2005.9.4「兄弟を得る」
聖書箇所:マタイによる福音書18章15~20節
15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
1.人の願いと神の御心の違い
①御自身の姿を明らかにするイエス
先日の礼拝では、神の御子イエスが私たちの罪を贖い、私たちに命を与えるために、苦しみを受け殺されるためにこの地上に来てくださったことを学びました。しかし、イエスがこのような救い主としてのご自分の使命を説明されたとき弟子のペトロはイエスを受け入れることができませんでした。それはイエスのこの説明とペトロが救い主に抱いていた願いとに大きなへだたりがあったからです。そこでペトロは弟子として、師であるイエスに聞き従うべきであったにも関わらず、そうしないで逆にイエスを教え戒めようとする失敗を犯してしまいました。
この後、イエスは自分の願望や世の常識に支配されて、神の御心をなかなか理解できない弟子たちを訓練するために時間を用いています。すぐにイエスは数人の弟子を伴って山に登り、そこで彼らに神の子であるご自分の栄光に包まれた本当の姿を示されました(17章1~13節)。それは弟子たちが人間の期待を実現できるかどうかを通してイエスが本当の救い主であるかを判断しようとした間違いを正し、御自身がはじめから持っておられる救い主としての力を弟子たちに教えるためでした。
②小さな存在を愛し慈しむ神
ところで今日の18章の最初では弟子たちがイエスに問うた次のような質問が記されています。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(1節)。弟子たちの論理は、ここでもこの世の常識に縛られています。この世は私たちの能力や力をもとにその順位を決めようとします。言葉を換えて言えば、私たちが何をすることができるかで、その人の価値が大きく変わっていくのです。弟子たちは神様も人間の能力や力をもとにその価を判断しようとするのです。だから、そこには当然、その人の能力に従って誰が偉いか、あるいはそうでないかと言った順位が存在することになります。弟子たちはここで願わくば自分が神様の期待に応えて、天国でよい地位につきたいと考えてイエスに質問したのだと思います。
ところがイエスのこのときの答えはこの世の常識とは全く反するものでした。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(4節)と言うのです。実は当時のユダヤ人たちは人数を数えるときに女性や子供の数を入れませんでした。ですから聖書が「五千人」と言えば、そこにいた男性の数だけを表し、実際にはその倍以上の人がそこにいたと考えることができるのです。どうして彼らがそのような数え方をしたのかと言えば、女性や子供は人間として数えるべき価値を持っていないと考えたからです。つまり女性や子供は神様の期待に答える力を持っていないと思っていたのです。そのような背景の中で「子供がいちばん偉い」と言うイエスの答えは驚くべき言葉でした。神様は何もできない小さな子供のような存在を大切にされている。そこには神様が人をごらんになられる見方が人間の常識とは全く違うことが教えられているのです。人の価値はその人が何をすることができるかで決まるのではありません。神はご自分が造られた人間をそのままで愛しておられ、慈しんでおられるのです。
ですから、今日の箇所の直前に教えられる「迷い出た羊のたとえ」(10~14節)でも、同じような神様の人に対する見方が説明されているのです。迷い出た一匹の羊を探すために、迷わずにいる九九匹の羊をそこに残して出かける羊飼い、その上でその一匹が見つけると大喜びをする羊飼いの姿はこの世の常識とは相反する神様の姿を語っています。商売で言えば採算を度外視して行動するこの姿こそ、私たちを愛してその大切な御子イエス・キリストを地上に遣わした神様の姿だと教えているのです。
2.何を目的として行動するのか
①地獄と孤独
このようにイエスがこれらの箇所を通して私たちに教えるのは世の常識や価値判断から離れて、私たちが神様の御心が何であるかを知り、その御心に従って行動することができるようにと言うことでした。ですからこの同じ前提に立って、私たちは今日の箇所も読む必要があるのです。今日の箇所では罪を犯した兄弟に対して私たち、そして教会はどのような態度を取るべきかが教えられています。私たちの教会の定めている憲法には「訓練規定」という決まりがあり、そこでは教会内で起こった問題を私たちがどのように取り扱うかが記されています。実は今日の聖書の箇所はその訓練規定の原理ともなっている大切なところだとも言えるのです。
日本の有名な漫画「ドラえもん」に登場するのび太くんは自分を常日頃やかましく叱る学校の先生や両親の存在がいやでなりません。自分をいじめる学校の友達も何とかしたいと思っています。そこでドラえもんのポケットから自分が「いなくなれ」と言った人物はすぐにいなくなってしまうような機械を出してもらうのです。のび太くんの願い通り、その機械は自分にとって都合の悪い人間の存在をどんどん消して行ってくれました。ところがどうでしょうか。のび太くんの願い通りに動くその機械はのび太くん以外の人々の存在をすべて消して行き、最後にはドラえもんさえも消してしまうのです。そしてのび太くんはひとりぼっちになって「こんなはずじゃなかった」と叫ぶのです。
宗教改革者と同時期にスペインで活動したテレジアという修道女は「地獄とは絶対的な孤独の状態だ」と語ったそうです。つまり、人の罪は人間と人間との関係を破壊し、切り離していくだけではなく、神様との関係をも破壊していき、私たち人間をひとりぼっちにしていきます。その罪の行き着く場所が「地獄」であるとしたら、そこはのび太くんが経験したような自分以外誰も存在しないところであるとも言えるのです。
②神様と同じように兄弟を見つけ出す
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。
自分に罪を犯す人をどのように取り扱うべきか。それを考えるとき最も簡単な私たちの答えはその人との関係を切り、その人の存在を自分の周辺から消し去ってしまうことです。多くの場合私たちはそのように考え、行動しています。しかし、イエスの答えは私たちの考えとは全く違ったことを語っています。「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。イエスは私たちが兄弟の存在を消してしまうのではなく、その人の存在を得ることが大切だと言うのです。私たちが罪を犯す兄弟を取り扱うときに最も大切なのはその兄弟の存在をどのようにして得るのか、それを目的にして考え、行動しなさいと教えているのです。
先ほど語りましたようにこの前の箇所ではいなくなった一匹の羊を探し出す羊飼いの姿が語られています。ここで「兄弟を得る」という言葉の意味はこの「一匹の羊を見つけ出す」羊飼いの行動と同じ意味で語られていると考えてよいのです。
神様は罪を犯して自分から離れて行ってしまい、ひとりぼっちとなっている私たち探し出すためにイエスを遣わしてくださいました。ここでその神様の御心、行動と同じ原理で私たちが罪を犯す兄弟を取り扱うべきであると教えているのです。イエスは私たちがその兄弟をどのようにして神様のもとに戻すことができるかを考えることが大切だと言っているのです。
3.兄弟を神の光に導く忠告
ここではイエスは最初に問題の当事者である本人がその罪を犯した兄弟に忠告して、それでも聞き入れられなければ、二人三人の証人を連れていき、最後には教会の判断を求めなさいと教えられています。しかし、そこで求められているのはその人の罪を暴き、責め立てることではありません。そうではなく、罪の故に神様から離れ、滅びに向かおうとする兄弟をどうしたら神様の元に戻すことができるのかということがここで問題とされているのです。その目的のために何人もの人が、そして教会がその罪を犯した兄弟に関わっていくべきであると言うのです。
兄弟を得るためにどうしたらよいのか。そこで大切なのはここで語られている「忠告する」という言葉の意味です。ふつう私たちはこの世の常識や自分の経験をもとにして助言を求める人たちに「忠告する」ことがあります。しかしこの「忠告する」という言葉のもともとの意味は「光にさらす」と言うものです。そう考えると世の常識や自分の経験は必ずしも兄弟を「光」の元に引き出すことにはならないと言えるのです。なぜなら私たちは自分自身でもどう生きるべきか迷っている存在です。ですからその私たちの助言はむしろ兄弟を光にではなく闇に導いてしまうことにもなりかねないのです。ですから、ここで言う「光」とは神様の光、神様の御心に照らしていくこととだと考えることができるのです。
イエスは私たちに罪を犯す兄弟に対して、自分の判断や気持ちを言いにいくのではなく、その兄弟を愛し、罪を悔い改めることを望んでおられる神様の御心を教えに行きなさいと語られるのです。その場合に私たちの人間的な忠告は罪を犯す兄弟に対して無力でしかないのです。そしてその兄弟を本当に生かすことができるのは神様のみ業でしかありません。だからこそ、その神様のみ業が働かれるために私たちはその兄弟のために祈り続け、神様の御心を正しく伝えていかなければならないと言えるのです。
4.教会に委ねられた重要なつとめ
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(18~19節)。
イエスはここで弟子たちが担っている重要な使命と、神様から与えられている特権を語ります。そして、この使命と特権は弟子たちだけではなく、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20節)と語られるように、今、イエスの名によって集められているすべての教会に与えられているのです。
何年か前のことです。夏の中高生のキャンプに出かけた私はそこである突発的な事件に遭遇しました。たぶん最後の日の朝のことだと思います。朝食ができるのを待っていた私たちの部屋に下の食堂の方から白い煙が入ってきたのです。私たちが「何が起こったのか」と下の食堂をのぞいてみると、そこは既に白い煙が部屋一面に充満していています。実はその白い煙は消火器の吹き出した粉で、食堂に備え付けてあった消火器をふざけていた子供の誰かが倒して、その結果、辺り一面に消火器の粉が吹き出してしまったのです。問題はそれだけではありませんでした。その消火器の粉がせっかく準備されていた私たちのための朝食すべてにかかってしまって、食べられなくなってしまったのです。結局、その施設の人はもう一度、お店に買い出しに行って私たちのために朝食を作り直してくださり、私たちはいつもより遅い朝食にありつくことができたのです。
確かに私たちの朝食は解決できましたが、その後、問題になったのはいったい誰が消火器を倒してしまったのかと言うことでした。私たちに怒られるのを恐れてでしょうか、誰も「自分がやった」とは言い出す者はいませんでした。そこで委員の一人の先生が「ぼくにまかせてほしい」と私たち教師に申し出ました。彼はそこで子供たちを集めて、聖書を読み、福音書の中からイエスがどのように罪人と接し、その罪を許されたのかを教え始めたのです。そして最後に「自分の犯した罪を認めることは大切だから、これをやった人は私に後で言ってきないさい」と語ったのです。その話を聞いていた私たちは子供が間違って倒した消火器の問題に福音書からわざわざ説教するなんてちょっと大げさじゃないかと正直に思いました。しかし、その先生のお話を聞いた子供は後で「自分がやった」と正直に申し出たと言うのです。今、考えて見るとその先生の判断は正しかったのだなと思えてなりません。もし、あのとき私たち教師が「子供がやったことだ」と言って曖昧にすませてしまったら、おそらくその失敗を犯した子供の心にはその失敗だけが思い出として残るのではないでしょうか。「たいへんなことをしてしまった」。そんな残念な思い出を子供に残すよりは、その失敗を正直に言って許してもらったという思い出を残してあげたいとたぶんその先生は考え、行動したのだと思うのです。
教会は人の犯した罪をあいまいにするのではなく、神の光に照らして、明らかにすべきだとイエスはここで教えます。それはどうしてなのでしょうか。教会は罪を明らかにすることと同時に、その罪を許すためにイエスが十字架にかかられその命を捧げてくださったことを語ることができるからです。どのような罪を犯した人もこのイエスの救いによって、神様との関係を回復することができ、命を得ることができることを確信しているからです。ですからキリストは罪を犯した兄弟を得るために、心を尽くしなさいとここで教えます。その上でその教会の働きが報いられるようにご自分も私たちの教会の群れの中に留まり、働いてくださると約束してくださっているのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様。
罪を犯して兄弟やあなた自身から離れてひとりぼっちの状態にあった私たちのために御子イエスを救い主として遣わしてくださったあなたの御業に心から感謝します。あなたは私たち教会の群れに、赦しの御業を豊かに語るようにと望まれています。特に罪を犯して滅びに向かうとしている人々のために心を傾けるようにと教えてくださっています。どうか私たちの祈りに答えて、あなたご自身が豊かに働いてください。私たちには解決のつかないような問題に対してもあなたは解決の道を持っておられます。そのことを信頼して私たちがあなたの御言葉に従うことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。