受けている祝福は、すべて神様の一方的な恵み、神様の好意によるものだからです。
私たちの受けるべき報いはすべて私たちの努力の結果ではなく、ただ神様の恵み、その神様の好意にもとづくものです。しかし、その好意にはもうひとつ重要な秘密が隠されています。この聖書の箇所の直後にイエスはご自分がエルサレムで経験される「死と復活」の出来事を弟子たちに予言されています。そして今日のたとえ話を読む私たちは、このイエスの予言をさらに深く理解することができるようにされています。どうして私たちは神様からこんなにすばらしい報いを受けることができるのでしょうか。それは私たちの払った犠牲によるものではないのです。しかし、私たちの受ける報いには確かに大きな犠牲が払われていることがここでさらに明らかになります。それは救い主イエス・キリストの十字架での死という出来事です。私たちのために苦しみ、その命をささげられた神の子イエスの働きに対する十分な報いを、イエスはご自身が受けるのではなく、私たちに与えてくださるのです。ですから私たちが受ける祝福は、このイエスの払われた犠牲によるものであって、私たちの努力に対する報酬ではないのです。だからイエスはペトロに「しかし」という言葉をつけてその事実を説明され、そのことを明らかにするために今日のぶどう園の主人と労働者とのたとえを話されたのです。
4.今、祝福に満たされる
①後悔か、喜びか
先日、私はキリスト教放送局のFEBCが放送した「エホバの証人脱会者の証言」と題された番組を聞く機会がありました。街角で「ものみの塔」誌やいろいろな本を販売して、家々を訪問する熱心な人々。彼らを私たちキリスト教会は使徒の時代から伝えられた公同の信仰から外れた、誤った教えを伝える「異端」の集団と考えています。しかし、最近このグループについての問題で明らかになってきたのは、彼らが単なるキリスト教の異端というだけではなく、そこに集まる信者たちをたくみにマインドコントロールして、誤った教えで縛り上げて、人格破壊や家庭崩壊に至らせているカルト集団であると言うことです。番組ではかつてはエホバの証人として熱心に伝道していた人々が、そのマインドコントロールの呪縛から解放されて、今は正しいキリスト教信仰に導かれて、喜びと感謝を持って毎日を送っているという証しが紹介されています。
この中のある人の証しの中にこんなお話が登場します。「エホバの証人であったときは、ハルマゲドンが来る一日前にエホバの証人になっていればよかったと後悔していいました。しかし今、イエス・キリストを信じるまことの信仰に導かれて、もっとはやくこのイエス様を信じていればよかったと思うようになりました」と。彼は「エホバの証人たちはイエス・キリストが下さる無償の恵みを偽りの教えで隠している」と言っています。ですから彼らが熱心に街角で伝道し、病院の治療で輸血を拒否するのはその報いに応じて、神が彼らを取り扱われると教えられているからです。だから、彼らは熱心に伝道していても、自分では神様に救われているという確かな確信を持つことができません。なぜなら、この確信は十字架につけられたイエス・キリストによってのみ私たちに無償で与えられる恵みによるものだからです。
不思議なことにこのたとえ話に登場する朝から働いていた労働者はこのエホバの証人脱会者の証しに登場する言葉と同じようなことを言っています。彼らは朝から一生懸命にぶどう園で働いたことを、損をしたと後悔しているのです。そして自分たちも夕方に雇われればよかったと思っているのです。
②働きに参加すること自体が祝福
しかし、このたとえ話が私たちにもうひとつ教えているのは、彼らが主人に雇われてぶどう園で働くことができるようになったこと自体が祝福だということです。主人はあたかも一人でもこのぶどうの働きから誰もが漏れることがないようにと何度も町の広場に行っては労働者を雇い入れます。ですから「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」という主人の問いかけは、何もすることがなく広場で佇んでいる人を憐れむ言葉なのです。神が準備されたすばらしい収穫の場に私たちの働きの場が準備されていること、それは言葉を換えて言えば神様が私たちの存在を必要とされていることを意味しています。そして、たとえ私たちがそこでわずかしか働くことができなかったとしても、神様はイエス・キリストの犠牲を通して豊かに私たちに報いを与えてくださると聖書は教えているのです。
胸を張るペトロの言葉を聞くイエスは、ペトロがこれからどんな失敗を犯し、どんなに自分の無力さを嘆かなければならないかを知っています。イエスはそれでもペトロに「しかし」と語りかけるのです。たとえ、十分な働きができなくても神様はあなたを十分な恵みで祝福していくださると教えているのです。イエスは「そのあなたが報いを受けるために私は今、エルサレムに向かって犠牲を払う」と語られるのです。そしてこのイエスの「しかし」は今、このみ言葉に耳を傾ける私たち一人一人にも語られているのです。私はあなたのためにも犠牲を払った。だからあなたの受ける報いは大きいのだ」と。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様。
私たちのために御子イエスを十字架につけ、復活させられた上でイエスの勝ち取られた恵みを、聖霊を通して豊かにあたえてくださるあなたのみ業に感謝いたします。私たちの働きは弱く、失敗に満ちていますが、そんな私たちを招いて神の国の働き人としてくださることを感謝致します。この神様の愛に感謝し、私たちがこれからも忠実な働き人として歩んでいくことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。