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2007.2.18「報いはありません?」

ルカによる福音書6章27~36節

27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならい。

30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。

31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。

33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。

34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。

35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


1.敵を愛しなさい

①消化不良を起こす教え?

 高校生か大学生の頃であったと思います。浄土宗の開祖と言われる法然上人の伝記を読んだことがあります。彼は今の岡山県の地方に住む役人の子供として生まれました。ところが、彼が幼かった頃、父親は勢力争いの犠牲となり、敵の刃にかかって死を遂げます。その父親の臨終の際、まだ幼かった法然を呼んで「自分の敵を討ってはならない。そうすれば、やがておまえが敵の親族から自分たちの敵としてねらわれるに違いない。それではいつまでも争いは絶えることがなくなってしまう。お前は誰もが安らかに生きる道を求めてほしい」と遺言を残し、彼に僧になる道を勧めたと言うのです。

 曾我兄弟や赤穂浪士のもてはやされる日本の文化の中で、法然の父の残した遺言は例外中の例外と言えるものかもしれません。しかし、日本に限らず世界のあちらこちらで報復に対する報復という連鎖のもとに今も争いは絶えることがありません。そこには本当の解決はないと考えながら、私たちは自分を害する敵に対する憎しみの炎を消すことができないのです。

 「敵を愛しなさい」と言うイエスの言葉は聖書を読むキリスト者以外でも広く知られている言葉の一つだと言えます。ときにはこの言葉を信仰のない人々がキリスト者をからかうときに使うこともあるくらいです。私たちはこの主イエスの言葉に人類を争いの連鎖から救い出すすばらしい教えがあると理解しながらも、もう一方で、どうしても自分の信仰生活の現実とは相容れないような、まるで消化不良を起こす食べ物のようにこの教えを感じることがないでしょうか。この言葉はいったい、私たちの信仰生活において何を教えているのでしょう。今日はイエスがこの言葉を通して私たちに何を求めておられるのかを学んでみましょう。


②敵のために祈れ

 このイエスの言葉はルカの福音書の中で先日学びました、イエスの「平野での説教」の一部として記録されています。まずイエスは27節から30節で自分に害を加えようとする敵に対して、その行為を進んで受け入れるばかりではなく、むしろ積極的にその敵を愛しなさいと教えます。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(28節)とイエスは勧めているのです。

 普通、敵に抵抗しない、自分でその敵に復讐しないで、神様にそれを委ねると言う場合には、神様が自分に代わって自分の敵に復讐してくださること、正しい裁きを下してくださることを求めています。しかし、このイエスの勧めではその敵への復讐を第三者に委ねるのではなく、「祝福を祈りなさい」、「祈りなさい」と繰り返し語られるのです。これは神様に自分に代わって復讐してくださることを求めるのではなく、神様がその敵の罪を許してくださるように、彼が裁きから免れるようにととりなして祈るようにと勧めているのです。

 これは核兵器を作って、周辺諸国を脅かしてくる独裁国家に、エネルギー支援をすること以上に危険なことではないでしょうか。いったいそれでは、私たちはどのようにして自分を敵の手から守ることができるのでしょうか。イエスはこの勧めの結論のように31節で「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と言う『黄金律』と呼ばれる教えを語られます。この黄金律はこれもまた大変に有名で、セールスマンの本にまで紹介されるほどです。

 ところが、どうして「敵を愛せ」と言う言葉にこの言葉がつながってくるのか。少し理解に苦しむところがあります。私たちは「誰かの頬を打ちたい」と思っているのでしょうか。誰かの上着をはぎ取りたいと願っているのでしょうか。相手の持ち物を不当に奪い取ろうと考えているのでしょうか。「あなたも人にそのようにしてあげなさい」言われるのですから、私たちにまずその心当たりがなければ、この言葉は理解できないことになります。

 マタイはこのイエスの黄金律を7章12節に記しますが、この場合、彼は「熱心に求めなさい、神様は求めるものに必ずよいものを与えてくださる」と言う教えに続けて引用しているのです。つまりここでは私たちが神様に自分の祈りを聞いてほしいと願っているように、あなたも人の願いに耳を傾け、それに答えてあげなさいと言う結論になります。ところがルカの箇所では明らかに相手が望んでいる願いは不当な願いであり、自分も生存権を脅かすようなものなのです。こんなことを私たちも相手に願っていると言えるのでしょうか。どうも、ここだけではイエスの言葉の真意を読み解くことができません。


2.報いを求めてはならない

① 敵はどうして生まれるか

 イエスはこの言葉に続けて32節から34節で「報いを求めるな」と言う教えを繰り返し語ります。報いを求めて何かをすることは「罪人」、つまり神様を信じず、神様との関係を絶たれた人たちでさえ考えることだと言っているのです。「罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである」(34節)と語られているからです。どんなに口先では「プレゼントです」と言っても、それはただで相手にあげたのではなく、それ相当なお返しが帰ってくることを期待して「貸している」にすぎないと言うのです。

 このように前半部分では「敵を愛しなさい。報復してはならない」と勧めるイエスは、この部分で報いを求めて善行を施してはならないと語っているのです。つまり、このイエスの言葉は敵に報復したいと言う願いと、報いを求めて他人に善行を施すことには深い関係があると語るのです。そしてそれは結局、コインの裏表のように同じことを語っていると考えることができるのです。

 ある説教家はこの部分を解説しながら、「私たちの敵はどうして生まれるのか」と言うことを問うています。私たちの本当の敵はどこか私たちの遠くに存在するのではなく、私たちの生活と深く関わりを持つところにこそ存在しているのではないでしょうか。そしてその多く場合、私たちの投げかけた好意に対して、相手がそれを無視するか、あるいは意外な答えを投げ返してくるところで私たちの敵は生まれてくるのではないでしょうか。「どうして恩を仇で返すようなことをあの人はするのだろうか」。つまり私たちにとって期待通りの答えを返す人は味方であり、そうでない人は敵であると言うことになるのです。


②激しい葛藤の末に

 死の準備教育についての日本での第一人者である上智大学のアルフォンス・デーケン神父はこのイエスの「敵を愛しなさい」と言う言葉にまつわる、ご自身の思い出をその著書の中で語っています。第二次大戦末期、デーケン神父の家族はドイツ人でありながら、ナチの支配に抵抗する活動に加わっていました。ですから彼らにとってドイツが敗北し、町に連合軍がやってくることはたいへんにうれしい知らせだったと言えるのです。そこで、デーケン神父のおじいさんは白旗を掲げて、町にやってくるアメリカ兵を歓迎しようと外に飛び出しました。ところが、そのおじいさんが幼かったデーケン神父の前で、アメリカ兵の銃に撃たれて殺されると言う出来事が起こったのです。

 自分たちをナチの支配から解放するために助けに来てくれたと思っていたアメリカ兵に、祖父を撃ち殺されてしまったデーケン少年は、大変混乱したと語っています。どうして「こんなことが」が起こったのかと悩み、祖父を殺害したアメリカ兵への憎しみがわき上がります。しかし、彼は小さなときから敬虔なカトリック教徒の家族と共に過ごし、「敵を愛しなさい」と言うイエスの言葉を何度も教えられてきていたのです。この言葉が幼心にも強く刻まれていたデーケン少年はさらに葛藤せざるを得なかったと言います。アメリカ兵をどのようにして迎えるべきか。彼は悩み続けました。そして最後の最後に、ナチの残党がいないかどうかを調べるために自分の家の中にやって来たアメリカ兵に彼は「ウエルカム」と語りかけたと言うのです。

 もし、彼が敬虔なカトリック教徒の家に生まれなかったとしたら、その家族がイエス・キリストを信じていなかったとしたら、デーケン少年は自分の祖父を殺したアメリカ兵を憎むだけでよかったのかもしれません。しかし、彼がそうできなかったのは彼の心にキリストの言葉があり、それを語ったキリストの存在が彼を支配したからではないでしょうか。そのような意味で、このイエスの言葉を巡って葛藤し、また行動しようと願うのは、私たちのイエスが支配し、またその言葉を私たちの心に刻んでくださっている証拠だとも言えるのです。


3.預言者として生きる

①天の報い

 イエスはこの教えの結論の部分で次のような言葉を語ります。

「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」(35節)。

 私たちはすぐに考えます。私たちがイエスのこの言葉に従って、敵を愛したら、報いを求めず相手に善行を施したら、その相手はどう変わるのかと…。はたしてそのとき敵はどのような態度を示すのかと…。またデーケン少年が許したアメリカ兵はその後どうなったのかと…。しかし、イエスは「そのようなことを当てにしてはならない」とここで語るのです。そして私たちの目を目の前の敵から、天の父に向けるようにと促されるのです。天の父がたくさんの報いを与えてくださる。いと高き方の子、つまり私たちを神の子としてくださるとイエスは教えられます。しかし、イエスは続けてこうも語ります。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」。またこの後の36節にも「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と語っています。

 私たちが敵を愛し、相手に報いを求めないのは、私たちが天の報いを受けるためだと考えてしまいがちですが、このイエスの言葉は違うことを語っています。「あなたがたの父」つまり、私たちの父なる神が敵を愛し、報いを求めずに恵みを施してくださる方であること、だからあなたたちも同じようにしなさいと教えられているのが分かるのです。どうやら天の報いは敵を愛するための本当の理由ではなく、むしろおまけのようなものと考えたほうがよいのではないでしょうか。つまり、私たちは天の父なる神様の御心に従い、その御心が実現されることを願って、敵を愛し、報いを求めず善行を施すべきだと教えられているのです。


②福音に敵対するものへの応答

 この文章のはじめに「しかし」と言う言葉が出てきます。つまりこのイエスの言葉は前に来る文章を受け継いで語られていることが分かるのです。「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」(26節)。イエスは私たちに他人や自分の期待に応えるために生きる偽預言者ではなく、神の御心に従って、その言葉を伝えることを何よりも喜びとした預言者のように生きなさいと勧めています。そしてそこにこそ私たちの幸いがあると教えられたのです。つまり、今日の箇所はこの預言者としての生き方を貫く際に起こってくる出来事に対して私たちはどのように対処すべきかと言うことが教えられていると言ってもよいのです。

 ですから、ここに登場する敵とは福音に敵対して、私たちの信仰を迫害しようとする人々であり、報いを求めるなと言うのは、福音を伝えたのにそれにふさわしい応答を返さない人々のことを言っていると考えることができるのです。ある説教家はここでは「自分にとってまったく心当たりのない事柄が語られている」と言っています。普通、私たちの敵はそれが言いがかりにしても、私たちの犯した何らかの行為に腹を立てて、そのために私たちを攻撃してくることが多いはずです。その場合、この攻撃は私たちに根拠を持った、心当たりのある行為です。しかし、ここでの敵の攻撃は、そのようなものではなく私たちには全く根拠がない、心当たりの見あたらない攻撃なのだと言うのです。つまり、この行為は私たちにではなく、私たちの主イエス・キリストに対する攻撃です。そして私たちの神に対する攻撃なのです。そしてこの敵に報復してはならないのは神様の御心が「恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」と言うところにあると教えるのです。イエスはその神の憐れみを私たちが敵を愛することで、この地上で現わして行くようにと勧めているのです。

 そう考えるとこの教えは人間の争いごとや、戦争をなくす平和への道を教えているのではなく、私たちが神様に選ばれた預言者として、その御心をこの地上に忠実に伝えるための方法を教えていると言うことになるのではないでしょうか。日本では「和を以て貴しとなす」と言う教えが古から存在しています。しかし、イエスのこの教えは争うことをやめて、仲むつまじく暮らしなさいと言っているのではないのです。どこまでも神様の御心を私たちが求め続け、そのことが地上に現れるように願い行動することを教えているのです。なぜなら私たちがどんなに敵におもねっても神の御心が蔑ろにされるところに、真の平和は実現されないからです。

 この福音書を最初に受け取った人たちは前回も学びましたように、信仰の故に迫害を受け、様々な困難の中に生きていたと考えることができます。そのような中で彼らは、何を一番大切にし、何を追い求めるべきかを真剣に考えざるを得ませんでした。そしてルカはイエスのこの言葉を通して、敵に対する安易な妥協ではなく、彼らに進んで神の御心、福音を示すことが大切だと教えているのです。

 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。それは簡単な言葉ですが、実はこの言葉で一番問題なのは、自分が人に何をしてほしいのか、神様に何をしてほしいのか分かっていないと言うところにあります。イエスの弟子たちは同じ疑問を持ちながらあるとき、「私たちは神様に何を祈り求めたらよいのか教えてください」と願いました。そのときにイエスが教えられた祈りが、私たちがいつも祈っている「主の祈り」です。「み名が崇められますように。み国が来ますように。御心が天で行われるように、地上にでも行われますように」。今日のイエスの言葉も私たちがこの祈りの通り、神様の御心を求めることが私たちの信仰生活の中で最も優先されることを教えているのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神様。

 あなたの敵を愛し、彼等のため祈りなさいとあなたは教えてくださいました。私達はこの言葉の故に悩み、苦しむことがあります。この言葉に従おう願えば願うほど、自分の無力さを感じます。しかし、あなたはそのようにしていつも私達の心を支配し、私達を導いてくださることを覚えて感謝します。私達がいつもあなたを証し、あなたの御心が実現されることを最大の関心事と考え生きることができようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


2007.2.18「報いはありません?」