2005.9.25「後で考え直して信じる」
聖書箇所:マタイによる福音書21章28~32節
28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
1.権威についての論争
今日もイエスが語られたたとえ話の一つから学びます。今日のお話は「ところで、あなたたちはどう思うか」(28節)と言う言葉で始まっているように、これはある特定の人に語られていることがわかります。そしてその人々については少し前のところを読むと分かります。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った」(23節)。このたとえ話はイエスによって祭司長や長老たち、つまりユダヤ教の指導者に語られていることが分かります。
それではこのときイエスと彼ら祭司長や長老たちの間にはどんなやりとりが起こっていたのでしょうか。この21章の最初にはイエスがいよいよエルサレムの町に入城するという記事が記されています(1~11節)。その後、イエスはエルサレムの神殿の境内に入り、その神殿で働く商人たちを追い出すと言う行動を起こしています(12~17節)。イエスはその後、一旦はエルサレム近郊のベタニア村に退き、そこで宿をとりますが(17節)、またその後、神殿に入って人々に教え始められたと言うのです。
今日のお話はここから始まります。祭司長や長老たちはこの神殿を管理する側の人間です。そしてイエスが追い出した神殿で働いていた商人たちは彼らの許可のもとにここで店を出していた人々です。おそらく祭司長たちと商人たちは神殿での利害を共有していたのだと思われます。そのような商人をイエスが勝手に追い出した上で、神殿に集まる人に彼らに無許可で説教をし始めたのですから彼らは慌てたに違いありません。すぐにイエスの周りを取り囲んで「あなたはいったい、何の権威があってこんなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。私たちはあなたに何の許可も与えていない」と詰め寄ったのです。彼らにとって神殿は自分たちのものであり、自分たちの許可がなければ誰も何もここでは行えないと考えていたのですから、イエスの行動はこの彼らの権威を根底から揺るがすものだったのです。今日のたとえ話は、この権威についての短い論争を挟んだ上(23~27節)でイエスによって語り始められています。ですからこのお話は権威についての祭司長や長老たちとの論争を補足するような役目を持っていると考えることができます。それではこのたとえ話は私たちにいったい何を伝え、何を教えているのでしょうか。
2.準備はできていると胸を張る人々
①言葉だけで行動の伴わない行動
このお話は非常に簡単です。一人の父親に二人の息子がいました。父親は二人の息子にそれぞれ「ぶどう園に行って働くように」と命じます。ところが兄の方は、一旦はこの父の願いを拒否してしまいます。しかし、その上で後になって考え直してぶどう園に出かけたのです。さらに弟の方は父の願いにすぐに応じて「承知しました」と応答しながら、実際にはぶどう園に出かけなかったと言うのです。
言葉では父の願いを拒否した兄がぶどう園に赴き、その反対に言葉では父に色よい返事をした弟がその意志に反する結果となっています。この世の世界でも「言うは易く行うは難し」と言う言葉が昔から存在します。口では良いことを言っても行動が伴わない人についてこの世の世界もそれを批判します。同じようにこのたとえ話はそのような行動を批判し、忠実に神様の命令を実行することが大切であることを教えるものなのでしょうか。
②自分の力で準備ができると考えた人々
ところで、このたとえ話にはイエス自身の語られた説き明かしの部分が付属しています(31~32節)。その説き明かしによれば口では良い返事をしながらぶどう園に行かなかった弟が祭司長や長老たちユダヤ教の指導者であり、口では父の願いを拒否しましたが、考え直してぶどう園に行った兄がユダヤ教の指導者からいつも蔑んでいた徴税人や娼婦たちであると言われているのです。イエスはその上で彼ら徴税人や娼婦の方が「あなたたちより先に神の国に入るだろう」と祭司長や長老たちに語っているのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。そのことを考えるためにもう少しこのたとえ話を注意して読んでみましょう。
イエスのこのたとえ話に登場する弟は父の願いにすぐに「お父さん、承知しました」と答えています。この言葉はギリシャ語原文では「私は…。主よ」となり動詞が省略された言葉になっています。おそらくこの言葉の意味から言うと「私は準備ができています。主よ」と弟は言おうとしたと考えることができます。つまり彼は父の招きに対して胸をはって「私の準備は完璧です」と答えたのです。実はこの言葉こそが祭司長や長老たちと言った当時のユダヤ教の指導者たちの信仰姿勢を明確に表しているものなのです。なぜなら彼らは自分の力で律法を熱心に守ることで、神様の招きに十分に答えることができると考えていたからです。ですから洗礼者ヨハネが荒れ野で神の国の到来が近づいてことを知らせ、悔い改めを人々に求めたときに彼らはそれに応じようとしなかったのです。なぜなら、彼らは自分の力で律法を守ることによって「自分は十分に準備ができている」と思いこんでいたからです。だから自分たちに悔い改めなどは必要ないと考えてしまったのです。イエスが「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず」(32節)と語られているのはそのことを説明しているのです。
③イエスの権威によって
しかし、神様の聖なる招きに私たちが答えるための準備は、そんなものでは不完全なのです。私たちは自分の力でそれを準備しようとしても不完全であり、神様の招きに備えることはできなのです。だからこそ、ヨハネが解いた義の道が必要となるのです。その義の道とはイエス・キリストを信じて私たちが義とされる道のことです。イエスは私たちが自分の力では準備することができない神様の招きに対する備えを、私たちに代わってしてくださり、それを信じる私たちのものとしてくださるのです。徴税人や娼婦たちは自分では神の招きに答える準備がないことを知っていました。だから彼らはヨハネのメッセージに耳を傾け、そこに自分たちのために与えられるすばらしい備えがあることを信じたのです。そして自分たちにかわって、完璧な準備を与えてくださるイエスのところに集まったのです。ですから彼らが神の国に入れるのは、彼ら自らが何かすぐれたことをしたからではなく、イエスから無償で与えられる恵みによる結果なのです。
イエスの話によれば祭司長や長老たちは洗礼者ヨハネの言葉に耳を傾けなかっただけではなく、さらに与えられていた第二のチャンスも見逃してしまったと言うのです。「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」と語られています。「それを見ても」とは徴税人や娼婦たちがヨハネのメッセージを聞いて、悔い改めて救いにあずかっている姿を見てもと言う意味です。神様がこんなにすばらしいみ業を目の前で示してくださっているのに、彼らはそれに気づくことができません。なぜなら、彼らはいつも自分の力だけに信頼し、自分を見つめ続けているばかりで、神様に目を向け、神様に信頼しようとしなかったからです。
本当の権威とは立派な言葉や外面で表現されるものではなりません。神様の招きに何も備えることのできない人に、十分な備えを与え、彼らを神の国に入らせることのできる方こそが本当の権威を持っているのです。
3.キリストの権威
①「考え直す」心の方向
イエスの語られた今日のたとえ話とその後の解き明かしの部分の両方には「考え直す」と言う同じ言葉が登場します。正確に訳すとこの言葉は「自分の行為の結果を知って、後で違った考えになる」となります。つまり、祭司長や長老たちは徴税人や娼婦たちがイエスの救いにあずかって、神の国に入る資格を受けたことを見て、自分たちの誤った見解を正し、イエスを信じることが求められていたのです。ところが彼らは最後まで「考え直す」ことができなかったのです。
興味深いことはこの同じ言葉がイエスを裏切ったイスカリオテのユダの記事にも登場するところです。「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った」(マタイによる福音書27章3~4節)。ここでユダが「後悔し」たと表現されているところが原文では今日の箇所の「考え直す」と言う言葉と同じものになっています。
ところが同じ「考え直す」でもユダの場合はイエスの救いにあずかった徴税人や娼婦たちとは全く逆の方向に向かっています。彼はイエスをわずかな金で祭司長や長老たちに売ってしまったことを後悔しています。そしてそれを解決するために彼はまず祭司長や長老たちにその金を返そうとするのです。ところが彼らはユダの願いに「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と答えます。ユダは結局、自分の犯した罪を自分の力で解決することができません。その上で彼は自分で首をつって死んでしまうのです。
確かにユダは取り返しのつかない失敗を犯しました。その失敗は自分の力では決して償いきれないものであったのです。しかし、彼は自分ではそれができないことを痛感しながらも、最後までその解決を神様に求めようとはしていないのです。最初はその解決を祭司長や長老に求め、ついには自分に求めて自滅してしまっているのです。この出来事から考えるとき、私たちにとって「考え直す」という行為は大切ですが、それをどのように処理するかで自己破壊的な「後悔」に終わることもあり、また命に至る悔い改めに導かれることもあると言うことがわかるのです。
②後悔を真の悔い改めに変える力
今日のたとえ話に登場する弟息子は父の言葉に色よい返事をしながらも、父の言葉通りにぶどう園に向かうことがありませんでした。この弟の言動から考えるなら彼の関心は、自分に「ぶどう園に行ってほしい」と願った父に向いていないことがわかります。表面では父の言葉に耳を傾けている姿勢をとりながら、彼の心には父に対する関心が全く欠けているのです。いえ、彼の心にはその命令を発した父の存在する場所は全くなく、自分の願望のみがあったとも考えることができるのです。
一方の兄息子はどうでしょうか。彼は父の言葉にすぐに答えることができませんでした。むしろ、彼もまた自分がその招きにふさわしい者なのか、そうでないのかを迷っていたのかもしれません。しかし、一旦は父の言葉を拒否した彼でしたが、それからも父の言葉が彼の心から消えることはなかったのです。むしろ、父の言葉は彼の心をますます支配し始めます。そしてその力に圧倒されるように兄は「考え直して」、ぶどう園に向かうのです。
「後悔する」ことと「考え直す」ことは同じ言葉で表現され、人間の目には同じような行為に見えます。しかし、その結末は「死」と「命」と言うように大きく違ってくるのです。もし私たちがそこでまだ、自分の力に過信し、自分でその問題を処理することができると考えるなら、それは「後悔」に終わってしまいます。しかし、そこで私たちが自分の無力さを知り、その解決を神様に委ねるなら神様はそれを命に至る悔い改めに変えてくださるのです。
先日、基本教理の学びで病気の息子を癒してくれるようにイエスに願った父親のお話(マルコによる福音書9章)を学びました。この父親は弟子たちが自分の息子を直すことができない姿に直面して、その現実に支配されながら、「おできになるなら私の息子をお癒しください」とイエスに願います。イエスはその不確かな父親の信仰を見破って「『もし、できれば』というのか」と問い返すのです。この言葉に対して父親が語った言葉は「信じます。不信仰な私をあわれんでください」と言う言葉でした。この言葉から私たちは私たちの信仰を支える力は私たちの内側にあるのではなく、主イエスにあること、私たちにはむしろ不信仰な自分をそのままイエスに委ねていくことが求められていることを学びました。つまりイエスは不信仰な私たちを、支えてその信仰を確かなものとしてくださる方だと言えるのです。
同じようにイエスは私たちの「後悔」を命に至る悔い改めに導くことができるお方なのです。私たちには自分の無力を、自分の愚かさを、自分のすべてをこの方に委ねることが求められているのです。イエスはその私たちを喜んで導き、神の国にふさわしい者としてくださる。そのような力を持っておられる方だからこそ、真の権威はこのイエスにあると言うことができるのです。今日のお話はこのように私たちの「後悔」を「真の悔い改め」に導く主イエスこそ真の権威を持っておられる方であることを教えていると言えるのです。
…………… 祈り ……………
天の父なる神様。
私たちの人生には様々な出来事が起こります。私たちにはその意味がわからないだけではなく、この先どうしていいのかもわからないときもあります。しかし、あなたはそのすべてを生かして私たちを神の国の祝福へと導く方であることを信じます。私たちの心をいつもあなたに向かせてください。あなたの御言葉と存在が私たちの心を支配し、私たちが喜んであなたの招きに応えていうことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。