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2007.1.21「使命を共有する教会」

コリントの信徒への手紙第一12章26~27節

26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。


1.私たちの教会の使命

①教会を立てるのはイエス

 今日はいつもの礼拝での説教のスタイルとは少し違って、今日の午後に会員総会が開かれますので、そこで提案される教会の年間テーマと年間聖句についてこの場でお話したいと思います。私たちの教会の今年の年間テーマは「使命を共有する教会」です。また、そのテーマと共に選ばれた聖句はコリントの信徒への手紙第一の12章26~27節で、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」というみ言葉です。

 それではまずこの年間テーマに登場する「教会の使命」について考えてみましょう。つまり、教会には固有の使命があると言うことがこのテーマの前提となっています。それではこの教会の使命とは何でしょうか。少し言葉を換えてみるとそれは「教会の目的」と言ってもいいかもしれません。もし、教会が人間の作った単なる集団であるとしたら、その目的はそこに集まる人々の同意によって定められるものとなるでしょう。しかし、聖書は教会を立てられるのはそこに集まる人間ではなく、主イエス・キリストご自身であると教えています。イエス・キリストは「あなたこそ主であり、メシアである」と信仰を告白する信者たちの上に教会を立ててくださると約束してくださったからです(マタイによる福音書17章16~19節)。


②神を礼拝するために

 それではイエスはどうして私たちのためにこの教会を立ててくださるのでしょうか。それはイエスが何のためにご自身の命を捧げられて私たちを救い出してくださったのかと言うことと深く関係しています。私たちは信仰生活のゴールをいつの間にか自分が救われること、この世界が罪と死から解放されることだと考えてしまうところがあります。しかし本当は私たちが救われることは私たちに与えられている大切な目的を果たすための前提条件と言っていいのです。このことをわかりやすく説明するのは、旧約聖書に登場する出エジプトの物語です。

 当時イスラエルの民は移住していたエジプトの地で奴隷として毎日、苦しい日々を送っていました。そこで神様はこのイスラエルの民の先祖であったアブラハムやヤコブとの約束を思い起こされ、彼らにモーセを遣わし、彼らをエジプトの奴隷状態から解放して、自由の身にされようとしたのです。しかし、彼らを支配するエジプトの王の心はかたくなで、容易に彼らを手放そうとはしませんでした。このときモーセはエジプトの王にイスラエルの民を解放してほしいと願いでた目的について「彼らを去らせて、荒れ野で神様を礼拝させるように」と説明しているのです。この言葉は決してエジプト王を欺くための言い訳の言葉ではありませんでした。確かに彼らは神様を礼拝するために、エジプトの奴隷状態から解放されなければならなかったのです。ですからイスラエルの民が約束の地カナンに到着したときも、彼らにとってもっとも大切なことはこの神を礼拝することにあったのです。

 この出エジプトの出来事はイエス・キリストによる私たちの救いを示す、モデルのように考えられています。つまり、私たちがイエスによって救われるのもこの神を礼拝するためであることを教えているのです。そのように考えるとき、このキリストが立ててくださる教会は神を礼拝する者たちのための集まりであることがわかるのです。教会に集められた者はそこで真実に神様と向き合い礼拝を献げます。そしてまだ、その礼拝を献げることができないでいる人たちをさらにこの礼拝に招くために活動しているのです。


③教会を動かすものは神の恵み

 私たちの教会の基本活動方針の一つは「伝道する教会」です。伝道と言うと私たちはすぐにチラシを配ったり、さまざまな集会を開いて、そこに人々を誘い、まだ神様を信じていない人たちに福音を伝え、彼らを神様に導く活動だけを思い浮かべてしまいます。確かにそれも私たち教会に与えられた重要な使命の一つです。しかし、私は伝道の側面でもう一つ重要なことがあると考えるのです。それは私たち自身に対する伝道です。

 私たちの伝道の原動力は神の恵みによっているのであり、私たちの人間的な努力によるのではありません。人間的努力には人をキリストへ導くだけの力はありません。がんばってもすぐにその力は枯渇して、底が現れてしまいます。しかし、神の恵みは無尽蔵で限りがありません。ですから私たちがこの神の恵みによって伝道をしようとするなら、私たち自身が神様からこの恵みを受ける必要があるのです。そしてこれこそが私たちに対する伝道です。この伝道こそ私たちが行う、神様への礼拝の中に表わされています。礼拝は私たちと神様を結びつけ、神様からの豊かな恵みを受ける場所なのです。そしてこの恵みは私たち自身だけでは使い切れないほどに豊かなものなのです。だから私たちはこの恵みを携えて、他の人々に、まだキリストの恵みを知らない人々に伝道することができるのです。

 ですから私たちの教会にとって神様を礼拝することは、その活動の中心であり、命であると言うことができます。そしてそれは言葉を換えれば礼拝は「教会に与えられた使命」であるとも言うことができるのです。


2.賜物をどのように用いるのか

①それぞれの賜物を使う

 私たちの教会は2008年度の教会設立、独立を目指して今活動を続けています。この計画の私たちの教会にとっては確かに簡単なものではありません。私たちは「本当に自分たちはこの計画を実現できるのだろうか」と考えることがしばしばあります。そう考えながら、いつの間にか「誰か、もっと豊かな賜物を持った信徒や牧師がいたら…」と嘆いてしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、聖書は私たちにこのように語ります。

「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(コリント第一12章13節)。

 パウロはここで言っているのです。私たちがイエスを信じて洗礼を受けたのは皆、同じ聖霊の働きを受けた結果であると。そして、その同じ聖霊が私たちの信仰者一人一人の生活を導いてくださるのです。ですから信仰者に間には優劣の差はありません。なぜならすべての者は聖霊なる神のみ業によって信仰者にされているからです。しかも、この聖霊は私たちの信仰生活を維持し、私たちが教会を立てるためにそれぞれに賜物を与えてくださっていると言うのです。パウロはこの聖霊が与えてくださる賜物によって私たちは教会を立て上げるようにと集められていると教えるのです。ところがこの賜物について私たちの持つ二つの誤った存在します。

 一つは主イエスが語られたタラントのたとえ(マタイによる福音書25章14~30節)に語られているものです。このたとえに登場する一人の僕は主人から預った1タラントを地面に埋めてしまいます。他の二人の僕はそれを使って、豊かな利益を生み出していますが、彼はそうしませんでした。神様が私たちのために与えてくださっている賜物を使わないと言うことはこれと同じです。必ずそれを使えばそれに見合った豊かな実りをもたらすはずの賜物を地面に埋めてしまうことは愚かなことです。ですから私たちが教会を立てるときに大切なことは自分に与えられている賜物を神様のために使うことであると言えるのです。なぜなら神様は私たちに与えられた使命を遂行することができるだけの賜物を私たちに与えてくださっているからです。


②多様な賜物が一つの目的のために

 賜物に対してのもう一つの誤った態度は、私たちの教会の年間聖句として引用されているコリントの信徒への手紙の中に登場しています。このコリント教会には様々な問題がありました。そしてその中には今、私たちが取り上げている賜物に関する問題も含まれていたのです。こともあろうにコリントの教会ではこの賜物を巡って、教会に集められた信徒たちが互いに争い合うということが起こったのです。

 その原因は彼らがそれぞれに神様からいただいている賜物の間に優劣があると考えていたことにありました。そのために特定の賜物を持った人は「自分はこの教会で重要な人物なのだから、それにふさわしい取り扱いをされなければならない」と主張しました。そうなると他の人もその特定な賜物を自分のものにして、自分も大切も同じように取り扱われたいと考えてしまいます。また、努力してもその特定の賜物を得られないと考えている人は自分が何か劣った者のように考えてしまう傾向があったのです。

 この問題は神様がそれぞれの人に与えてくださる賜物の多様性を認めないで、むしろその賜物の違いの間に優劣があると考えてところから生まれてきます。だからパウロは賜物の問題を人間の体の関係でたとえてコリントの信徒への手紙の中で教えているのです。パウロの説明によればそれぞれが異なった体の一部分であり、その機能もそれぞれ異なります。しかし、それぞれの部分がそれぞれの機能を果たすからこそ、実は一つの体が維持され、成長することができるのです。そして教会の場合も同じだと教えるのです。私たちのそれぞれの賜物は違いますし、その賜物によって実現するものも異なります。しかし、その違いは一つの教会を立て上げるために神様が与えてくださったものなのです。だから私たちはお互いの働きを尊重し合い、教会のためにその賜物を用いていくことが大切なのです。そうすれば、私たちの教会は必ず神様から与えられた使命を果たすことができるようにされるのです。


3.改革され続ける教会

 さて、私たちの所属するこの地上の教会は別名で「戦う教会」と呼ばれています。私たちの教会はこの地上に存在する限り、様々なものと戦い続けなければならないからです。その意味で、この地上には完全な教会は一つも存在しないと言うこともできます。つまり使徒パウロが立てたコリント教会にも様々な問題があったように、私たちの教会にも様々な問題が存在するのです。

 私たちの教会の先輩たちは私たちの教会を「改革派教会」と呼びました、それは「聖書のみ言葉によって改革され続ける教会」と言う意味を持っていると私は教わったことがあります。つまり私たちの教会が戦い続ける教会であることを表わすためにこの名称が用いられているのです。それでは私たちの教会の戦いの相手とはいったい誰なのでしょうか。それはおそらく、自分自身が持っている誤りと戦うことではないでしょうか。人は絶えず自分を基準に信仰生活や教会のことについて判断してしまいます。そのため知らず知らずに私たちは聖書の教えからはずれた信仰生活を送り、聖書の教えとは違った教会を作り出す傾向があるのです。中世時代のカトリック教会はこの人間の誤りによって変質してしまった教会であったと言えるのです。ですからそのカトリック教会を批判した宗教改革者たちは、しかし、同時に自分たちも同じような誤りを犯す可能性がある人間であることを見抜いていたのです。

 そのために彼らは自分たちの教会がこの誤りから免れて、絶えず正しい姿に立ち返ることができるようにと様々な遺産を残しました。私たちが教会で学ぶ教理はその一つあると言えます。私たちはこの教理を通して自分の信仰が正しい聖書の解釈によって導き出されたものであるかを判断することができます。そしてもし、自分が勝手な解釈をして、誤った信仰理解を持っているなら、教理はそれを気づかせ、正しい道に私たちを戻してくれるものなのです。

 長老主義政治と呼ばれる教会の制度もそれと同じ役目をは果たしています。教会の政治は教会が聖書の基準に従った教会であるように守り導くものです。もし教会が聖書の基準から逸れてしまうなら、教会はイエスから与った天国の鍵を失ってしまうことになります。それでは人々を神様に導くことができなくなってしまいます。ですから私たちが神様から与えられた使命を果たすために、この長老主義政治はとても大切なのです。そこで、私たちの教会は長老主義政治に基づいた聖書的教会であることを目指して、教会作りをしたいと願っているのです。


4.その答えは私たちの信仰にある

 先日、『Dr.コトー診療所』というテレビドラマを見ていてとても興味深いセリフに出会いました。このドラマの主人公の医師は自分の働く島の診療所を訪れる様々な人生を背負った患者を、その人生ごと受け入れようとするような静かな情熱を持った青年医師です。しかし、この物語では彼とは対照的な医師も登場します。彼は外科医に問われるのはその正確な技術や判断であり、その他のことを考えることはその正しい判断を鈍らせるものにすぎないと主張するのです。物語が進むにつれてこの医師がどうしてそのような考えを抱くようになったのか、その秘密が明らかにされます。彼は病気の自分の妻を助けたいと言う思いから、周囲の反対を無視して自分でその手術を執刀して失敗してしまったのです。その手術の結果、その奥さんは意識の戻らない植物状態のようになってしまったのです。彼はその手術の失敗の原因が自分が抱いた感情のせいであったと自分を責め続けていたのです。そして彼は主人公のDr.コトーに植物状態になった自分の妻を示して「妻は生きていると思うか」と尋ねるのです。

 この問いに物語の後半でDr.コトーはこう答えています。「人として答えるなら、あなたが奥さんに生きていてほしいと願う続ける限り、奥さんは生きています。」「医師として答えるなら、あなたが奥さんを治療し続ける限り、奥さんはやはり生きていると思います」。このコトーの答えのポイントは「自分の妻が生きているのか死んでいるのか、その答えを持っているのはあなた自身である」とその質問を本人に投げ返したことです。

 「本当に私たちの教会は独立できるのだろうか」。そんな問いを私はたびたび聞くことがあります。そして私自身もそのような問いを心に抱くことがあるのです。確かにこの問いに対して私たちはいくつかの客観的データーを示して説明することができるかもしれません。しかし、それは本当の意味でその問いに対する答えとはなりえないのではないでしょうか。

 むしろ答えは私たちの持っている信仰にあるのではないでしょうか。そこにだけ本当の答えは隠されているのです。神様がこの教会を立てるために私たち一人一人を集めてくださっているのです。そしてその教会を立てるために神様は私たちに一人一人に賜物を与えてくださっているのです。それを信じて歩んで行くことが私たちとって最善の答えであると言うことができるのではないでしょうか。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 私達をこの教会に集めてくださりありがとうございます。私達に聖霊を遣わして私達を信仰に導いてくださったように、私達の教会を導いてください。神様が私達一人一人を通して豊かに働き、あなたの教会が形作られますようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


2007.1.21「使命を共有する教会」